第参話 上には上がいる
莉緒がいなくなってから数年後、小さい娘は隣の里へ嫁に行った。残されたトラは男と二人だけになった。男は家に居る人間が自分だけになり寂しいのか、よくトラに話しかけるようになった。餌も欠かさずトラに与え、大分性格も丸くなった。
トラは家の鼠をとらなくなった。そもそも家に鼠が寄り付かなくなっていたのだ。家の外に出たトラは毎日のように他の猫と喧嘩した。気に入らない奴がいれば威嚇し、歯向かってくる奴がいれば容赦なくぶっ飛ばす。大柄のうえ怪力で、鼠取りで鍛え上げられた運動神経。どこの猫もトラには敵わなかった。
一方で、トラは弱者には優しかった。子猫がいれば遊んでやり、動くのがおっくうになった年寄り猫がいれば餌を分けてやった。トラは猫達から人気者になった。そして弱者を助ければ皆が自分についてくることを知った。
あくる日、里の町中で騒ぎがあった。何事かと見てみれば、人間の子供が一人野良犬二匹に襲われていた。回りにいた人間達は誰も助けられなかった。追い払っただけでも御犬様に歯向かった罪で御縄になってしまうと思っていたからだ。それに子供は役人の子供、むしろどうするのかと皆、成り行きを遠巻きから見ていた。
そんな中、民家の屋根の上から飛び降り、子供と野良犬の間に割って入った者がいた。
トラだ!
トラは人間の子供を助けようという正義感よりも、むしろ闘争本能で飛び出した。もう同じ猫相手の喧嘩は飽きていた。ならば自分より一回り大きい犬ならどうかと腕試しがしたかったのだ。
生意気にも自分たちの前に現れた猫に、野良犬の一匹が飛び掛った。トラは更に高く飛び上がり、野良犬の首に嚙みついた。吠えながら野良犬は、トラを振り払おうと必死に暴れる。もみくちゃになりようやく野良犬を離したトラは、丁度目の前にあった野良犬の鼻めがけて爪を立て、思い切りぶっ飛ばした。これには堪らずキャンキャンと吠えながら野良犬は逃げて行った。もう一匹もそれを見て、その場から後を立ち去った。
野良犬が居なくなると、人間たちはワッとトラの周りに集まった。子供の親も大層喜び、本来御犬様を乗せる駕篭にトラを乗せ、集落中を練り歩かせた。猫も人間も自分を称える光景にトラはまんざらでもなかった。
──誰も俺には敵わない。この里は俺の天下だ!
家に戻ると男に大層褒められ、役人から貰った鯛の尾頭付きを馳走になった。その日トラは大の字で寝転がると、満足げに目を閉じた。かつて名君と称えられた幕府の将軍は生類憐みの令を出した途端、人間からうつけと囁かれるようになっていた。そんな事情は当時のトラにはどうでも良かったのだが、トラにとっては変わらず名君であると思ったには違いなかった。
数か月後、家から男がいなくなった。いくら待てども帰ってこない。トラは首に掛けていた鈴を取ると、餌を与える人間がいなくなった家に別れを告げた。男が山の中で死んでいたのを大分後になってから知った。
野良となったトラは、里中の集落という集落を転々とした。猫は皆自分にうやうやしく接し、野良犬は自分を見るなり避けて行った。人間たちは自分を見ると「この猫には縄張りがないのか」と驚いた。
人里での暮らしに飽きたトラは、あくる日遠出を試みた。普段いかない南方へ、まだ見ぬ物を求めて山を歩いた。気づけば水戸藩を離れ、隣の
猪だ!
流石に魂消げ、一歩退くトラ。だが見るとその猪は手負いの様で、至る所から血を流していた。一瞬猪はトラに気を取られ立ち止まったが、それどころではないとすぐに走り去っていってしまった。
──! 逃がすかっ!!
これはしめたものだ! 無傷の猪ならまだしも、手負いなら自分でも仕留められるかもしれない。猫が野兎や鼬をしとめることはあるかもしれないが、流石に猪をしとめた猫などどこの国にもいないだろう。天狗になっていたトラは手柄欲しさに夢中で猪を追い掛けた。
疲れが見え始めた猪は瞬く間にトラに追いつかれた。血がにじんだ背中に飛び乗り、トラは思い切り噛みついて引っ搔いた。
ギィィィィィ────ッ!!!
凄まじい力でトラを振り飛ばす。トラは宙返りをすると再び猪に挑む。何度も引っ掻き、何度も噛みつく。
猪も必死だ。何度も向かって来るトラに突進し、突き上げ、踏みつけた。鋭い牙で噛みついた。それでもトラは諦めない、少し休むと何度も猪に挑んだ。
そしてついに決着がつく。猪は渾身の頭突きをかわされ、大岩にぶつけて動かなくなった。
──はぁ、はぁ、はぁ……! …やった! やったぞ!
トラはボロボロだった。毛はボサボサで、猪と同じように至る所から血が流れた。骨も何か所か折れているかもしれない。だが体の痛みより強敵を倒した喜びが勝った。まるで野犬の様に、まるで人間の武士の様にトラは勝利の勝鬨を上げた。
ザザッ!
ボタッ
──何だ?
勝鬨を上げ獲物に近づこうとしたトラは、後ろに何かいるのを
──蛇か?
始めは真っ黒な蛇が木の上から降って来たのだと思った。だがそいつは違った。すくりと頭を
──妙な蛇だ。が、丁度いい、こいつくらいなら今でも殺れる。
トラは漆黒の蛇に向かい、背を屈めると同じように威嚇し始めた。さてこいつをどうやってしとめよう。いつもなら頭のすぐ下を狙うが翼が邪魔だ、ならば尻尾の先を掴んで振り回してやろうか。
トラは頭を狙う振りをして、蛇の尻尾の先へと飛びついた。しかし蛇は瞬時に飛び退き、羽ばたいて傍にあった木に絡みついた。
──あっ!
恐ろしく、見た事も無い位に素早い相手だった。蛇は素早くジグザグに飛び、トラの後ろに回り込み噛みついた。
──ちっ小癪な!
蛇を振り解こうとしたトラだが体に力が入らない、毒だ。
黒い蛇を目の前に、トラの体は崩れ落ちた。
ところ変われば敵も変わる。トラは知らなかったが相手はただの蛇では無かった。ケノ国妖怪『鴉蛇』、妖怪の中でもかなりの手練れだった。
──この俺が……、俺はこいつに殺されるのか……。
蛇の毒で錯乱し、
『……なんだ、ただの猫か』
薄れゆく意識の中、確かに人の声を聴いた。
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