第弐話 生きることと別れと
猫は暫く家で飼われることとなった。突然子を失い一匹だけ戻って来た我が子を見た親猫は、始めは
親猫は教育熱心でもあった。まだ乳離れもしないうちから我が子に鼠取りを教えようとする。鼠だけでなくモグラやスズメもとってきて、とったら人間に見せる様に教え込む。見せたら食ってもよいが、人間が飯をくれることも教えた。ただし、鼠をとらないと飯を貰えず追い出されることも付け加えた。この理屈が子猫はよく理解できなかった。なんとなく理解できるようになるまで何年もの月日を要した。
この人間の家には娘が二人いた。大きい娘と小さい娘、二人とも親猫の目を盗んでは子猫と遊んだ。始めは撫でられる程度だったが、月日が経つと抱き上げられたり、人間の赤子に見立てて負ぶさられたりした。ぬくもりが心地よく、子猫は嫌がらなかった。ただ負ぶさられたときに帯の紐をきつく結ばれると苦しかった。
子猫が乳離れしたある日、親猫は他の家へと貰われていった。親猫は名残惜しそうにニャーニャーと鳴いていた。この時、子猫は親との別れを悟っても、さほどつらいとは思わなかった。いつも自分と遊んでくれる娘たちがいたからだ。
しかしその日の夜にもなると、親がいない寂しさが襲ってきた。家の中を走り回り、ニャーニャー鳴くも親はいない。喧しいという罵声が男から浴びせられた。
──チリン チリリ…
突然の聞き慣れない音に子猫は反応する。見上げると娘たちが子猫を見ていた。子猫は目の前に転がっていたそれを試しに触れた。
──チリチリン…
心地よい音で聞いていて飽きない。これは『鈴』というらしい。夢中になって蹴とばすと音が鳴り、娘たちは笑った。子猫は疲れて寝るまで鈴で遊んだ。
やがて子猫はトラという名を貰った。
二人いた娘だが、トラは特に大きい方の娘といる時が楽しかった。あくる朝のまだ日も登らない頃、大きい娘はトラを抱くと一人山に登った。普段里の人間はこの山へは近づかない、危険だからだ。しかしこの娘はちょくちょくこの山へ一人で来るのだという。
娘の名は
大分山を登った頃、日の出が訪れる。
「ほら、見てみな」
開けた高い場所からは里が霞に覆われていて、遥か向こうから日が出ようとしていた。トラは驚き、何事かとただじっと見ていた。
「すごいだろ。あたしが見つけたんだ」
どこまでも広がる大きい光景、だがトラは莉緒が嬉しそうに笑っているのが何より嬉しかった。
それから暫く経ったあくる日の夕方、莉緒は顔に泥をつけて帰って来た。名主の息子と取っ組み合いになったらしい。莉緒は気の強い娘で自分が気に入らないことがあると誰とでも喧嘩した。男は青くなり莉緒に向かって怒鳴り散らす。莉緒はそれを黙って聞いていた。小さい娘は横でただ泣いていた。トラは煩いので外へ飛び出した。
「今から名主様んとこ謝り行くど!」
「誰が行くか! 悪いのは名主んとこの馬鹿せがれだ!」
遂に言い返した莉緒は男とつかみ合いになる。小さい娘の悲鳴声が聞こえた。
トラは事の成り行きをじっと外から見守っていたが、意外な形で場が治まる。
『御免!』
がらりと戸を開け、見知らぬ人間が入って来た。名主の使いか思われたが、どうやら違うらしい。この人間は莉緒が喧嘩をする様の一部始終を見ていて、それから後をつけて来たらしい。
──誰だこいつは? 知らない奴だぞ?
妙な雰囲気になった家の中を隙間からじっとトラは見ていた。聞き耳を立てていたが、何やら難しい話でよく分からなかった。やがてその人間は外へ男を連れ出しどこかへと去ってしまう。娘達だけになりトラは家の中へと入った。家の中では小さい娘が莉緒にしがみ付いて泣いており、莉緒はそれを
「今日はもう寝よう。トラ、お前もおいで」
横になる娘二人に挟まれてトラは体を丸めた。小さい娘は暫く泣いていたが、やがて静かになる。それを確認した莉緒はトラを自分の傍へ寄せた。腕の中にトラを抱いた莉緒だが、突然小刻みに震え出す。
──莉緒、どうした?
驚いていると頭に雫が降って来た。どうした莉緒? 一体何があった?
トラは何故莉緒が悲しんでいるかがわからない。ただ自分もつられて悲しい気持ちになった。
次の日の朝、いつもと違う雰囲気を受けて飛び起きるトラ。昨日来た妙な出で立ちの人間が再びやって来た。こんどは男ではなく莉緒を連れて行こうとする。家の外では男と小さい娘が見送っていた。莉緒は人間に黙ってついて行く。トラは飛び出し慌てて後を追う。とても嫌な予感がした。
──莉緒! どこへ行く?!
母と別れた時の感情が再び込み上げて来た。
間違いない、もう莉緒はここへは戻らない!
──行っては駄目だ! 行かないでくれ!
ニャーニャーと鳴きながら必死に追いかけるトラ。
気が付いた莉緒は振り返ると、追いかけて来たトラを抱き上げた。
「ごめんね……お別れなんだ」
……ああ、やはり。トラは激しく鳴き暴れた。莉緒はトラを強く抱きしめた。
大人しくなるまで暫く抱いていた莉緒はやがてトラを地面へと下ろす。
──チリン チリン
鈴の音。莉緒はトラの首へかけると頭を撫でる。
「お前は強い子だろ? あたしも強く生きる。だからトラ、強く生きなよ」
もう莉緒は泣いていなかった。立ち上がると人間と供に道を歩いて行く。
どんなにトラが鳴こうが、二度と莉緒が振り返ることは無かった。
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