第2話 五街道

 五街道というと「江戸時代に出来たのだろう。」と思われる方が多いことと思う。しかしその原型は、はるか以前の律令時代にまで遡る。


 日本において律令制が導入されると、行政区画として五畿七道が定められ、その七道を結ぶ街道が『大路』、『中路』、『小路』に分けて整備された。

 この整備で、30里(16km・・・律令時代の1里=約533m)毎に『駅』が設けられたといわれている。この時整備された街道が次の通りだ。


 1東海道 中路 (本州中央部の太平洋沿岸を三重から茨城に至る)

 2東山道 中路 (本州内陸部を市がから青森まで至る)

 3北陸道 小路 (本州日本海側を京都から新潟まで至る)

 4山陽道 小路 (本州日本海側の西部を京都から島根まで至る)

 5山陽道 大路 (本州瀬戸内海側を兵庫から山口まで至る)

 6南海道 小路 (和歌山県加太を経て四国へ至る)

 7西海道 小路 (九州各地を結ぶ)


 日本各地の地方の名称や交通網の名称などは、この五畿七道に由来しているところが多い。

 江戸時代に入ると、徳川幕府は『江戸日本橋』を起点とした街道の整備を行っている。


 1東海道  (1624年(寛永元年)開通)

 2日光街道 (1636年(寛永13年)開通)

 3奥州街道 (1646年(正保3年)開通)

 4中山道  (1694年(元禄7年)開通)

 5甲州街道 (1772年(明和9年)開通)


 江戸幕府の整備では、1里毎に『一里塚』を設けたほか、一定間隔で宿場を置き、江戸周辺は道中奉行の管轄下に置かれた。この五街道の他に、水戸街道、佐倉街道(成田街道)、を含めて『七街道』と呼ぶこともある。


 さらに五街道の他に『脇往還』(枝道や古街道)が整備され、一里塚や宿駅が設けられた。

 中原街道は、東海道の脇街道で、江戸と平塚をほぼ直線で結び、平塚方面から江戸への最速ルートとして庶民が多く利用した。中原街道は、江戸を下ると多摩川を渡る前に現在の田園調布本町辺りで坂を下る。江戸時代には『沼部大坂』と呼ばれていたが、最近は『桜坂』として名を馳せている。

 新幹線で東京から大阪に向かうと、多摩川の鉄橋を渡る直前の右手方向にあり、現在は閑静な住宅街になっている。

 各地の桜の名所に『桜坂』が存在するが、福山雅治の名曲『桜坂』は、ここ中原街道の桜坂を唄ったものだと言われている。桜の咲く季節に訪れると、切通しを下っていく坂の両側は見事な桜のアーチがかかり、あたかも桜色のトンネルを抜けていくようだ。


 その他、川越街道は、中山道の脇街道で、中山道板橋宿から分岐して上州藤岡宿へと至る。

 また千人同心街道は、八王子千人同心が日光東照宮警備のために八王子から日光へ至る40里(160km)を整備したもので、別名日光街道とも呼ばれている。


 江戸時代は、交通手段に『船』はあるものの、ほぼ歩いて移動することが中心だった。1日の平均的な移動距離は10里というから、ほぼ40km。時速4km程度で歩いていたようだ。現代の道のように舗装されている訳でもなく、山あり、谷ありの移動であり、さぞかし大変だった事だろう。しかし、道端の可愛らしい花や、森の芳しい香りなど、歩いていればこその楽しみもあったに違いない。

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