第3話 東海道の謎①

 東海道は、日本橋を基点に京都へと至る126里6丁1間(=492km)の街道で、江戸時代以前から関西と関東を結ぶ大動脈として重要な役割をはたしてきた。

 江戸時代には道幅5間(9m)で整備され、男性であれば1日40km程度のペースで12~15日で歩ききったと言う。


 現在の東海道は、ほぼ国道1号線が当時の道筋をトレースしているが、東京⇔横浜間は少しばかり事情が違う。

 正月の恒例行事『箱根駅伝』は、東海道を箱根までたすきを繋いで走るが、東京横浜間は第一京浜国道を走り抜ける。

 品川駅前を過ぎると、旧東海道は、八ツ山橋を渡り京浜急行の東側を進むが、現在の東海道は、八山橋の南側の新八ツ山橋を渡って、京浜急行の西側を南下する。

 現在はこの道を『東海道』とは呼ばずに、『第一京浜国道(通称イチコク)』と呼ばれていて、国道15号線になっている。

 「えっ、なんで『東海道』が国道1号線じゃないの?」と誰もが疑問に思うことだろう。


 実は第一京浜国道は、1885年(明治18年)に旧国道1号線として認定され整備拡張されてきたのだが、増大する交通量に対応仕切れなくなり、1934年(昭和9年)に国道1号線のバイパスとして『第二京浜国道(通称ニコク)』の建設が始まる。

 第二京浜国道は完成すると、旧国道36号線と一部路線が重なっていたことから『旧国道36号線』に指定された。

 戦後の1952年(昭和27年)新道路法が施行されると、東京の日本橋から大阪の梅田まで国道1号線を指定する際、横浜までのルートは第二京浜国道のルートとなり、第二京浜国道が『国道1号線』として指定され、第一京浜国道は、『国道15号線』となった。ちなみに現在の国道36号線は、札幌から室蘭に至る道となっている。


 では、なぜ第二京浜国道が『国道1号線』になったのだろうか?

 一般的にある国道にバイパスが出来ると、そのバイパスが国道となり、旧道は県道(都道)に格下げされる。

 数年前にバイパスが開通した国道20号(甲州街道)の国立日野間は、国立府中インターの前を通って東西に走っている。


 元のルートは、国立インター入口をそのまま西進し、立川市錦町で90度左折して日野橋を渡り、中央線日野駅前を通るルートであるが、現在はバイパスが開通したことにより、国道20号から都道256号線となっている。


 この慣例に従えば、第一京浜国道のパイパスとして完成した第二京浜国道は『旧国道36号線』ではなく『国道1号線』となり、第一京浜国道は、都道、県道へと格下げされるはずである。

 第二京浜国道完成当時は、一部旧国道36号線と重なっていたこと、加えてすでに第一京浜国道は当時としては高規格で造られていたことから、「東海道は国道1号線だろう」という思いも重なって第一京浜国道に敬意を表して国道1号線とはせずに、国道36号線としたのではないかと推測する。

 戦後国道を見直す際、基本に立ち返って前述の慣例に従い第二京浜国道を国道1号としたのだろうか。

 第一京浜国道は、第二京浜国道が出来た後も拡張整備されつづけて発展してきたことから、都道とならずに『国道15号線』として、その国道の地位を保ったのだろう。


 第二京浜国道に続いて、さらに『第三京浜』が1964年(昭和39年)に一部開通し、翌年全線開通するが、第三京浜にも様々な謎がある。

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