焼き立てパンの香り

川島健一

 

 焼きたてのパンの香りが大好きだ。

 朝、仕事場へは住んでいるマンションから歩いて行く。その道筋にあるパン屋からはとても魅力的なパンの香りがする。

 そのパン屋は道に面してショーケースがあるので、気軽に立ち止まって買うことが出来る。

 おれはほぼ毎日そのパン屋で食パンを二枚買う。食パンを1枚単位で売ってくれるのがうれしい。そこにマーガリンを塗ってもらうのだ。

 それを仕事場でパンの香りを楽しみながら食べるのが、朝の楽しみである。

 おれ以外にもそういう類の客はいるみたいで、パン屋の前にはいつも数人の客がいた。

 ショーケースの後ろにはおばさんがいつも一人で客さばきをしていた。おばさんはお世辞にもテキパキと動く人ではない。それでも皆、文句を言わず苛立った態度もせずに黙って待っている。

 誰でも朝待たされるのは嫌だと思うのだが、焼き立てパンの香りにあがらえないのかもしれない。

 おれもだ。

 しかし、不思議に思っていることがある。

 店の奥はガラス張りの作業場になっている。そこからニコニコとした笑顔をこちらに向けた若い女性がいるのだ。

 おばさんが忙しそうにしていても、けしてこちらに来ようとはしなかった。

 このパン屋の娘なのか分からなかったが、いくら忙しくなっても手伝いにこないのが不思議だった。


 年末、実家に戻って正月を過ごした。

 三箇日を過ぎ、正月料理にも飽きたなと思った朝、布団の中でふとパンが食べたくなった。

 一度思うとどうしても我慢できず、起きてすぐ実家を後にした。実家からマンションまでは電車で2時間程だ。おれはそのままパン屋に向かった。

 今日からパン屋が営業しているのはわかっていた。朝9時過ぎた頃で、パン屋の前には客が二人いるだけだった。

「明けましておめでとうございます。

 いつもありがとうございますね、今年もよろしくお願いします」

 とパン屋のおばさんが言った。

「はい、おめでとうございます。ありがとうございます」

 おれの事を覚えていてくれたのが嬉しかった。

「いつもの、食パン2枚にマーガリン?」

 とおばさんが聞いてきたので、おれはおねがいしますと答えた。

 奥のガラス張りの作業場に、今日は若い女性がいない。

 他に客もいないので、おばさんに聞いてみた。

「あの、いつもいる若い女性は娘さんですか?」失礼かなとは思ったが、好奇心には勝てない。

「えっ? あーガラスの奥の?」

 とパンにマーガリンを塗りながらおばさんが言った。

「ええ、そうです」

 おばさんは顔を上げておれに笑顔を向けながらこう言った。

「あれね、幽霊なの。守護霊っていうのかな?」

「えっ」おれは言葉の意味がわからずにいた。

「霊感のあるお客さんが、ガラスの奥に霊が居るって。でもそれは良い霊だから大切にしてって」

 おれは黙っておばさんの話しに耳を傾けていた。

「お客さんがパンの香りをかぐと幸せな気分になって、それに霊が反応するんですって」とおばさんは続けた。

「で、悪さもしないし、ほどんどの人には見えないみたいだし、見える人にはその霊が幸せそうな笑顔してるっていうのでそのままにしてるんですよ」そう言って、お店の右側の壁を指差した。

 形ばかりの棚の上には線香立てと皿にのったパン、ガラスコップに水が入っておいてあった。

「でもね、線香の匂いは嫌いみたいでつけてもすぐに消されちゃうの。霊に」

 おばさんは楽しそうに笑いながら言った。

 それを聞いておれも楽しくなり、自然と笑顔になった。

 おれには霊とか分からないが、確かにあの笑顔は人を幸せにしそうだ。

 若い女性の霊はよほどパンが好きなんだろう、そう思うと本当に楽しくなった。

「なんかいいですねー。良い話を聞かせてもらいました」

 とおれはおばさんに笑顔でそう言った。

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焼き立てパンの香り 川島健一 @jp_q

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