絶つは命

 砥がれた身で、肉を切り裂く。皮を剥ぐ。背骨さえも軽々と断つ。それが何であろうと関係ない。そしてプラスチックの板に傷を刻む。

 それが日常だった。

 肉は硬いものも柔らかいものも冷たいものもぬくいものもあったが、生きているときは滅多になかった。


 それ以外の記憶は、ない。

 どうやら、これは奇妙なことらしいのだが……私には、刃が何かを貫いているとき以外の記憶が、無いのだ。


 私の柄を掴むのは、いつも柔らかい女の手だった。

 私が生きているものを切る、というのは、女がうっかり手を切るということだ。幸い、そこまで多いことではなかった。




 憶えている限り、初めて指よりも柔らかいものが触れたのは、<あの日>の午後二時。


 女にはそのとき、背の低い子供がいた。

 たしか男だ。最も私の記憶が五月蠅くなるのは、揚げる鶏肉を切っているとき。たまたま女の段取りが悪く、追加で鶏を切るときは戦場のようだった。弾ける騒々しい音とともに油は私の刃にまで飛んでくる。そして、女の足元にまとわりついている子供の声が重なるのだ。あの時には、女が声を荒らげることもあった。

 そういうときに限って、電話が鳴る。

 電話の内容は知らない。会話中には、女は私を手放すから。ただ、帰ってきた女はいつも、弱々しく柄を握った。



 <あの日>。

 いつものように肉塊をすぱりと断った女の手が、ふいに私から離れる。


 金切り声。女のものだ。

 私は、やや引きずられて、まな板から落ちていた。

 床に、刺さった。


 やってしまった、と思った。とうとう、やってしまった。

 いくら記憶が細切れの私でも、切る記憶さえあれば、己の役割くらい分かる。

 床は、明らかに私の切るものではない。


 なぜ女は私を取り落としたのだろう。

 今までは、そんなことは一度もなかった。そんな危なげな手つきではなかった。

 私は女を切ったのだろうか。……それにしては、手ごたえもなく、血も感じなかった。

 私の困惑をよそに、女は、大急ぎで私から離れてゆく。

 そして、小さなものを抱えて戻ってきた。



 ああ、あれは、いつも料理をする女の足元にまとわりついていた子供ではないか。

 どうして、いつものように激しくわめき散らし、女にすがりつこうとしないのだろう。

 どうして、その代わりとでもいうように、女が泣き叫んでいるのだろう。



 そのとき、一枚の花弁が、刃の上に落ちた。

 黄色い、可憐な花びら。

 触れたとたんに、猛毒が刃に染みついたのを、感じた。

 子供の口から零れ落ち続ける、花。

 床を切っていた私には、それが記憶として、残った。


 やがて女が、よろよろと、子供を抱えたまま立ち上がった。

 ダイヤルの音は短かった。

「ゆうと……ゆうとが……」

 泣き続ける女のもとに、やがて、奇妙な服装の男達が駆けこんで来る。

 そのうちの一人が、舌打ちをして私を引き抜いた。





 気づけば水の中にいた。

 ずっと音がしていた。水道が緩んだときの音と似ていた。ここはシンクだろうか? 排水溝でも詰まってしまったのか。

 だとすれば、なぜ私に意識があるのだろう。


「ぅ……うぅう…………」


 音がひときわ大きく乱れて、私が少し揺り動かされた。

 違う。水道の音じゃ、ない。


 刃が触れているものが水ではないと、ようやく気づく。

 刃が何かをかろうじて切っていることに、ようやく気づく。


 生きているものを切っていると、ようやく気づく。



 遠い昔に、今と同じ泣き声を聞いた。

 まだこの女に背の低い子供がいなかった頃、少しの間、女の切る肉が多かった時期があった。

 女が切っているときに他の誰かが居ることはなかったが、一度電話がかかってきた。

祐介ゆうすけ?」

 そう言った女が、私を手放して。

 また切り始めたときには、とても幸せそうな顔をしていたのだ。


 それから、10回も肉料理をしていなかったと思う。

 女が、泣きながら私を使った。


 分厚い豚肉を、この女のものとは思えないでたらめな太刀筋で切った。柄は、隙間の多い変な握られ方をしていた。

 切れるたびに、私や新たな断面に塩水が流れ込んできた。


 それから、女の切る肉の量が多かったことはなかった。



 それにしても、しまった。これは私にも責任があるのかもしれない。

 最近、女は変だ。私が切るべきでないものを切りすぎている。

 たしか、血が出たときには、すぐ私を手放して絆創膏を貼りに行っていた。

 だから今も、早くそうするべきなのだ。

 なぜ私を握ったまま、水の中でどこか切ったまま、震えているのだ?


「……し、ねない…………」


 女が私を取り落とす。その言葉の意味を考える余裕のないまま、意識は途切れる。






 次に私が肉を切ったときには、私はすっかり乾いていた。どうやら垢もついておらず、カビなども生えていないらしい。ついでに、今までで一番きれいに研がれていた。

 私を握るのは、女のものではない少し固い指だった。


「馬鹿なんじゃないの」


 女に少し似た、しかしそれよりも力強い手さばき。

 その指の主からは、低い声が漏れ出た。


「……だって、ゆうとが……私のせいで…………」


 女の声が、聞き取れないほど小さい。


「なに、くだらないことしてんの」

「だって…………」

「なんで俺を呼ばなかったの」

「……ずっと、電話に、出てくれなかった……」

「俺が居ても死ぬの」

「…………ゆ、ゆう、」

「やっぱり俺は、要らないんだ?」


 男は叩きつけるように私を振る。

 肉を切るのは、重くてしっかりとした刃を持つ私と、持ち手の力だ。最終的には、その力強さが肉を断つのだ。


「だからあんたは馬鹿なんだよ」


 鶏もも肉は皮や筋ごと、すぱりと切れた。


「だからあんたは子供がいるのに捨てられたんだ」


 男の声は感情を押し殺しているようにも聞こえた。

 鶏肉は皮ごと細かく分けられてゆく。近くには卵と衣と、油の準備。

 




 それから、女の切る肉の量は増えた。

 女が切るときに誰かが居ることは滅多になかったが、台所にはそれまでにはなかったものが増えていった。

 いつの間にか、棚に乾燥させた唐辛子が枝ごと置かれるようになった。

 塩胡椒が、砕いた岩塩とミルつきの黒胡椒・白胡椒になった。

 はるか昔にしまっていたらしいコーヒーメーカーが出されて洗われていた。

 床にはシールのようなものが貼られた。

 そして、電話もよくかかってくるようになった。

 電話から戻ってくると、女は、

「祐介」

 笑顔までは見せないものの、どこか安心したような表情をした。


 たまには、深夜にあの男が台所で私を使うこともあった。

 正直に言えば、男の方が料理は上手かった。普段は女ばかりが料理しているとは思えない、無駄のない手つきだ。料理の種類や使う材料も男のものの方が凝っていた。

「祐介はやっぱり上手いのね」

 女が言うと、男は手も止めず、不愛想なまま、

「あんたは生肉を扱うのに時間かけ過ぎ」

 私を黙々と使い続けた。


 それから、時間をかけて、女の料理の腕は上がっていった。いや、決して下手ではなかったと思うのだが、男のレベルに近づいたというべきか。

 扱う肉の部位も調理法も増えた。刃こぼれを疑うようなものもあったが、一回二回のことだ。それは「冒険」と呼べるたぐいの、変わった動物の肉らしく、そんなものを切っているときはわずか、女は楽しそうにも見えた。


「え? 今度はワニ肉? よくそんなもん手に入れたね」

 男がリズミカルに私を使う時にも、そんな話が出た。

「全然うまく調理できなかったんだけど、楽しかったわ。面白い味がするのよ」

「……そりゃ、そうだろうね」

「ねぇ、今度祐介がゆっくりできる日に合わせて取っておくから、使ってみてよ」

「あー……気分が乗ったらね」

 男が面倒くさそうに言って、肉から私を離す。やはり、速い。





 ある日、日中だというのに男が私を使っていた。女は近くにいない。こんな状況は初めてだった。

「砥げば使えるけど、やっぱだいぶすり減ってるな。銘も消えてる」

 もうそんなものなのだろうか。私は、記憶をたどったが、ほとんど何も思わなかった。自分がいつまで使われるかも、それが何を意味するのかも分からなかった。


「ねえ、京子は、独りでいるとき、ちゃんと笑ってんの? また自殺しようとしたりしてないよな?」


 その独り言が、半分私に向けられていると気づいたのは暫く経ってからだった。作り置きでもする気なのか、ずいぶん大量の肉を男は捌いている。その半分ほどが鍋に消えるまで、気づかなかった。

 京子というのは女の名だ。かろうじて知っていた。この男は女のことを「あんた」とか「京子」と、ぶっきらぼうに呼ぶ。

 私は、この男にとって、自殺の道具でもあるのだ。


(……私は、そのために生まれたわけじゃない)


 言いたかったが、そもそも、言うための機構を私は何も持っていなかった。そして、私は、私が作られた時のことを何も知らない。自分がどうやってできたのかも、何のために作られたのかも、誰に作られたのかも知らない。きっと人間が作るものなのだろう、と思ってはいたが、無駄なので考えないようにしていた。



「はは、そうだよな。心外だよなぁ、そんなこと言われても」



 男の声が誰に向けられているのか気づいたのは、男が別の肉に一筋私を差し込んだ時だった。そして引く。鮮やかな断面が、この肉が高いことをうかがわせた。


「……こんなこと一人で喋ってんの、相当変だけど、俺、時々、食材とか調理器具の声が聞こえる気がすんだよね」


 男はやや大胆な切り方で、肉についていた骨や筋を手際よく剥がしていく。


「ま、だから、もし心があんならさ。時々一人で喋ってても、あんまり変な奴だと思わないでくれよ」


 男が私を肉から最後に剥がす直前、私は男に、心で訴えかけた。


(もう女を、独りにするな!)


 返事は無かった、いや、その前に記憶が途切れた。





 それから暫く、あのような機会はなかった。男が私を手に持つことはあったが、そのそばにはいつも女がいて、そんなときには男は私にも食材にも、絶対に話しかけなかった。

 私からは男に向かって念じ、対話を試みていた。それはそう、女の独り言の内容やわずかに聞いたことのあるテレビの内容まであらゆることを伝えようとした。しかし、わずかでも私と意思疎通した? のが不思議なくらいに、何を訴えても男は眉一つ動かさなかった。私は次第に、あれは男の呟きがたまたま私の心と一致しただけなのでは、と思い始めた。

 そもそも、念じるとか訴えるというのが、考えるのとどう違うのか。人間の「考える」「話す」ほどの違いは到底感じられなかった。もし私の考えることが全て伝わるのなら、「女が普段どうしているか」など、とっくの昔に分かっているはずだ。もし私が強く念じたことしか届かないとしても、あんなに返事が無くては、疑いたくもなる。

 やはり、男と私の勘違いなのだろうか。


「あんた、日中は何してんの」

 その日も、男が問いかける相手は私ではなく女だ。

「家事とか、いろいろ」

「その他は?」

「うーん……最近ミステリードラマ見てるの。撮り溜めしてるから、祐介も見る?」

「『ファイファイの猫』シリーズ?」

「あら、よく分かったわね」

「……そ」


 男が口にしたのは、番組名。さっき私が必死に言った言葉の一つだった。

 もしかしてこれは、私の声が「聞こえている」という、サインなのだろうか? それとも、ただの偶然?

 それからも私は彼に何度か語りかけたが、返事も、何か仄めかされることもなかった。





 その何日か後、男はまた私を使った。

 基本的に、細切れの記憶で生きる私には「日付」の概念はない。「何回私を使った調理をしたか」で推定できる程度のことしか分からないのだ。他の家庭にいたこともないから、どのくらいの頻度で切る肉料理が出されているのかも、知らない。だが、気温から、たぶんそこまで時間は経っていなかったようだと感じた。

 その日、女の声は聞こえてこなかった。どうやら寝ているようだった。

 私はいつものようにとりとめなく話しかけていた。


「……っはは」

 急に、男が噴き出した。


「あんたって、すっげーお喋りなのな」


 身が縮まるかと思った。

「いや、悪ぃ、あんまりいろいろ聞こえてくるもんだから、し、しかも、料理の時に限って、料理の話全然してねぇし……」


 なぜ笑っているのかは分からなかったが、言いながら涙を浮かべる彼は、今までよりずっと人間らしく見えた。

(……本当に、聞こえているのか)


「あ、悪、刺さったままだった」

 男は私の柄に手を掛けた。


(待ってくれ!)

 私は慌てて声をかけた。

(私は、今しか意識がない)

「……?」

(刃が、何かを貫いているときしか、記憶がないんだ)


「…………なるほどな」


 理解するのに時間が掛かったのか、しばらく経ってから男は小さく言うと、ふ、と笑みをこぼした。


「あんた、女なんだな」


 ……?


「ああいや、人間は包丁に性別をつけるってわけじゃない。性格が女らしいと俺が思っただけだ」


 性別なんてもの、考えたこともなかった。

 私は、どちらかと言えば、女とは違う方の性格なのではないか、とすら思っていた。その、違う方、というのは、もちろん性別の事ではない。

 ……私が、女。考えてみても、それが何を意味するのか、そもそも人間でいう「女」と「男」がどのようなものなのか、私には見当がつかなかった。

(人間は、おかしなことを考える)

 そう、感じたままに念じるのが精いっぱいだった。


「そうかもな。……本当に、別人か」

 後半に言った言葉は、包丁をちょうど離すタイミングだったためか、うまく聞こえなかった。


(さっき、なんと言った?)

「ん? 『そうかもな』」


 聞き返したが、その直前の言葉を言うばかりで、男は教えてくれなかった。




 それから、何故か男はよく私を使うようになった。必ず京子という女のいなかったり寝た後で、それまで京子がしていた仕込みを先に済ませたり一品仕上げたり、今までにはすることのなかったことを、し始めた。

 そして、その調理の間、少しずつだが、私と話をした。


「俺、こう見えても料理人なんだよ」

(料理人?)

「そう。少しは上手いだろ?」

(女……京子よりは)

「そうか、比較対象無いもんな」

(料理人というのは、家ではあまり料理しないものなのか?)

「ん。仕事で十分やってるし、夜まで暇ないし……そういやあんた、厨房で使ってる包丁より切れ味良いかもな」



「……この肉、ちょっと状態悪い」

(確かに)

「京子は、時々セールで悪い肉掴んでくる。魚も野菜も」

(もしかして、今日は機嫌が悪いのか?)

 男が一瞬手を止めるのは、私の言葉に何か思うところがあったときらしい。

「……なんで?」

(……前回私を使った時とは声の高さが違う)

「そう」



 男と話すようになってから、京子は笑顔でいることが増えた。

「祐介」

 よく、男の名を呼ぶ。その場にいなくとも、電話で話しているわけでなくとも、それだけで幸せらしいのだ。

 テレビで言う、「アイ」とは、こういうものの事なのだろうか。

「祐介も最近嬉しいことがあるみたいね」

「別に」

「何か思ってる時、『別に』って言うわよね。昔からそう」

 いつかの夜に話す二人は、ようやく家族に見えた。



「あんた、名前は?」

(……つける必要性を感じたことがなかった)

「今は?」

(……必要か?)

「まあ、どっちでもいいけど。銘も消えてるしな」

(少し考えてみたのだが、銘、というのは、名とは違うのだろうか)

「まあ、似てはいるけど……知りたいか?」

 私は少しだけ考えこんだ。今まで、そんなことを考えることが……余裕が、無かった。

(もうすぐ切り終える。次回までの宿題にさせてくれ)

「別にいいけど、切ってない間あんたは意識無いんだから考えられないだろ」

(……)



(前回の事、考えてみた。少しだけ)

「それで、どうだった?」

 次回、というのが、人間の体感でどのくらいの感覚で来るものか、私には分からない。だが、少なくとも、毎回、前回の会話の続きから話を始める男の記憶力にはただならぬものがあるようだと感じずにはいられなかった。

(私の記憶は、この家で使われているときのものしかない)

「そうだな」

(生あるものなら、自分の出所を知りたいと思うことは、当然なのだろうか)

 できるだけ正確な物言いをしたつもりだった。


(私はどうやら、今まで「意識を持っている」という意識が薄かったようだ。自分が「生きている」という状態と言い難いのは分かるのだが、意識あるものとして、どう考えるべきか、考えたことがなかった。だから、分からない)


「……そう」

 男は、それだけ言って黙り込んだ。

 最近まで、男がこうするときは機嫌が悪い時だと思っていた。そうではないと知ったのは、細切れになった記憶のいつだろう?

 私を手放した後、どのくらいの間、男がそのことを考えているのか、結局私は知らない。次回にはどうせ、なんともない顔をしているのだから。



(……疲れる)

「なにが?」

(気がつくと全く違う表情で、顔で、服で、話をする。相手が目まぐるしく変わるのは、少し疲れる)

「今までは?」

(……話す、ということを、したことがなかった。ただ、ぼんやりと見聞きしていれば良かった、から、疲れない)

「それじゃ、あんたが疲れてるのは『話すこと』に対してじゃないの」

(……話すのは、疲れることなのか?)

「ん。そっか、あんたはずっと喋ってるようなもんか。少し黙ってみる?」

(……)

「……」

(……少し気まずい。これで本当に休めてるんだろうか、私は……)

「声聞こえてるけど」

(え?)

 男がにやりとするその顔は、女には見せない表情だった。少なくとも、調理中は。




 その、表情が、血の海に沈む。

 続いて、なにか大きな、悲鳴。


(ユウス……!)

 慌てて安否を確かめようとして、気づく。場面が切り替わっているのだ。前回はあそこで意識が途切れて、別の調理が今私の視界にあるだけ。

 けれど、この血の量は、なんだろう。

 一瞬明るくなったと思えば、再び、私が勢いよく叩きつけられる。そこには、温かい肉があったのだ。

 生きた肉が。

(血が……)

 感覚に、その見た目に、思考が停止する。何も分からなくなる。

 ああ、この食い込みようでは、きっと……考えられたのは一瞬だけだった。


 こときれる。


 そう思った直後に、すぐに場面が切り替わる。

「ねえ」

 いつものことだ。いつものように、記憶が細切れに繋がる。どんな切り方をしていても、京子が持っていようと男が持っていようと、いきなり記憶は途切れるものだ。記憶と同時に、気持ちを切り替えることくらいは簡単だ。

 しかし今回は、切り替えが追いついていない。

「ちょっと、長話になるけどいい」

 そう男が私を使いながら切り出したのは、あの家ではなかった。人ひとりいないが、大きい空間だ。あの台所と違い、部屋全体がシンクであるかのように金属色に輝いている。窓が小さく、時間は分からなかった。

(ここは、何処?)

「俺の職場」

 あっけにとられる私をよそに、男は軽やかに私を使いながら、重く切り出した。

「あんたの意識が無いときの話をしたい。京子には聞かれたくないんだ」


(私の意識が、無いときの話)

 私が使われていないときに、何かあったのだろうか。さっきの話から察するに、京子に何かあったわけではないのだろうが……


「その前に、確認したい。俺が話しかける直前、何が起きたか話して」

 私は一瞬ためらった。ひと繋ぎになっている記憶、その鮮烈さから、まだ私は立ち直れていなかったのだ。

 だが、あの感触と、私を握っていた手の主から考えれば……


(生き物を……鶏を、殺したのか?)


「ああ」

 男は短く言って、それではいけないと思ったのか、慌てたように付け足した。

「今日の調理に使う鶏だった。調理法が特別で、生きた鶏をその場で必要があったんだ」

(そう、か……)

「初めてだったのか?」

(……今まで、京子を除いては、精肉しか切ったことがなかった)

 私の答えに、男はため息を含んだ声で頷いた。

(声が重いが、機嫌が悪いのか?)

「不機嫌っていうより……まあいいや。順を追って説明する」

 男の声は明らかに暗く、どこか疲れているようにも見えた。


(私の意識が無いとき、というのは、いつだ? この前調理した後か?)

 並べられた肉の量があまりに多いので、私は少し驚いていた。私を使ってこんな調理をすることと、関係あるのだろうか?

「この肉は関係ない。いつも使ってる肉切り包丁じゃなくてあんたを使ってるだけ」

 男は続けて、言った。


「あんたの意識がないとき、あんたには、別の意識がある。あんたと同じように、俺と話せる意識が」




 私には、男が言っていることの意味が分からなかった。男はときに、私の想像も及ばないことを言う。それはきっと、私の世界が狭いということなのだろう。


「理由は分からないけど、あんたは二重人格……いや、人格じゃないな。二つの心がある。刃が何かを切ってる時だけのあんたと、もう一つ、それ以外の時の性格。お互いのことを知らないんだ。あんたは自分の記憶は細切れだって思ってるし、あっちはあっちで、『何かを切るときだけ意識がない』って認識でいる」


 男は丁寧な手つきで肉をさばいていく。口調は柔らかく、いつもの男とは思えないほどだった。


(どういうことだ? 私がいないときにもう一つの私がいる??? 私は……私が二つあるってことなのか?)

 私の声に答えず、男は続けた。


「そういう住み分けだと……思ってたんだけどな」

(え? 違ったのか?)

 男は小さく息を吐いた。


「あんたは、この家に来る前の記憶がないんだよな? 何一つ」

(ああ)

「で、買ってきた精肉を切るとき、せいぜい、京子が怪我や自殺未遂したときの記憶しかない」

(ああ)

「そ。だよな」

 肉を切る手が、わずかに無駄な動きを見せた。


「あんたじゃない方の性格にも、少しだけど、『


(そうなのか? だとしたら、私の記憶はどういう基準で選ばれているんだろう)

 私は内心疑問を膨らませながら、ひとまずそう言った。すぐにこの男が納得のいくように説明してくれるだろう。

 しかし男は、しばらく喋らなかった。


 何かがおかしいと気づいたのは、私を肉の塊に刺したまま、男が手を止めたときだった。男の手は小刻みに震えていて、それは決して、特殊なそういう切り方が存在するためではないようだった。


(どうした……?)

 話しかけることすらためらわれるその震えを、本人以外の誰よりもはっきりと感じている私は、それでも、聞かずにはいられなかった。




「……あんたじゃない方は、生き物を殺すときの記憶を持ってるんだよ」




 言葉の意味が分からなかったのは、私の視野が狭く、ものを知らないせいだろうか。

 それとも、本当に、男が荒唐無稽なことを言っているのだろうか。


「京子は、生きた動物を買ってきて包丁で殺したことはない。っていうか、そんなことできるタマじゃない。そして、俺もついさっきまで、あんたを精肉以外で使ったことはなかった」

 続く男の言葉も、こちらは当たり前のはずなのに、上滑りして聞こえる。


「で、あんたは、京子と俺に使われた時以外の記憶がない。この意味分かるか?」


 私には男の言いたいことが分からなかった。正確には、「理解できない」というのかもしれなかった。

 それでも、答えることだけは分かった。


(私は、この家に来る前、どこかで生き物を殺すためだけに使われていた)

「そう」


(屠殺ってやつなのか? 精肉店で使われてたとか……)

 男は目を伏せた。手元の肉は、まだ断ち切れていない。


「さっき切った鶏、生きてたろ」

(ああ、そういえば)

「生きてたんだよ。それを、あんたでった」

 何を絶ったのか、聞かなくても分かった。自分でも、その自覚はあった。もとより、そういう目的に自分が使われうることは分かっていた。

 ただ、奇妙なことに、私は、そのことに落ち着かない気持ちを抱えていた。


「生きた動物を切ったときの記憶は、あんたのものなんだよ。さっき、はっきりと確かめられた」


 男は、終着点の分からない話を、まだ続けていた。


「京子の時の話を聞いた時から、変だとは思ってたんだ。あんたが風呂場で見聞きしたのは、京子がやったことの後半だけ。気づいたら水中にいてもう京子が気力を失ってた、ってのは、ちょっと変だ。本気で手首を切りつけた直後の記憶が抜けてる」


(そうなのか?)

 女がやったことの手順が分からない私は、相槌を打つばかりだ。


「京子、あんたを普通に店で買ったんじゃないってよ。中古品を持ち込むような店で、新品同様だからって安く押し付けられてきたって。そのときから、銘は無かったって」


(それが、さっきまでの話とどうつながるんだ?)


「今日で確信した。あんたが以前、何に使われてたのか……随分切れる包丁だから、銘が知りたい、なんて、思わなきゃ良かった」


 肉の油が男の熱で、じわりと溶けだした。私自身も少し温くなってしまっている。

 京子と同じ、生きたものの熱だ。


「あんたはこの包丁の『良心』なんだよ。本来の使われ方をしているときだけの、落ち着いた、女性的な性格……人間と同じように、ショックで精神が分裂したんだ」


(本来の、使われ方?)




「……京子に包丁を売った奴がいた場所を探したら、そこに刑事がいた。盗品や、まっとうな手段で得たんじゃない品を処分する業者だったって、言われた。あんたの写真を見せたら、今度詳しく見せてくれって……ついこの間捕まった、連続殺人犯が使ってた凶器が、その業者に回ってた」




 言っていることの意味が全く分からない、とは、言えなかった。女はよくテレビをつけっぱなしにしていたし、ニュースも昼の陰鬱なドラマも見てきた。


(でもそんな――私は長らくここで――この間、なんてもんじゃないくらい、いたはずで――)

「俺にはあんたの『長い』の感覚が分かんないけど、半年足らずだろ。そのくらいなら、あり得る」



 男の言葉が、私の刃先を石に叩きつけたかのような衝撃を与えた。

 私がこの家にいたのは、つまり――私という意識が生まれたのは、たった半年前なのか?



(……だって、私は、子供が、あの、ユウトという子供が、言葉を話すほど大きくなるまで、ずっとこの家にいて……人間の子どもは、そんな短期間に大きくならない、はず、だ……)

 辛うじてつないだ言葉は、続く男の言葉に斬られる。


「ユウトは、人間じゃなくて子犬だろ?」


(え……)

「そうか、あんたは人間の子どもを知らないか。俺はあんたが来たときには家を出てたしな。京子が大事にしてる小さい生き物がいれば、それを人間の子どもだと思いこんでも無理はない」


(で、でも、女には、京子には、子供がいる……)

「それは俺だろ?」

(え?)

「逆に聞くが、俺を何だと思ってたんだ?」

(……京子の、夫)

「止めろよ、それは。……京子を捨てたクズのことなんて、思いだしたくもない」

 男は口調を変えて、やや吐き捨てるように言った。

「仕事先の寮で暮らしてたら、京子が馬鹿な事したって聞いて、実家に帰ってきたんだよ。……あんなことになるなら、キンポウゲ植えるの止めりゃ良かった」



「誤解が解けたばっかで困るだろうけど。理解、した?」

(……ああ)

 私は答えた。どういうわけか、男がこれから言おうとしていることが分かる気がした。

「明日、警察に持ってくよ。表向きは何もついてないし、一年近く経ってるけど、それでも、柄の隙間なんかに証拠が残ってる可能性はある」

(そうか)

「きっと、向こうでは測ったりした後、あんたを分解するんじゃないかな。何かついてるとすれば刃と柄の間とかだろうし」

(そうか)

「あとは、刃の成分とか。削られるかもね」

(そう、か)

「証拠として確定したら……いや、もししなくても、きっと、あんたが本来の用途で使われることは、もうない」

(……)


「……あんたが何か斬るのは、これが最後になると思う。この、肉で、最後だ」

 男は、また私を動かし始めた。ゆっくりと、それからスピードを上げて、丁寧に。もう残りは少なかった。


「本当はすぐにでも持って行った方が良かったんだろうけど、もう一回だけ、使いたかった」

(そうか。切れ味は良いか?)

「ああ」

(この肉を切るのに、私を使って良かったのか? こんな不吉な包丁を)

「ああ。あんたには感謝してる」

(なら満足だ。別れの言葉は詳しくないが、サヨウナラ)


 短い言葉で済ませた。

 実際、私には死の概念はない。ただ思いだすのは、あのキンポウゲの、鮮やかな色と感触。そして、京子の泣き声。

 それで死なない私には、分かりようのないことだった。

 何も、感じさせない方が良いのだ。


 男の顔は、あの時の京子の顔に似ていた。その時になって初めて、私は、男の中に子どもを見る。京子の子どもらしい、豊かな表情を。

「俺、潔い女が――」

 包丁を離しながら言う言葉は、どんな意味なのか。それを知れるほどの時間は、私にはない。永久に。







――キンポウゲ/ウマノアシガタ Ranunculus japonicus

  花言葉:栄誉、栄光、子どもらしさ、中傷






「――きだよ」


(さっき、なんて言ったの?)

「五月蠅い」

 男は、低い声で言う。何故か顔が濡れているが、追及しても答えてはくれないだろう。

「殺人道具の心を持った奴に、話すことは何もない」

 やけに温くなった柄に、刃に、水道水が染みる。


 包丁を死肉から離しながら言う言葉は、どんな意味なのか。それを知れるほどに、この男が僕に心を開くことはない。きっと永久に。

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