光れば宝石
「宝石が綺麗だったので死ぬことに致しました。わたくしの結局凡庸に過ぎなかった人生の最期がこのような形になることに、迷いはもはやございません。陳腐だと、あの方は失笑なさるのかしら?」
端的に言えば、面構えが気に入った。
顔立ちの話ではない。この胡散臭い市に全く似合わない癖に、迷いもなく入ってきて、
「一番怪しい品を見せてくれ」
清々しく言い放った、その顔が気に入った。
「ニイちゃん、何処の紛い物と勘違いしてるか知らないが、ウチには偽モンなんて置いてないぜ。そういうのが欲しけりゃ何処ぞの一丁目にでも行きな」
「ここが地獄の半丁目なんだろう?」
ひょろひょろの体のどこから、あんなに響く声が出るのか。目は濁ったラルビカイトの癖に、二回りも大きな大男の店主に身じろぐ様子は、ない。
「……なんだ、客かよ」
吐くように言った大男、キモイリが、店の前に掛けていた幌布を引き剥がす。繊維の隙間から見えていた男の全身が、はっきり現れる。
『地獄の半丁目』。確か、この店の隠し商品を見せる合図だったか。
呪われた品だの事件の証拠品だの、下らない名のついた奴らの掃き溜めだ。売り買いに来るのも盗人や訳ありが大半、ごくたまに間違えて入ってきた一般人。正直、こんな男が見るような品には見えない。しかしこの男は、確かにはっきりとした目的をもって来ている。
気に入った、と言ったが、それはただの俺の印象。明らかにこの男からは、俺と異類の臭いがした。例えば黒曜石。欠けも尖りもするが、色艶と確かな黒は濁りようがない。磨いたクズ石じゃ出ない色だ。
キモイリも、その様子にたじろいでいるようだった。これは見物だ。
「アンタにハマるモンは無いと思うぜ」
「それは俺が決めることだろ」
「……ヘッ」
ニコリともしない。いったいこの男、何者だ? ……そう、思ったとき。
「例えば、この指輪とかな」
ひょろ男の指が、俺と、俺の貼り付けられた合金の輪をつまみ上げた。
[ユルシホープ]
名だけが書かれた札が、ぶら下がっている。
「普通のブルーダイヤモンドか? ……いや、反射する光が、ピンクだな」
ひょろ男は俺を転がしながら無遠慮に見つめる。その腕を、キモイリが静かに制した。
「やめとけ。そいつは呪いのダイヤって呼ばれてる奴さ」
「呪いのダイヤ?」
「そいつを買った奴はみんな、悪夢にうなされたとか危険な目に遭ったって返品してくるのさ」
まるで俺が何回も売り買いされていたかのような口ぶりだ。俺は内心悪態を吐く。
「曖昧な話だな。この店じゃその程度で、売る相手を選り好むのか?」
「いや。忠告しただけさ」
ひょろ男はその言葉に目を細める。
「引き取る時には売った時より安くつくんだろ? あんたが売り渋る意味が分からないな」
「……そいつはマジモンなんだよ。どこの寺に投げてもお手上げなんて言いやがる」
相手が目利きじゃない時には値を張って余裕ぶるくせに、今回は随分と俺を貶す。
「俺としても良心で言ってんだよ。どうしても買いたいってんなら、」
「そいつはますます好都合だ。引取り先に困ってんならまけてくれるんだろ?」
キモイリの舌打ちが晴れた空の下に響いた。
ようやく読めた。オカルト話を盛って食いつかせ、俺の値を上げようとしていたのか。
「それに、こいつの性格が気に入ったんでね。あんたにこれが帰ってくることはもう無いよ」
――性格?
結局ひょろ男は、俺をかなり安値で買い取った。確かに鑑定書は無いが、ダイヤにしては屈辱的な値だ。おまけに安物のケースの中に入れられ、ポケットに押し込まれた俺は、また不愉快なひと時を過ごす。上下と、妙な横揺れ。人間が歩く動きは嫌いだ。
「……へえ」
男の声がケース越しに聞こえた。ポケットに突っ込まれた手が、ケースを強く握っている。ぎし、と歪む音がした。湿度が高まる。男の息と脈が荒くなるのが伝わってくる。
男は、角を曲がったところで急に走り出した。
スポンジから輪が外れて、俺はケースにぶつかる。痛くも痒くもないが、揺さぶられるようなこの感触を好きになれるはずがない。一体何が起きた?
俺の混乱を気にもせず男は走り続ける。まあ、俺の心中が人間に分かるはずもないが。何度も曲がり、ときには立ち止まり、しまいに俺から手を離した。そのたびに俺は激しく揺さぶられ続ける。
まさか、何者かに追われているのか?
「…………っはあ、さすがに、撒いた、か」
男が動きを緩める気配がして、俺はポケットの中からつまみ出される。ケースを開けて俺の存在を確認した男は、ゆっくりと息をついた。
ここは路地裏だろうか、完全に表の通りが見えない。男は立ち止まるに止まれないのか、まだゆっくりと、路地の奥へと歩いている。
「値切り過ぎたとは思ってたけど、まさかな。あのキモイリって男、売った直後に商品取り返すのが手口なのか?」
そんな訳があるまい。あの市に流れてから、俺に買い手がついたのはたった二回ほど。しかし、あの男がそんな事を命じているのは見たこともない。
「あっそ。じゃ物盗りってことにしとくか。……今のところは」
ひょろ男は含みを持たせて、立ち止まる。まだ少し息が乱れていた。
……待てよ。
今、この男、独り言を言っていたのか?
「そんな訳無いだろ。変人扱いすんな」
男は、ケースから指輪を……正確には、俺を、摘み上げた。
「俺は今、間違いなく、あんたに話してるけど」
【……は?】
呪いのダイヤ「ユルシホープ」
1.5カラット、指輪サイズ _ 5号
色 _ 淡いブルー、淡い赤に蛍光発色
組成 _ 不明、産出地 _ 不明
出所 _ 不明
【な、何故、貴様には、俺の言葉が分かる?】
「さあな。そもそもあんた、『言葉』とか言ってるけど、喋ってんのか?」
【人間のような発声器官は無い】
「だろ。俺にはあんたが意識を持ってること自体が不思議だ」
【……ところで貴様は、なぜ俺を買った?】
「別に。喋る石なんて珍しいと思っただけだけど」
【貴様以外に「声」が聞こえたことなどない。どちらかといえば、貴様の方が特殊だろう】
「どうかな。いずれにせよ、あんたの持ち主は俺だ。今は、お互い面倒臭い詮索は止めないか?」
【……分かった】
男は、ニコリともしないまま俺に目を落とした。
「俺はユウス……いや、俺のことは、『ユウト』って呼べばいい。あんたのことは?」
【何とでも呼べ】
「じゃあ『ユル』とかにしとくか」
……まさか、「ユルシホープ」からとったのか?
よく見れば、男の口の端がわずかに上がっている。こいつに任せるのではなかった。
【……二つ要求がある】
「何だ?」
【俺は安物のケースやポケットに入れられるのが何より嫌いだ】
「さっき変な輩も出たし、できれば露出させたくないんだけどな。仕方ないか」
ユウトはあっさりと俺を左の小指にはめた。細い指輪だ、そこにしか入らなかったのだろう。
「それで? あんたのもう一つの要求は?」
【……】
少し黙ったのに深い理由はない。この返答で、俺の考えがユウトに全て伝わるわけではないらしいと確信したのだ。俺が特に意識的に発した感情が、「言葉」として伝わるというわけか。
しかしここで嘘を吐く必要はない。
【 俺をかつて破壊しようとした奴に復讐する。
貴様、手伝え 】
***
俺の中には怒りが渦巻いている。意識が現れたときから続く炎だ。ルビーよりも深い怒りの渦から、まず巻きあがってくるのは、俺を金具に押し込む小さな感触、機械の音、そして誰かのおぼろげな顔。笑っていたか泣いていたか、何も感じていなかったか。とにかく俺はその人間の指にはめられたとき、確かに、怒りを感じたのだ。俺が指輪としてここに収まっていることが憎くて仕方がなかった。
だから何があったというわけではない。俺はしばらく、その人間の指に居た。俺の現状に対する違和感は乱反射のように残っていたが、その人間の指にあることは、不快ではなかった。きっと女だったのだろう。しかし、俺は婚約指輪や結婚指輪ではなかった。そいつは、いつも一人だったから。
俺の記憶が大きく途切れるのはここだ。俺は、何故か、女の指を外れていた。人間の悲鳴が聞こえた。短い間に見知らぬ者の手に渡った。……そして、俺を掴んだその手が、指が、俺を、壊そうとした。
荒い息、床に投げ出される感触、金属の振り下ろされる音。その衝撃で指輪が歪む音がしたが、俺自身は、弱い衝撃に傷つくことは無かった。
***
ユウトは小さなアパートの一室に住んでいた。
「定期的に旅に出ながら暮らしてる。ここは借家だ」
小綺麗な部屋に入ったユウトは、俺を指にはめたまま、すぐにキッチンに向かう。背負っていたリュックを下ろして開けると、意外にも食材が出てきた。
「同居者が何も食わないのは楽だな」
よく見れば、キッチンは部屋の狭さに不似合いなくらい広く、収納には包丁がずらりと並んでいる。料理には詳しくない俺でも、明らかに整っているのが分かった。
【……貴様、料理をするのか】
「まあな。それで話戻すけど」
ユウトは慣れた手つきで料理を始める。
「あんた、その『復讐したい相手』についての記憶はあるのか?」
【正直なところ、ほとんど覚えていない。だが……】
実際、俺は、「記憶」が曖昧になっていることを感じている。理由もおそらく、分かっている。
【俺は、最後に、海に落とされた】
「海?」
【あの揺れ方と、塩類、ミネラルの混じった水。間違いない】
水の反発力があれほど大きいものだとは、知らなかった。
俺を一瞬跳ね返すように反発した表面を、俺が砕く。次の瞬間には厚い塊が俺を飲み込み、流れが、一気に俺を攫った。そこからはもう、曇ったアイオライトだ。上下と、妙な横揺れ。砕ける表面の水音もすぐに消え、ただ方向も上下も分からずに振り回される。それは不快で、とても、腹立つものだった。俺は、次第に暗くなる世界の中で、ただ、怒っていた。この冷たい世界の中で、この小さな身が砕けて蒸発しそうなほどに、怒っていた。
何故、俺が、このような目に遭わなければならない?
何かが触れた気がした。大きな流れが生まれて、大量の泡が横切って行った。そして、それも次第に止むのだろう、と思ったとき……
【……網が、俺を掬った】
「網?」
【そして気づけば、何者とも分からぬ奴の手に移り、あの市に売られた。その先は知っての通りだ】
「それで?」
【……おそらく海に落ちたせいで、その以前の記憶が消えている】
「……ショックで、って訳か。へえ?」
ユウトの声色が変わる。しかし、何か言うでもなく、片付けまできっちりと終えたキッチンを立つ。手には料理の皿を持っている。スフェーンのような濃い彩りの海鮮パスタだ。
「頂きます」
丁寧に手を合わせる。この男、やはり育ちは良いのかもしれない。
【……で、どうだ?】
「さあ。少しはヒントがあったかもな。いくつか確認したい」
ユウトは俺を指から外し、よく見えるように机に置いた。
「その人間、力は強かったのか?」
【非力な人間の力を補完するのが鈍器だろう? 人間の力の差など知らん……とはいえ。
「なるほどな。じゃあ次。指輪が歪んだって言ったな。今の輪は綺麗に見えるけど、いつ交換された?」
【あの市に来てからだ。キモイリが業者らしき奴を呼んで交換させていた】
「……やはり確認が必要か。で、その人間の指がざらついてたってのは?」
【……分からん。だが、手荒れなどというものではなかった。明らかに、貴様やキモイリとは違う手だった。そしてひどく細かった】
「? ……嫌な臭いがしたって言ったな。香水か?」
【かもしれないが……粉っぽくて、……】
何度も試みたことではあるが、記憶を鮮明にしようとする。あれは、どこかで確実に知っているはずの……
【!】
「どうした?」
【いや、何でもない】
急に、記憶の中にひとつの顔がくっきりと浮かんだ。俺を最初に手にした人間、今まで、思い出そうとしても欠片ほども出てこなかった、女の顔が。
だが、何故今なんだ?
「まあいいか、なんとかなるだろ。あんたみたいな『珍しい』宝石、必ず誰しもの印象に残ってるはずだ」
ユウトは小さくうなずいて、フォークをくるりと回す。綺麗な食べ方だ。
「ホープダイヤモンドを思わせる青に、『
【……ユウト】
「ん?」
【貴様、何故、俺の話を聞いた? 俺は話せる相手が貴様しかいなかった。しかし、貴様にはリターンのない要求だったはずだ】
「あんたこそ、危険な賭けだろ。俺に信用できる要素はまだないのに」
【下らん】
俺は小さく赤い蛍光を放った。
【貴様は俺の性格が気に入った、と言った。話す価値を見出して何がおかしい?】
ユウトはフォークを置いた。
【ついでに言えば、貴様、呪いなどというものを全く信用していないだろう】
「信じるだけ馬鹿馬鹿しいだろ」
【だから都合が良い。俺にとって】
「……なるほどな。ご馳走様」
ユウトは納得したような声で立ち上がる。しかし、顔はどこか複雑そうに見えた。
【まだ納得がいかないか?】
「いや、あんたのことは一応分かった」
【?】
「……で?」
「だから、オレはナニも知らねェって……」
「じゃあ告発しても良いんだな、この市で扱ってる盗品のこと全部。半分は立証できる」
「クッソ……! テメェなんかにウチのモン見せるんじゃなかった! あんなに安く売ってやったっていうのに……」
「安く売ってくれたのはただのあんたの好意だろ。それとこれとは別だ」
「ダレだよ、コイツにウチの合言葉なんて教えやがったのは……っ!」
あのキモイリが、闇市の頭が、顔を青くしてカウンターにうずくまっている。こんな見物は初めてだった。しかも俺は脅迫者ユウトの指という特等席だ。
ユウトは俺を買ったときと違い、皴ひとつないスーツにきっちりと身を包み、サングラスを掛けていた。声色を抑え、慣れた様子で脅し文句を静かに並べる。まるで別人だ。本業か俳優かと疑う悪役っぷりで、体格では負けるキモイリを圧倒している。
「さっきも言った通り、この指輪をどんなルートで仕入れたか吐いてくれれば黙ってやる。ただし、俺を暴力でどうにかできるとまだ思ってるなら、甘い」
ユウトはスマホを取り出し低い声で続ける。
「俺には協力者がいる。定期的に俺の肉声で連絡が入らなければ、証拠と告発文を送るよう指示してある。俺に何をしても無駄だ」
「はっ……ハッタリ、だろ……」
「じゃあ、あんたの店の『合言葉』を俺に教えてくれたのは誰だろうな?」
「……」
そして、キモイリが黙ったタイミングで画面を見せつける。通話履歴には、きっちり三十分おきに発信した履歴が入っていた。最後の履歴は二十四分前。
「あと六分だけ待ってやるつもりだったが、なんなら今すぐ指示を入れるか?」
「………………」
「あと五分」
「……わ、わっ……」
「聞こえない」
舌打ちの音が響く。
「……分かったっつったんだよ! マジで言わねぇんだろうなっ?!」
「さっさと言え。あと四分で」
ユウトは奪われないようスマホをロックして引き下げると、静かに俺に触れた。
「ミ、ミギスナの野郎が持ってきたんだよ……一応漁師の」
「何処から?」
「……半年前、アナビスキルトってデカい船から一人のカネ持ちが落ちたニュース知ってるか」
「何?」
「ソイツを助けたのが、通りかかったミギスナの漁船だったらしい。そのとき、パクッたって……」
キモイリはそわそわと落ち着かない様子であたりを見渡した。人間が近くからこちらを見ているような様子は無いが……
「なあ、もういいだろ? オレぁミギスナにケンカ売るワケにゃいかねぇんだよ……」
「……」
ユウトは、どこか考え込んだ様子で、スマホを操作すると耳に当てる。
「……ああ、俺だ。念のため、あと三時間は待機してくれ。帰り道を襲われそうだからな」
「しねェよ、そんなこと。畜生、ミギスナが知ったら、どんなコトになるか……」
「煩い。貴様が余計な気を回さずに、誰にも言わなければいいだけの話だ」
「ッああ、腹立つ奴だな! 二度と来んじゃねェ!!」
まだしゃがんだままのキモイリを見やることもせず、ユウトはさっさと背を向けて歩き出す。
「あ、最後に。『ユルシホープ』と言うのは、誰がつけた名前だ?」
「ハ? ミギスナの奴が言ってたんだよ」
「……あっそ」
聞いておきながら、そっけない声。それが本当に最後のやり取りだった。
市が見えなくなり、いくつか角を曲がっても立ち止まらない。歩きながらサングラスを外し、髪を手櫛で乱す。ネクタイを緩めて襟元のボタンを外すと、吐息が俺を曇らせた。
【……警戒しなくていいのか?】
「……内通者がいるって信じ込んでるうちは、あの男は何もできない。追けられる可能性はあるけどな」
つまらなさそうな顔で、ユウトは回り道をする。その言葉が、少し引っかかる。
【その言い方……本当は、内通者なんていないのか?】
「さあ?」
そこまで索敵範囲は広くないが、背後から追ってくるような気配はない。俺は続けた。
【少なくとも、先程、電話口から「協力者」とやらの声は聞こえなかった。それに三十分おきに電話など貴様はしていない。通話履歴も会話も、ダミーだな?】
「あんたがそう感じたんなら、そうかもな」
ユウトは無人の駐輪場で自転車を引き出すと、手早くスーツを脱いで折りたたむ。籠から出したパーカーを羽織れば、かなり印象が変わった。
「……ひとつ言っておくと、俺が話せる『人間じゃない奴』は、あんただけじゃない」
【「人間じゃない奴」……物、ということか】
「もし、の話だけど。俺が、あの市場に『話せる奴』を置いておくことに成功したら、どうなると思う?」
【……】
例えば、ユウトとのみ意思疎通ができる
【……それを、貴様が俺を買いに来た日、「そいつ」が貴様に伝える。堂々と伝えても、貴様にしかその声は聞こえないから関係ない。貴様はそれをその場でただ復唱する……つまり、バレない盗聴器か】
「それでも、『協力者がいる』ってのは事実だ」
【……】
頭が回ると言うべきか呆れたと貶すべきか。
【……待て。貴様はなぜ、そこまでしてキモイリの市に潜り込んだ? 俺を買ったのも、何か広い目的があってのことなのか?】
「さあな。それより、面白い話が聞けた」
【……まあいい。やはり海だったな】
はぐらかされるのはこれで二度目か。ユウトは薄く笑って、スマホで何かを調べ始めた。
「アヌビスキルト号、ね」
【知っているのか?】
「ガキの頃、強盗殺人事件が起きてた豪華客船。それからも出航してたのは知らなかった。……見る?」
ユウトの指が止まる。
【気にするな。俺は字が読めない】
「マジ? まあ、いいけど。……へえ」
【どうした?】
「ネットニュースの小さな記事なんだけど。落ちる前に船上で事件があったらしいって噂」
【? それが何だ】
「ただの事故じゃなくて、事件性があるかもしれない。もしかしたらあんたが、落ちた富豪とやらの持ち物じゃなく、犯人の持ち物って線もある」
【……なるほどな】
「ま、続報が見つからないから怪しいけど……」
ユウトはスマホを畳んで立ち上がった。
「また厄介な奴を相手にしないといけないかもな」
【そういやさっきは随分な熱演だったな。お前、休業中の俳優か何か、か?】
「……」
ユウトはもう何も語らず、小さく鼻歌を歌った。上手くは無い。はるか昔に聴いたことのあるような童謡だった。
「さて」
レッドスピネル色の艶やかなソースが鍋の中で撥ねる。掻き回されるたびに、なお艶と香りを増していく。
「口実も無しに富豪なんかの所に行ける気がしないな」
【そいつの事何か分かったのか? ニュースとやらでは名前までは載ってなかったんだろう】
「ああ、ちょっと思うところはあるんだけどな。手は打ってる」
【……いつそんなことをした?】
「昨夜の風呂の直後。あんたを外してた時」
ユウトは火を止めると、スプーンで一さじ掬い上げた。岩塩の欠片と香辛料の混ぜ物をぱらりと加える。
「あんたに直接ヒントが残ってりゃ楽なんだけど」
【さすがに無理だ。俺はただの指輪だし、何度も洗浄されている】
「……いや、もしかしたら……」
ユウトはブツブツと呟きだす。
【どうでもいいが、お前料理中によく喋るな】
「癖」
ローストビーフに絡めると、ソースの輝きが増す。クレソンが載れば、ふわりと香草の香りが漂った。付け合わせといい、相変わらず男にしては見事なものだ。こいつ、料理の才もあるのか。
「……まあいい。頂きます」
雑穀米を盛って、ユウトは手を合わせる。
俺に食事は必要ない。生物に食事が必要なのは分かっているが、理解はしない。時間をかけて手の込んだ料理をするのは無駄ではないか。そう思っていた。だが、まるで宝石のような多彩な料理を見せられ続けていると、不思議な感情が湧いてくるのも確かだ。
【……傷つきもしなかったのに、何故俺が恨むのかと思うだろう?】
そのせいか、思いがけない感情が、溢れた。
【俺は、この形に削り出されたその瞬間から、強い怒りをいつも感じている。理由など分からん。対象も分からん。そんなものは忘れた。ただ、何かにひたすらに怒りを抱いていた】
「……」
【呪いの指輪などくだらない。俺は動けない。怒りを晴らす手段を持たない。貴様以外とは話もできない。呪えるものなら、とっくに呪い殺している。だが俺は、呪いたい奴の名も知らん】
「……」
【その行き場のない怒りが、散々な扱いを受けたあの時、ようやく、矛先を見つけた。八つ当たりではない。俺が宝石として切り出された時から抱いていた感情を向けるべき相手が、その一人が、そいつだと確信した。……人間には、分からない感覚かもしれないな】
俺をはめた指が、かすかに震えた。
【俺の中には、ずっと炎が燻っている。俺がブルー系のダイヤだとは信じられないくらいにな。俺は宝石だ、形は変わることはない。それと同じように、きっとこの炎も、この熱量のまま薄れることはない】
「……そう」
ユウトは箸を置く。食い終わったのかと見やれば、まだ皿には半分以上残っている。
「そんなに知りたきゃ、あんたを調べてやろうか?」
【……俺を?】
言葉の意味が分からない。
【先程無理だと言っただろう】
「顕微ラマン分光法」
【は?】
「説明は後だ」
ユウトの指が、数字をなぞった。
「もしもし。元気? ちょっと、友人の頼みってことで至急調べてほしい物があるんだけど。昨日の件に追加」
……この時は知らなかった。この時、電話が終わった直後にでも、説明を求めなかったことが、どれだけ後悔すべきことか。そのせいで俺は、最悪に近い体験をさせられることになる。
顕微ラマン分光法。調べる物体に嫌な光を当て、反射する光を調べる検査法。感覚で言えば、じわじわと内部から麻酔無しで削り出されるような。
【……っ、ざけるな! 殺す気か? 殺す気だったな?!】
「あんたにも死の概念ってあるのか?」
【ほざけ! とにかく、今度こんなことを俺にやろうもんなら、殺す。殺せなくても呪い殺す】
「俺、あいにくと呪いは信じてないんだよね」
【……チッ!】
結局、俺は死ななかったし、拷問はなんとか終わった。あとは鑑定書とやらだけだが、それが出るまで少し時間が掛かるらしい。
「それまで暇だろ? 面白い所に連れてってやるよ」
そう言いだしたユウトは、夜のうちに支度を済ませると、明け方の電車で早々に旅に出た。
勿論石の俺に、その時間は刹那に等しい。暇になるなどということはない。だが……ユウトと会ってから、俺の刹那は騒々しく輝いている。思いがけない色を撥ね返すこの男は、どこかオパールを思わせた。いや、さすがに過大評価か。
ほぼ無人の電車で、ユウトは何も話さない。ただ、窓の外を眺めている。空がカーネリアンに染まると、どこかで鳥が鋭く鳴いた。澄んだ空気が、湿気と太陽の熱で次第に溶けていく。長い旅路だった。
「……おい」
【……】
「聞いてるか、ユル?」
【……まさか、それで俺を呼んでいる気か?】
「今この車両に人いないから呼んでみただけ」
【あえて今言うが、その呼び名は止め――】
「この景色見覚えあるか?」
【? いや、無い……は、ず】
「そ。じゃ、次の駅で降りるから」
そこは、恐ろしく殺風景な小さい駅だった。曇天のヘマタイトがかった空気によく似合う。俺までくすんで見える。ユウトは説明もなく歩いていく。やがて、ますます陰鬱な未舗装の山道に入る。どう見ても、「面白い」所に着きそうになかった。
【……人間の基準では、墓地が、面白い場所なのか?】
「楽しい場所とは言ってない」
一つの石柱の前で、ユウトは立ち止まった。
暗い質感のみかげ石。墓石自体は文字らしきものが彫られている以外に特徴がないが……その下と周囲の土が、ひどく荒らされていた。どれだけの時間放置されていたのか、石には油汚れとガムと細い蔓が巻き付いていた。
【墓荒らし……?】
「派手だね」
ユウトは屈みこみ、スコップを取り出す。何故、と聞く必要すらなかった。すぐに、墓の中、骨の収められているべき場所が見えた。
……無い。
骨壺の代わりに、空洞がそこには広がっていた。
【……っ!】
俺全体が、熱く熱せられたような錯覚が走る。何だ、熱い。燃えている。炎が感覚を包んで、一瞬のうちに何も分からなくなる。ドロドロとした怒りが、俺の全部を包み込んだ。
俺は、怒っているのか? 何故、今、この瞬間に。急なことに、思考が追い付かなかった。俺の中にいつもくすぶり続けている炎が、石を割る亀裂のように痛み、隙間に流れ込む。そして、カットされた面のどこからも逃げ出せない。反射光のように、俺の中で、炎の光が渦巻く。熱さえも鏡面からは出られない。俺が、こんな姿になってしまったから。そのほんのわずか、この檻から逃れたものだけが、赤い蛍光として俺から放たれた。
【なあ、どうしてこの炎の色を、人は「ユルシイロ」などと呼ぶ?】
クラクラする。何もかもがどうでもいい。俺は、このやり場のない感情を、これ以上どうすればいい? どこに吐き出せばいい?
ああ、呪えるものなら、呪えばいいのか?
「待て!」
【 っ ?!?!】
コツッ、と、冷たいものが、俺を刺す。
冷たい合金の少し分厚い刃。
その冷気が、俺の熱を殺した。
【ユウト……】
「……」
【その刃は、……何だ……?】
「……」
知っている。これはただの、包丁だ。丁寧に研がれてこそいるが、こんな柔いものに俺が突き通せるはずがない。ユウトはなぜ、こんなものを俺に突きつけた? そして俺は何故、こんな柔いものに恐怖した?
【俺は……ソレに、見覚えが……】
「……正気に返った?」
どこかで水が砕ける。その小さな雫が俺に降りかかる。いつからか、小雨が静かに降り始めていた。
【おいユウト、説明しろ――】
「あ、電話」
ユウトは無駄のない動作で刃をどこかへしまうと、スマホを素早く抜き出した。
「もしもし。鑑定結果? ……分かった、受け取りに行く。それと、例の件は? ……!」
わずかに、指越しに感じる心拍数が上がる。
「……あっそ」
ユウトはゆっくりと瞬きをした。
瞳が開かれる瞬間には、もう電話を切っている。そのまま俺に、鑑定結果を言った。
【…………は?】
ユウトが向かったのは、これまでとは別の意味で不釣り合いな場所だった。
俺を十ほど売っても買えないような絨毯の上を安靴が踏む。宮殿のような天からステンドグラスを透かしたエメラルドやペリドット様の光が差す。シャンデリアに使われているのが本物の宝石でないのが唯一の救いか。あんな所にぶら下げられる生活は送りたくないものだ。大層な造りだが、人間の気配はほとんどなかった。
「
しばらくケースに隠されていた俺には、ユウトがどのような取引をしたのか分からない。取り出されたときには、もういやに広い空間にいた。
輪に細い鎖を通すと、ユウトはネックレスのように俺を首にかける。
【おい、何故――】
鎖ごと俺を揺らされる。首を振ったらしかった。
「……」
無言のまま、ユウトは、広間の奥へと歩いた。
服の繊維の隙間から女の背が見えた。その奥には大きな緑石の台。女は立ったまま、その台を、丁寧に手で何度もなぞっている。そのしぐさに、何故か、冷やされるような感覚がした。
「あんたのことを少し知ってる」
ユウトは、老いた女の背に声を掛けた。
「あの事件……二十年前、アヌビスキルト号の船上で起きた強盗殺人事件の被害者の妻だ」
石を砕くような声だった。それも滑石ではなく、天然のダイヤモンドを。
俺はその音をよく知っている。身を砕かれようとした、その時に、この身に響いた音。感触。どうでもいい何かが、決定的に壊れる音だ。
女のぴんと張った背が、静かに揺れる。動かない石でなければ気づかないほど、静かに。
「あの方は一度たりともわたくしに笑いかけては下さいませんでしたの。辛うじて笑みとも言えるものを拝見したのは、ご遺影の中でしたわ」
女は背を向けたまま、淡々と言う。どこか聞き覚えのある、響きの悪い音だった。
「そういう時代でございました。身分の低かったわたくしには、不満を抱く暇もありませんでした。今ですからこのようなことも言えるのでしょう。……あの方が亡くなったとき、わたくしがいかに喜んだか、とお考えでしょう?」
声がわずかに低くなる。
「実際、よく言われたものでしたわ。どなたもご存知なかったでしょうね、あの方の心など。そして、わたくしの心も。遺産目当ての婚儀だったのだろうなどと言われても、痛むところなどございません」
石を……おそらくは棺に見立てたそれを、撫ぜる手が止まった。
「……お慕い申し上げておりましたわ。心の底から。今も」
響きの悪い音が、そのままで鋭さを増す。ドラゴンアゲートの模様よりもまだらに、嫌な感覚が侵入してくる。
「わたくしはあのとき六十手前。短命な病気持ちのわたくしの家系ではすでに長生きの部類でした。……非力な年寄りが、何を勘違いしたのでしょう。わたくしは、あの方を手にかけた者への復讐を誓ったのです」
女は、そして振り返った。
「あの方が亡くなったことをまざまざと突きつけられるさまざまな手続き、遺産相続、財産分与、あの方を悼むようでいてその残り香へ這いずろうとする者たちと、わたくしへの心ない言葉の数々。わたくしはひたすらに耐えながら、少しずつアレのことを調べました。すぐに逮捕されたのは、幸運でも不幸でもありましたわ」
女は、その人間のことを、アレ、と言った。
「どのような量刑となるのが妥当か、弁護士の力量、いつ、アレに科される罰は終わってしまうのか。到底、得心のいく結果は望めないことはよく分かりましたわ。……最も許し難かったのは、アレが、殺人を、最後まで認めなかったことです。アレに更生なんてできるはずがない。反省なんて、していなかったのですから」
早口になった女は、す、と一息ついて、またペースを取り戻すと付け加える。
「いっそ、ここが江戸の世であればよかったのです。もし許されるのであれば、わたくしは、子にどんな苦悩を強いてでも、敵討ちを命じたでしょう」
「……どうして、殺すのを止めたんだ?」
「何度も命を狙いましたわ」
女はフフフ、と、不気味な哄笑を立てた。ハンマーを当てて、舐めて、投げて、爪を立てられたような不快感。俺は、この音も知っている。
「その筋の者を何度も密かに雇い、居場所を探させて、幾度もの脅しと、何度かは暗殺の為に送りましたの。アレが塀の中にいるうちは手紙や危険物を送りつけたこともありました。アレが出所を恐れていると知った時は笑いが止まりませんでした。わたくし自身のこととはいえ、ここまで人間は残酷になれるものかと驚きましたのよ」
「……でも、あの男は」
「出所からたった一週間だったそうですのね。わたくしは……間に合いませんでした」
「あんたが殺す前に、死んじまったのか」
「わたくしは、しばらく病に臥せりました。あの方を亡くしてからというもの、わたくしの生きる意味だった、アレが死んだ。わたくしは何も出来なかった。何一つ残っていない。そう思いましたのも、無理のないことでしょう?」
そしてまた、笑う。この不気味で不快な音の正体に、俺はもう、気づいていた。
「生前あの方はよく、わたくしの選択、考え、好みをよくお当てになりました。『単純だ』、そう仰って。『お前のようなつまらん女も珍しい』何度も言われたものです。……あの方は仰ったのです」
『お前に、復讐は似合わん。出来んよ』
「……今でも覚えています。次第に冷たくなるお身体と、その言葉。あの方のお言葉に、抗いたいと思ったのは、それが初めてでございました」
「OK。あんたの意図はよく分かった。だからあんたは、遺体さえもあるのが許せなくて、墓を荒らして骨を盗り……コイツも殺そうとしたわけか」
ユウトは鎖を外すと、その先にぶら下がる俺を取り出した。
「……貴方は、知っているのですね。……その忌々しい、石のことを」
「まあね」
ユウトは俺をはめた小指を立ててみせる。
「コレ、『遺骨ダイヤモンド』なんだろ。あんたの夫を殺した奴の」
***
不完全な記憶の欠片が、炎の中で燻っては揺らぐ。
『ショックで記憶が消えるなんて、無生物にしちゃメンタル弱すぎ。ま、今あんたが宝石なのは間違いないんだけど』
俺は、かつて、人間だった。……らしい。
骨から炭素を取り出して、高圧をかけて、固める。そうやってダイヤを作ることが、可能なのだそうだ。出来上がったものは、本物のダイヤとほぼ見分けがつかない。顕微ラマン分光法……精密に、結晶の構造や含まれる原子の種類まで細かく調べられる方法でも用いなければ。
……正直、生前のことは、記憶にない。
『あんた随分無生物にしては人間臭かったから、確信はしてたんだけどさ。遺骨ダイヤモンドって人体中のホウ素が混じって青っぽくなることが多いって言うし』
ユウトは少し笑うと、表情を引き締めて言った。
『で、あんたは、殺人の刑で投獄されてた。出所後すぐ死んで、恋人だった女があんたの遺骨のいくらかをダイヤにした』
それを聞いても、当時の記憶は蘇ってこなかった。
『墓、荒れたままだったろ。……残念だけど、あんたの恋人は、三か月前に亡くなってるよ』
ただ、ユウトに聞かされたとたんに、記憶のどこかが、グラリと揺れた。
海に落ちる前。
俺を宝石にした女は、あまり裕福ではなかった。様々な仕事をいつも掛け持っていた。
あるとき、女は船に乗った。あの女らしくない服装、従業員だったのだろうか。航海の最中、頻繁に女に絡む乗客がいた。妙な視線に俺は警戒したが、女は全く気付いていなかった。そのときには、女ではなく俺が狙いだなどと気づけなかったのだ。
あの日、女の手から俺を奪ったのは、しわがれた感触の、粉っぽい手だった、
***
「アヌビスキルト号はもともとあの方の船、今はわたくしの物です。出航を決めたのも、アレの持ち主を雇い呼び寄せたのもわざと。船の上で隙を見て奪う気でした。でも、我慢のない年寄りだってことをすっかり忘れてしまいましたのね。発作的に手にしたものの、予想外に騒ぎになって。あれは失敗でしたわ。荷物検査が始まってしまい、とうてい、持ち帰ってから壊すというわけにはいかなくなりましたの。隠す能もありませんで」
それで、見つかる前にと、投げ飛ばしたりハンマーで叩いたり、という稚拙な手段を、ありったけその場で試したのか。
「それでも、宝石は綺麗なままでした」
女は無表情で言う。
「ダイヤモンドは硬いけれど、叩かれるような衝撃には弱いと聞いていました。だからハンマーを……でも、まさかわたくしが、傷の一つも付けられないほど弱っていたなんて。残念だったのです。せめてできたのは……海に、投げ込むことだけでした」
「ああ、『美しい』じゃなくて、『傷一つない』って意味の『綺麗』ね……」
ユウトは面倒そうに呟くと、
「それで、『我慢のない年寄り』は悲壮感で海に一緒に飛び込んじまったか」
俺を指から抜き取った。
「助けられたあんたは、そのうちに、コレが海の藻屑になってないことを噂で知る。……それから、また探してたって訳だ」
女が、喉を動かすのが分かった。間違いない。この女が、俺の探していた女なのだ。
紅い唇が、動く。
「お呼びした用件は一つ。単刀直入に申し上げます。その指輪、幾らで譲って頂けますか」
「……」
ユウトは黙った。ポーカーフェイスは動かない。
「……やっぱりな」
小さい呟きが、俺にだけ聞こえた。
【おいユウト、どういう意味だ?】
「……」
【貴様、高くこの女に売りつける為に俺を持って来たのか?!】
「……」
【おい!何とか言え!】
「……くだらない」
「こんなモンに、価値なんて無いよ」
ユウトは、俺をぱっと手放した。
空気が俺を包む。前方に投げ出された俺は、少し斜めに浮いて、一瞬空中で動きを止める。次の瞬間に、重力が俺を押す。自分の意志とは無関係に光りながら、俺は、女の足元に投げ出された。
【ユウ……ト……】
水よりも重い空気を、永遠よりも長い一秒を、俺は初めて知った。
「っ!」
女が駆け寄って、俺を拾い上げる。まるで大事なものを手にするようで、意味もない笑いが漏れそうになった。宝石なのに、笑い? もし俺が生きていて、こうして固められていなければ、間違いなくこの女にも負けない空っぽの声を零していただろう。
女が爪を指に食い込ませんばかりに俺を掴む。だが、ざらついた柔い肌が触れている程度にしか感じない。湿り気と粉っぽい臭いが俺を包んだ。あのときの臭いは、化粧のものだったか。
「なあ、婆さん」
ユウトは、ぽつりと言う。
「あんた、この石ころ壊せたら、死ぬ気か?」
女がぎょっとしたように振り向く気配がした。しかし遅い。それに被せるように、またも浮遊感と、ドスッ、と、重い何かが倒されるような音。指の隙間から飛び出して少し転がると、ユウトの顔とシャンデリアが見えた。
ユウトの拳が、絨毯を叩きつける。俺はわずかに弾む。
「あんたは、こんな石ころの為に生きてるのか? こんな、たった三百ミリグラムの為にか?」
「おやめなさい……無礼者……」
「あんた、そんなちっぽけな奴なのかよ。命を粗末にすんのが上手いな」
「貴方に、何が分かるというのですか……」
「分かるよ。あんたみたいな意思の弱い奴はみんな、この宝石の呪いに掛かるからな」
女の抵抗が、止まった。
「の……呪い……?」
「ああ、呪いだ。あんたはもう、この石に憑りつかれてる。あんたが海に飛び込まなきゃ、この指輪が救われることも無かった。あんたが、この石を助けたんだよ」
ユウトがゆっくりと、俺を掴んで上体を起こす。俺を女の顔の前にぶら下げる。
「認めろよ。本当は悔しいだけなんだろ?」
仰向けになった女は、俺を目で追うことしかできない。
「悔しいんだろ? 大切な人を殺した奴の亡骸が、こんな綺麗な石になったのが。それに惹かれちまったのが。認めろよ。そして、奪ってみせろ」
もう女の口からは言葉が出ない。
ミッドナイトレースオブシディアン。珠のような瞳の模様が、歪んだ。
「俺はあんたにこれを渡さない。欲しけりゃ全力で奪いに来な。死にたきゃ死ねば良いが――」
女の呆けた顔が、俺にはっきりと映る。淡い赤――ゆるし色が、顔に落ちた。
「勘違いするなよ。あんたを絶望させるのは、寿命でも旦那の記憶でもない。この石だ 」
身を焦がす炎が一筋消えたのに、俺はそのときようやく気づいた。
【……何故だ?】
俺がユウトに呼びかけたのは、ユウトが霊廟を出て十分は歩いてからだった。
何に対して問うたのか自分でも分からない。あまりにも整理がついていないことが多すぎた。
「なあ、あんたはなんでそんな色をしてると思う?」
【は?】
ユウトはまた俺を鎖に通し、首から下げている。こんな無礼なことをされるのは、実は俺の記憶の中で初めてのことだ。
「遺骨ダイヤモンドは青がかった色になることが多い、ってのは言ったよな。他の色になることもある。でも、そんなはっきりとした赤い蛍光が出るのは、ふつうあり得ない」
【……何が言いたい?】
「もちろん合成的にトリートメント……加工を施して発色させることもできるんだと思う。ただ、わざわざそんな加工する必要がほとんどないんだよ。……最初から、あんたの色がずっと気になってた」
【「最初から」? 俺を、天然のブルーダイヤモンドの粗悪品だとは考えなかったのか?】
「考えてない。あんたが遺骨ダイヤってのは、最初から確信してたからな」
ユウトは薄く、笑うような息を零した。
「俺、明らかな人工物としか会話できた試しがないんだよね。包丁とか、キモイリの市の近くに立ってる街灯とか? もちろん、人工物なら何とでも話せるわけじゃないけど」
【!】
宝石限定なのだと、思い込んでいた。
【じゃあ、お前は、俺の声を聞いた時から、分かっていたのか……】
「そ。鑑定にかけたのは、天然か合成か知るためじゃない。俺は知りたかった。あんたがピンクの蛍光を発する理由を」
【何故だ? そんなことを確かめても、何の意味も無いだろう】
「……発色の原因が何かの元素の混入だとしたら。嫌な予感がしたんだよ」
ユウトが拳を、強く握った。
「調べてもらった結果、明らかに通常の人体から検出されない物質、というか元素が出てきた。色に作用したかどうかは分からないけど……毒物だった」
【毒……?】
「調べてみたらさ、あんたの死には不審な点があった。……というか、出所直後じゃなきゃ事件として扱われてもおかしくなかった。他殺とは断定できなかったけど」
【……俺は、殺された、の、か?】
「その上、半年前に落ちた奴が同じ船で二十年前に殺された富豪の妻。……探ってみたくなった、あの婆さんを。あんたの写真を送ってアポ取れる時点で、あんたと無関係じゃないのは確定してたしな」
【全く……】
妙に頭の回る奴だ。
「そんなことより、問題は、あんたを殺したのがあの婆さんじゃないってことだ」
しばらく沈黙が落ちる。
「……本当にあの婆さんが殺してないなら、あんたを殺す動機のある奴って誰だ?」
【……】
「あんた、生前ずっと無罪を主張してたよな。もしかしたら、あんたは……」
【何故だ】
「何が?」
【……何故、あの女にあのようなことを言った。呪いを信じていないお前が】
何故、俺が犯罪者かもしれないのに、そこまでした? とは、聞けなかった。
「嫌いなんだよ、くだらないことで勝手に死ぬ奴」
ユウトの体温がわずかに上がる。歩いているせいか気温のせいか、分からなかった。
「それに……これで果たせただろ? 復讐。殺さなくても」
【……】
「他殺で死ぬのもくだらないよ。あの婆さんを殺すのもくだらないし、あんたの死も。だから、あんたを殺した奴、探すくらいはしてやってもいい」
【何故――】
「さあ。殺したがりの居候に、慣れてるからかもな。今度嫌だけど紹介するよ」
その言葉の意味は、まだ分からない。ただ、俺の刹那を輝かせるのは、確かにこの男から発せられているのだということが、分かった。
ユウト、お前はやはりオパールだ。
【……ユウト】
「ん?」
【……首から下げるな。揺れ方が不快だ】
「あんな啖呵切った以上、さすがに見せびらかして歩くわけにはいかないだろ?」
【それでも、貴様の指が良い】
ユウトの指が、俺をつまみ上げる。わずかに撫でて、左の小指を差し出した。
「ユルって結構我儘だな」
【その名で呼ぶな!】
静かなピンクの蛍光が、俺の意志でユウトの指に落ちる。
「宝石が綺麗だったので生きることに致しました。そう、あの美しい石ころの為に。わたくしの尚も凡庸な人生の、最も『つまらん』決断を、あの方は面白がってくださるかしら?」
沈黙の小詩 山の端さっど @CridAgeT
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