深碧に灯

 僕が生まれたのは、きっと雨の夜だった。


「湿度が高けぇから、気をつけろ」


 それが初めて聞いた音で、初めて聞いた生物の声だった。そのとき、僕の形ができ

たのだ。

 職人の人間に組み合わされて、ビスを入れられた。そのときにはまだ視界は曇りガラスのようだった。


 僕は街路灯、というらしい。防犯目的もあるのだが、一番の目的は景観のためのようだった。灯りの部分、灯具も、本当はLEDなのにガス灯みたいなデザインだ。

「アンティーク調」にするために、最初から表面をいぶされ、塗装をかけられた。傷みやすくなるのではないか。僕はポールが凍り付くような気持ちだったが、職人はその出来に満足しているようだった。


「元気に働いて来いよぉ」

 人間の手が触れたところはたやすく僕を温める。その手が、「110217」と書かれたプレートを、二段ポールの中ほどに打ちつけた。

 合金でできている僕は、痛みを感じることはない。


 僕の意識がはっきりとしたのは、電気が通され、電球が光り出したあの夜。ぼた雪が嘘のようにゆっくりと降る夜だった。


 そこは静かな町だった。僕の照らす道にはほとんど人間が通ることはなく、ただひたすらに陽が沈み、上り、また沈む。昼夜を見分けるセンサーがそのたびに僕に時を知らせ、僕は点灯と消灯を呼吸のように繰り返した。




[ああ]


 小さな信号が、電線の中をこだました。


[きみは誰だ?]

 僕もそれを真似して、信号を送り返す。


[俺は110216だ。お前、話すのが上手いじゃないか]


 僕は、自分が「話した」のだと、ようやく気がついた。初めての会話だった。


[ここはいったい、どこもかしこも空虚で満ちているな。きみも退屈したろう?]

[空虚、とは、何だ?]

[ああ、きみは僕よりも遅く来たからね。そのうち、嫌でも分かるさ。ここにはそれしかないんだ]


 聞き返そうとしたとき、さっと陽が差した。僕らは沈黙した。





 次の夜、珍しく人間がやって来た。男だ。


「ったく…こんな田舎によぉ……俺が……どうして……」

 110216と話をしようとしていた僕は、それを止めて人間を見守った。


 男からは一部の塗料によくある臭いと似たものがした。

 それを使うとき職人は皆マスクをしていた。あれは、生き物の体には良くない薬品なのではないだろうか? 僕は小さな不安を覚えた。


 男は、赤い顔をしてふらふらと定まらない足取りのまま僕の足元に近づいてきた。そして、煤けたレンガの地面に座り込んだ。僕の灯にちょうど全体が照らされる位置だ。


「俺だって……俺だってなあ……」


 呼吸音が乱れ、小さく僕の支柱の下の方に熱が触れた。

 僕は人間の言葉が分かる。それなのに、なぜかこの人間の言うことの意味が分からなかった。110216なら分かるだろうか? それとも、そのさらに先達だという110215なら……


 そのとき、ポールに柔いものが叩きつけられた。わずかに僕にその衝撃が響き、



        ごぅ……


 やや遅れて鈍い音を立てる。

「痛ってえ!」

 言いながらも、男は何度も僕を叩き続けた。


 押し負けるのはどちらか、崩れるのはどちらか、そんなことは分かり切っているのに。ほとんど新品同様の僕が、肉を持つ身とこんな形でぶつかり合うことなんか、職人は考えていないのに。



「もうどうなったって……いいんだよぉ……」



 僕は痛みを感じない。無機物ってそういうものだ。

 でも、人間は違うじゃないか。


[110216,これが『空虚』ってやつなのか? こんなものが『孤独』なのか?]

[そうだよ、110217]

 110216はそれだけ言って沈黙した。それから先、しばらく信号を聞くことはなかった。


 僕は、ただ人間の姿を照らすことしかできなかった。雪が灯りの外まで白く染める半宵、男がゆっくりと白けた彼方へと這いずり踏み出してゆく。それを、ただ見当違いなところを照らしながら見ていた。






 職人と呼ばれる人間たちがまた来たのは、僕が夏を初めて知った頃だった。

 夏は、僕が形作られた時のあの熱さを思い出す。僕はゆるりと、ざわめきへ注意を向けようと熱で膨張し軋むギボシを揺らした。


 そのころ僕は、やっと静かなこの町に慣れ始めていた。もともと古めかしく作られた僕と、その造りがよく似合う町には、引き合うところがあるのかもしれなかった。


 今度の職人は、僕を作ったのとは違う様子をしていた。胼胝と熱とにいつも包まれていた職人と違い、土と深い油とが臭った。

 職人は機械を連れてきた。

 動く小さな軋みの音、それでも僕よりは大きい音で、機械は声を発した。


[やあ、あんたとは、初めて、だな?]


 ぎぎぎ、と何かの引っかかるような音交じりのそれは、生き物の吐息にも似たものを感じさせた。金属疲労、古い機械の声だ。


[はい。あなたは……]

 僕は久しぶりに信号を出した。電線の繋がっていない相手とは光の点滅で話すのが一番楽だけれど、今は昼だ。僕は灯具を揺らした。


[わたしゃ、ずっと、こうして、掘り返したりまた埋めたり、何かを運んだり何かを下ろしたり、してるのさ。ずいぶん老いぼれだと、思うかね? でも、まだ五年は、使うだろうよ。……本当は、もっと早くに、バラしてもらいたいんだがね]


 僕が作られた工場でも、似たような音がしていた。あそこでは確か、何かの機械がもうダメだって、今バラさなきゃ事故を起こしてしまうって、壊されていた。

 僕はなんだか、バラバラの機械がもう声を持たないような気がしたのだ。


[それはそうと、もうすぐ、ここに樹を植えるってさ。一体、こんなところに、何をする気なんだろうねぇ]

 話好きの機械は、ぎぎぎ、壊れながら、ゆっくりと話す。やけに長めに感じられた作業の間、話せたのはそこまでだった。


[話せて楽しかったです。ありがとうございました]

 やや強めに継ぎ目を軋ませて話すと、機械はゆっくりとアームを揺らした。

[その音は故障かと思われる。土台が弱いのかってな。わたしらは壊れたらおしまいさ。今度からもっとゆっくり話すと良い]

 そして、長い別れの言葉の代わりにぎぎぎ、と言った。




 機械の話の通り、翌日には樹が運ばれてきた。てっきり大きな木を移すのだと考えていたが、運ばれてきたのは人間の背丈くらいの小さな木で、枝も電線と大差なかった。

 ぼんやりと植樹を見ていたが、昨日とは違う機械は僕に話しかけてこなかったし、僕も話しかけることはしなかった。


 なぜ、人間はこの寂れた街角に僕を建てたのだろう。

 なぜ、今またここに樹を植えるのだろう。


 すべてが無駄なように思えたし、きっと間違ってはいないのだろう。僕はただ、初めて見る木の根にちょっと興味があっただけだった。

 埋め込まれた僕のように継ぎ目も部品もなく、植えれば最後、上の幹が伐られても癒着したままだという。同じく動かないのに、ここまで違うのは驚きだった。

 それだけだった……





「やあ! 良かったら、僕とお話しようよ。君のことなんて呼べば良いかな?」


 その声が、聞こえてくるまでは。




[ま、まさか……僕に話しかけているのか?]

 僕は灯具のガラスを軋ませた。あんまり驚いて、ガラスが外れて落ちてしまうかと思うくらいだった。


「そうだよ! 君は電灯だったっけ?」

 明るい、若々しい声。でもそれは、機械の音とも人間の声とも違った。


[ぼ、僕は、「街灯」かな。街灯の中では、110217番だ]


 人間に作られた僕は、人間の声を聞くことはできる。同じ電気で動く機械や街灯の声を聞くこともできるし、彼らには僕の声を伝えることができる。

 でも、植物はダメなはずだ。そもそも人間以外の生物の声は僕には分からないし、僕の声も彼らには理解できない。


 そう、思っていた。


「えへへ、父さんは凄いや。町の街灯ともお話しできちゃった」

 嬉しそうに、まだ幼いのに濃い緑の若葉を揺らす若木は、たしかに僕の言葉を理解し、僕にも分かる音で話しかけていた。


「僕のことは、『コリュー』って呼んでよ」


[コリュー? 植物にも僕らのように名前があるのか?]

 やや聞きづらそうにするコリューに、僕はできるだけゆっくりと、ポールから左右に伸び出たアームを使って大きく音を鳴らして話した。幸い職人たちはもう引き上げ時で、街灯の軋む音に注目する人間はいなかった。


「僕ら植物のうちでは、特に名前はいらないかな。動物たちと話すときに、どの樹かどの花か区別するのに使う時があるんだ。僕の父さん母さんは森の中では一番の学者だった。父さんは凄いよ。無機物の言葉を覚えて、会話ができる方法を見つけたんだ!」


[それで君は話せるのか]


「そうだよ。父さんはなんでか知らないけど、幹に『竜』って文字があるんだって。だからリューって呼ばれてる。その子供の僕らは、みんな『コリュー』って名乗るんだ」


[近くにいる兄弟全てが同じ名を名乗ったら、混乱しないか?]


「近い場所に根を張ったら、樹はすぐに死ぬよ。生まれた場所を離れて遠くに根付かなきゃいけないんだ。僕みたいに運ばれるのは珍しいんだから」


 きっと樹齢は僕のそれをはるかに超えるのだろう。まだ若いはずのコリューの話し方は子供そのままで、最初から古いせいか話し方の安定した僕とは、はるかに年が離れているように思えた。

 それなのに、彼の言葉一つ一つ、その内容は、僕よりも明るく、闇よりも暗く、彗星のように目まぐるしく感じられた。


[……君は森から来たのか]

「うん。普通森から外に出た種子はすぐ死んじゃうんだけど、僕はたまたま植林場に落ちたみたい」


 コリューは活き活きとした枝で、「植林場」という場所について話し出した。

 僕はその話を聞くうちに、一つ、聞きそびれてしまった。野良猫に遮られて照らせなかった地面のように、そのまましまい込まれてしまったのだった。



[親が居るって、どんな感じなんだ?]




 いつものように夜が訪れるころには、あの嘘のような熱気も少し収まってくる。僕は当然のように灯を点した。


「えっ! 凄い、本当にすごいよ! そこが光って照らされるんだね! 明るい!」


 その当たり前が、コリューには物珍しいようだった。コリューは珍しそうに枝を揺らし、くっきりとした影をしばらく楽しんでいた。かと思えば、


「ねえ、17さんから僕の影って見えるの? 灯りのところから見てるなら、どこを見ても明るいと思うんだけど」

 と、枝の先を軽くひねって話しかけてくる。


[全体的に分かるな。センサーの付近が一番はっきり見えるけど、それ以外も感じられる]


「そっか、じゃあ影あそびできるね!」


 僕の灯は、コリューの全身を包み込んでいた。コリューにはそれが嬉しいらしく、


「まるで夜も昼みたいだ!」

 葉音を鳴らした。


 嬉しいのは僕も同じだった。

 最近知ったことだけれど、僕に照らされている植物はその外側よりも成長が早いらしい。光が葉に当たるのが良いらしい。

 コリューの知っていることを何も知らない僕だけれど、僕も何かを与えることができる。コリューを照らすことができて、ちょっと得意だった。


 朝になり、コリューが少し休みたい、と言うまで、僕らは話し続けた。コリューは少し黙っていたが、近くの「雑草」たちと、明るい声のまま僕には分からない言葉で話を始めた。

 僕は話し続けて疲れていた。全ての動きを止めると、風に吹かれた。その程度では土台やポールは揺らがないけれど、ガラスが軋み、旗は容赦のない風に千切れそうにはためいた。





「街灯だから番号で良い、ってことはないよ」


 その夜、コリューは僕に名前をつけたがった。


[でも、僕には親もないし……]

 言いかけて、職人の手を思い出した。よく覚えていないけれど、固い手だった。職人の手に触れられているうちは気づかなかったけれど、地面に固定され、汗なんて一つも掻いたことがないような人間に触られたとき、初めて気づいた。


『お前は、長生きするぞぉ。よーく、作ってやったからな……』


 人間は、よく分からない。でも、あの職人は……



[シズクイシ]


「え?」


[僕を作った職人がそう呼ばれてた]


「シズクイシ……うん、良いんじゃないかな!」

 コリューにも聞き覚えのない音だったようだ。やや戸惑ったような呼吸ののち、それでも歓迎してくれた。


「改めて、よろしくね、シズクイシ」


 僕は……シズクイシは、灯具をどちらも大きく揺らした。


 その名を呼ばれたとき、LEDのくせに、電球みたいに温度が上がった。そんな気がした。

 そしてその温度は、ずっと続いたんだ。


「長く一緒に居られるといいな」

 コリューは、ちょっと葉っぱを整えてませたことを言った。ややつやを持つ葉が星の光を跳ね返した。


[僕は三十年くらいしかここに居られないと思うけど]

 たしか僕の耐用年数はそのくらいだった。


「そうじゃないけど……それ、大丈夫?」


 ぼんやりしていた僕は、灯りを瞬かせて話す話し方になっていたらしかった。この話し方は信号のオンオフを切り替えるだけだから楽なのだ。

[あー……きっと大丈夫だよ]



 大丈夫ではなかった。

 点滅する僕を見ていた人がいたらしく、その数日後、僕は灯具の窓を開けられて、点灯部分が故障していないかしつこく調べられた。

 この人間も職人なんだろうか。僕にはもう、よく分からなかった。


 人間が帰っていったとき、コリューが木の葉を落として話した。

「もう、あれは使わない方が良いね」

 僕は灯具を軋ませて肯定した。






 それから十年はかかっただろうか。ちょっとだけ時間をかけて、僕らは長い永い話をした。


「父さんはね、深―い森の最奥の、花畑の近くに住んでたんだ」


[どうして、森のどこにいるか、なんて分かるんだ?]


「父さんの父さんが、調べたんだ。森に何本木があるか、調べるついでに」


[……植物って、意外といろんなことができるんだな]


 コリューは背伸びをした。


「人間が思ってる以上にはね。母さんは、少し離れたところ。少し幹にねじれのある、素敵な木だったらしいよ。でも父さんにはね、母さん以外に好きな花がいたんだって」

[え?]


 秘密だよ、とコリューは小さな葉擦れを立てた。一枚ずつの葉を重ねて、本当に小さい音を立てたのだ。




 また、時には僕の話もした。

 そのころには僕も長話をするのに慣れていて、点滅させずとも、いちばん簡単な旗を動かす話し方から、アームを動かすめいっぱいの感情表現まで一通りこなすことができた。


[サイトウって職人は、いつも手を頭の後ろにやるんだ。長年の癖なんだ。朝来たとき、挨拶するとき、返事するとき、作業前、作業中、汗を拭うついでにも。あるとき、珍しくペンキを使って作業してたんだ。どうなったと思う?]


「どうなったの?」


 僕はとっておきの表現をした。つまり、根元から全体をぐるりと揺らした。

[うっかり頭にペンキまみれの手をつけて、それを他の職人にからかわれて返事したついでにもう一回手をやったんだ! 作業が終わるころには十個以上も跡がついてたよ]


 コリューは全体の葉を細かく震わせた。


 コリューは成長が意外と早く、そのころには樹の一番高い葉は僕の灯具にだいぶ近づいていた。それにつれて大きく伸ばした葉も、僕に迫るほどに太く広がっていた。

 その数枚が、そのとき初めて僕のポールに触れたのだ。


「……ところで、君はなんで、サイトウって人間のいつもを知ってるの?」

[あれ、言われてみれば、何故だろう。僕は作られてるほんのちょっとの間だけしか、あの工場にいなかったはずなのに]





 お互いの昔話の他に、道行く野良ネズミのことも話した。

 それはごくまれに道を横切る首輪付きの黒猫のこともあった。僕に昔噛みつきかけたり小便をした眼の薄赤い犬であるときもあった。それにもちろん、人間のこともあった。


[さっきの人間、見たか?]


「見たよ。君の下でしばらく本を読んでいったね。あのまま歩き出さなくて安心したよ」


[ああ。……僕は少し人間の文字を読めるって言ったっけ?]


「初耳だ」


[『雫石』だ。字が分かった。さっきの本に書いてあった]


「え? どういう意味なんだ?」


[ゆっくり話そう]





 コリューが僕の一番上のギボシを超えるころには、だいぶ大人っぽい話し方になっていた。それにつれ僕らの話も思い出話からゆっくりと進化し、宇宙や二人とも見たことのないものの話になることもあった。

 そして、何度も繰り返したのが、光のことと闇のこと、そして存在の話だった。


「……それじゃ、シズクイシがjigaを持ったのは、正確には『完成したとき』のようだね」


[ jigaって何だ?]


「自我。心のことだよ。無生物でも僕らと似たようなものなんだね」


 コリューは意識に興味を持っていた。研究者、と言っていたが、たしかにコリューにもその性質は備わっているようだった。


「僕らは種や鉄の塊だった。僕なんてその前は父さん母さんの一部だったんだ。いつ、『僕』や『シズクイシ』ができたと思う?」


[難しいな。ぼんやりと記憶があった頃は、僕じゃないのか? じゃあ、誰なんだ?]


「誰、誰なんだろうね。僕の考えていたことが、もし正しいなら……」



 僕らはほとんど黙ることはなかった。その代わりのように、昼間はお互いほとんど話さない。僕は眠る必要は無かったが、コリューは時折、二酸化炭素を吐くのを抑えていた。

 固そうな樹皮の奥で、何かが絶え間なく流れ続けている。そしてそれはコリューが休むこの間にも、コリューの体を作り続けているのだ。


 やがて、大きく伸びたコリューの枝が僕を包みはじめた。


[これではそのうち君の内側に収まってしまうね]


 僕は少し残念そうに言った。これからは、コリューをまんべんなく照らしてやることができなくなるのだ。

 しかし、コリューは逆に嬉しそうだった。


「これでやっと、あるべきところに収まった」


[あるべき、ところ?]

「そうさ。これでやっと僕は大人になれた」


 その意味は、分からなかった。




 十数度目かの秋が来て、強い秋風がコリューの葉を引きちぎり、巻き上げた。僕を少しずつ風化させてゆくその流れが、枝に当たってほんのわずか、乱れた。


[痛くないのかい?]

「痛くないよ、もう」


 月の夜には男と女の人間が、二人、ゆっくりと歩んで過ぎ去った。

 またあの風が吹いて、何もかもを吹き飛ばそうとする。男は、その冷たさをわずかも二人の間に入れぬよう、強く女を抱きしめた。

 空には雲一つなく、満月にわずか足りない月は爛々と、僕の光さえ要らないほどに二人を照らした。


[こんな夜は初めてだ]


 僕は何の気なしに旗の揺らぎに言葉を加えた。


「長く一緒に居られたなら、……」


 コリューのさざめきがあったが、落ち葉の飛ぶ音で何も聞こえなかった。






「この木も、切らなきゃあかんよなぁ」



 



 言葉は分かるはずなのに、意味が分からない。昔僕はそう言ったことがあった。


 あれは嘘だ。真実ではない。

 信じたくないことを聞いたとき、僕の中の鉄の塊かビスか、何かが、そういう嘘をつくのだ。


[おかしい。絶対におかしい。だって、君をここに植えたのも人間じゃないか! なんで今更、根まで……]


「僕が、大きくなりすぎたんだろうね」


 コリューは静かだった。そして、その美しい、暗い緑の葉をゆっくりともたげた。


 今や知的に成熟した成木で、まだひび割れも少ない幹は盛りそのものだった。小鳥が留まっては美しい歌をさえずることもあり、虫たちはよく樹液を求めて上り下りした。それに、そういう風に作られてもいないのに、コリューはよくこの町並みに似合ったのだ。

 僕の光がコリューの葉を通して柔らかくなり、レンガを染める。風が吹けばさざめいて、春夏には今のように柔らかな小花を枝葉全体にまとい香りの滝を流す。秋には鮮やかな落ち葉で満ちる。


 そう、夏が過ぎれば秋になる。僕は、きみなしの秋を知らないのに。


「レンガも僕の根で隆起し始めているし、それに、傍から見ると君が圧迫されてるように見えるだろうね」


 死ぬ体があるって面倒臭いものだね、と嗤っていた。


「大丈夫。この時期でよかった。君に最後のプレゼントをするのに間に合いそうだよ」

 さあ、ギリギリまで話をしよう。コリューは、そう言った。





 それからのことは、ほとんど覚えていない。覚えているのは、


「頑張って、ね」


 優しく葉を鳴らした音と、真新しいチェーンソーとブルドーザーの唸り声、そして僕に刻みつけられた悲鳴の振動だけ。残ったのは、均されてタイルを敷き詰められた地面だけだった。

 その晩僕は灯さなかった。


 僕は、独りになった。コリューはここで途絶え、僕だけが続く。それは笑ってしまうくらい滑稽で馬鹿馬鹿しくて、僕は小さく小さくポールを揺らした。

 コリューは長生きの樹だ。僕よりずっとずっと長生きする。コリューは僕以外にも多くの人工物と話をし、これから先も生きてゆく。なにか子孫が自慢するような研究だってするだろう。そのはずだったのに。

 あのブルドーザーが僕まで砕いてくれたら、どんなに良かったか。でも僕は、それが僕の終わりなのかどうかすら知らないのだった。


[コリュー、教えてくれ。僕はこれからどうやって宇宙の話をすれば良いんだ?]


 返事の代わりに落ちた雫がレンガを醜く濡らした。




 そのあと。僕に先なんてあるんだろうか?


 もちろん、あった。どんなことの後にも、生ある者のもとには夜が訪れ、朝が訪れる。

 僕にも朝はやってきて、いつものカラスが飛んでくると、消えた足場を求めてしばらくうろついていった。アリが触角を動かしてタイルの隙間から湧き出してきては、コリューがいたはずの地面の上を這っていった。いつも僕に小便をかけようとする犬が、戸惑ったように立ち止まると、その地面に吠えて去った。


 僕はもう、それらを全ては把握できなかった。錆びついた機械のようにじっと、黙っていた。


 夜が来て朝が来る。満月が来て新月が来る。秋が来て冬が来る。春が来て翌年が来る。往年が去って点検業者が来て一度日食になる。全てどうでも良かった。それを察知するのは小さなセンサーだけで、僕はそれに従って点けたり消したりするだけだった。それ以外は、何もする気にならなかった。


 耳の先を欠いた迷いウサギが通ったが、珍しさを語る相手はいなかった。110216や110218は時々話しかけてくれたが、その信号にも僕は十分に答えられなかった。日々は僕をすり減らして風化させていったが、それでも深く金属をえぐったコリューの音はくっきりと跡づいたままだった。






 その日は嵐だった。


 嵐自体は何度も体験していた。翌朝になってコリューの枝が数十本折れ、代わりにゴミ袋や傘が突き刺さっていた。僕にも鳥の羽がくっついていて、自分では振り落とせなくて困ったのを覚えている。


 この嵐は、今まで体験したどの嵐よりも激しく荒々しかった。把握しきれないほど多くのものが叩きつけられては、僕から引き剥がされていった。

 体温を持つものもいた。大きなものも小さなものも、いつか生きた姿を見てみたいとコリューと話し合った魚も混じっていた。鰓が僕の旗を破り取っていった。灯具のガラスはもちろん割れ、そこに誰とも知れない木の大きな枝が突き刺さった。トラックがかすって、ポールに大きなへこみができた。  


[110217,無事かっ。ああ……]


 110216の声を巻き込んで、電線が切れた。

 僕はもう何もできず、といって、何かをする気にもなれなかった。



  ―― イ ト ワ シ  ヤ  ――



 何かが聞こえた気がした。でもその意味は、本当に分からなかった。分かりたくもなかったほど、悲しく身勝手で、中途半端に焼かれるような声だった。


 もしかしたら、僕は、やっと死ねるのだろうか。


 コリューの音が裂き、切れ目を入れた。そのときから僕の心はひび割れ、死んでいたようなものだ。

 その亀裂が今、押し広げられて、僕の体を裂こうとしている。


[コリュー……]


 数年ぶりに発した音は、ひび割れて、とても聞けたものではなかった。その音を、僕もろとも鉄塔が砕いたのを、どこかで感じた。






 意識が飛んでいた。バラバラになった奇妙な感覚に戸惑いながら、僕はじっと静かになったあたりを見渡した。


 何も無いし、何でも有った。


 かつての建造物は電柱も木も道路も遠くに屋根だけ見えていた建物もなく、ただ寂寞とした岩交じりの土砂が遠くまで広がっているだけだった。

 しかしその中には、電柱も家も看板も橋も、僕や他の電灯のかけらも、ドラム缶も人間もいた。ただ、体温をもつものは何もなかった。きれいなものもなかった。


 そして僕も、泥だらけでバラバラで、次第に剝げた塗料の奥から錆が広がり始めていた。鉄を食う微生物も入り込んでいた。

 それにつれ、意識が薄れていく。僕が本当に存在していることすら不思議になってきた。あんなにはっきりしていたはずのコリューの記憶も、傷跡が溶けていく今、消えてしまうのだろう。


 ああ、やはり死ぬのは、怖くなかった。


 僕が怖いのは、コリューとの日々を、その記憶を失うことだ。


[怖い……こわ、い……]


 僕は痛みを感じ死を恐れる生き物のように、無様に、地面に這いつくばった。


 コリューを失ってから、人間に触れられたときの熱すら感じなくなった。ただ流されてたどり着いたこの場所には、何もなかった。何も見えなかった。何も信じられなかった。






「やあ! 良かったら、ぼくとお話しようよ。きみのことはシズクイシって呼べばいいかな?」

 その、声が、聞こえてくるまでは。






その植物は、ツグリューと名乗った。


「嵐すごかったね! ぼくはまだ小さかったから、なんとか揉まれても無事だったよ。根がそんなに傷まなかったから、図々しくここで根付いちゃった」


 まだ双葉が残っているような、樹になるとは思えないような小さな芽生えに、当惑し、混乱した。


[君は……]


「ぼくはね、コリューの息子だよ。それも、一番最後の息子。ぼくは父さんが切られる直前の子どもだから、きみとの思い出をいっぱい持ってるよ。花粉として父さんからいろいろ聞いてたし、最後の方は実際にぼくも見聞きしてた」


[こ、りゅー?]


 一瞬記憶に照らして、すぐに思いだす。コリューだ。

 ツグリューは若かったが、その葉の形と色は、コリューのそのままだった。


「きみへの伝言をね、預かってるんだ! 時間がない。会えてよかった!」


[私への……?]


 なぜ僕は[私]と言ったのだろう。意識がひどく混乱していて、別の誰かになってしまったような錯覚を覚えた。



「ぼくの父さんは、ひとつ仮説を立ててたんだ。無機物の、jigaについて」


 自我のことだと、すぐ分かった。何年もかけて、折に触れて、コリューと話した話題だった。時にはコリューが枝を折るか僕が灯りを消すまで止めない、そんな意気込みの夜になることもあったのだ。

 そうして僕らは金属疲労と老化の末に、なんて話しただろうか?



「ぼくたち生物は、『代替わり』をする。世代が変わるごとに、意識が変わるんだ。でもきみはそうじゃない。ずっと成分はそのままだ。……それなのに、シズクイシの記憶は街灯になったときから。部品がバラバラのときに至っては、『意識がはっきりしない』状態だ」


 それに、と、ツグリューは枝を鳴らした。


「サイトウの記憶! きみが知らないはずの昔の記憶が、きみの中にあった。これを説明するのに父さんはひどく樹皮を荒らしてたよ。絶対説明できるはずだ、って。それでようやく、分かったんだ」



 ツグリューは、いったん音を切った。

 風に吹かれた枝が勝手に音を立てる。意味のないそれすら、僕には愛おしく思えた。



 やがて、その枝が、葉が幹が、星空に吹かれたようなさざめきを立てた。

 それは、僕が聞いた植物の言葉の中で一番美しく、尊いものだった。




「きみは、無機物の意識は、形が変わったときに生まれ変わるんだ!」




「しかも、記憶はきっとどこかに残っている。きみみたいに、鉄鋼からドロドロの合金、部品、という段階を経てる場合には、だんだん意識ができていく。そのときに、きっと鉄鋼だったときの意識と入れ替わったんだ。でもその記憶は引き継がれた」


 初めて旗を揺らしたときの風が、僕らの合間を吹き抜けた。僕からゆっくりと、ガラスの破片が落ちるのを感じた。


「……何も無駄になってないんだよ! きみが今意識を失おうとしてるのは、新たな意識で、記憶を受け継ぐためなんだ。父さんときみのことも、全て、繋がっていくんだよ! シズクイシはずっと続いてくんだ!」




 昼なのに、星が僕のアームに降ってきた。コリューと名を決めたときに感じたあの熱が、また僕のどこか中心に灯った。


 電灯のように、僕はその光を大事に抱え込んだ。




[私は……どこまで行けるんだろう]


「きっと、どこまでも遠くへさ!」


 ツグリューは、コリューと同じ色の葉を僕の前で元気良く、分かりやすいようにゆっくりと揺らした。古い機械と話すとき、私もそんな風に強めに話したっけ。


 もう私には、僕には、ぼやけた視界しかなかった。その色だけが、最後の記憶として錆びゆく僕のどこかに染みついていった。


「さよなら、シズクイシ」


 その深碧しんぺき色が――――――





 そうして、それから先の僕の記憶はもうない。











深碧色 #005E15

RGB R:000 G:094 B:021

緑碧玉の色のような力強く深い緑色











「……もし、もしね、父さんの仮説が間違ってたらさ。

 そしたら、シズクイシの記憶は、ここで消えるだけなんだ。なーんにも、残らないんだ。

 だって、鉄だって合金だって錆びちゃう。そしたら、全然違うものになっちゃうんだ。きみじゃなくなっちゃうんだよ?


 きみの抜け殻が、本当に意識を持つものなのか、きみを継いでいるのか。それの言葉が分からないぼくには判別できない。人工物の言葉が分かるって言っても、錆びの言葉なんて、それが生きているのかなんて、知らないもの。だってそうでしょ?


 父さんはそれも分かってた。でも、もし消えちゃうんなら、最後の一瞬まで希望を持っていてほしいじゃないか」



 鉄屑が、風に舞っては、葉を穿つ。



「信じたいじゃないか……」

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