沈黙の小詩
山の端さっど
華の運命
あの花は、たぶんこの世で一番きれいだったのだ。
なんという花なのか、私も近所の花たちも、気まぐれで一度ここに降り立った、毎年南北を行き来する大きな鳥も、知らなかった。人でさえ知らなかった。
ただ、美しいということだけ知っていた。
地表に現れる前からそれは際立っていた。
私たちの住処は、この森にぽっかりと空いた陽の差す広い間だ。
鋭い葉を持つ大木が倒れてしばらくしてから、あたりに
おそらくは、誰も知らない者が。
もちろん私たち植物には大した感覚器官はない。何と比較するかにもよるけれど。それでも、周りの植物の特徴、距離、近づく虫たちのこと、そしてその意味が、少しは分かるのだ。生きていくために必要なことだから。
花の香りが心地良いのは、花粉を運ぶ虫や風だけだ。他の花にとっては、自分よりも目立ち、虫たちの注意を奪う、脅威そのものなのだから、当たり前だ。
日々香りが強くなっていくにつれ、周囲の植物がその香りに敏感になっていった。
この広間の、どこからこの植物は芽を出すのか? いったいそれはいつなのか? 場に現れる前からあの花は注目の的だった。
当時の私はまだまだ幼く、植物の持ちうる感情のうち原始的ないくつかのものと、その他ちょっとしか持っていなかった。だから私は、皆と同じように芽生えを心配しながら待っていた。
幸か不幸か、その植物の居場所を私はすぐに知ることとなった。
そもそもこの陽の差す広間は、もともとここに生えていた大木が倒れてできたものだ。この広さから、どれだけ大きかったかが分かる。倒れてからだいぶ経った今もその幹が横たわり、ゆっくりと分解されて周囲の動植物たちの栄養源になっている。
その木の一部が、急速に崩れ始めた。香りがし始めてから一週間程度で見分けがつくほどに変色していった。
私はたまたま地上の変化にも気づいたけれど、地下の変化にも、気づいた植物はいたはずだ。広く根を地下に巡らしているこのあたりの木々なら、場所までピンポイントで、はっきりと。
私は小さく葉の擦れる音を立てた。
「あそこなの?」
仲良しのいつも青々とした木の青年が、枝をゆすって答えてくれた。
「ああ、確かだね」
私と彼――普段は名前など気にしないのだけれど、今はリューとでも呼ぼうか――リューは、思うことがよく似ていた。すぐ近くで同じ土壌を分け合っているのだから、当然かも。そしてどちらも同じことを思っていた。
この植物の栄養の吸い取り方は、普通じゃない。
ふつう、植物の種には栄養が蓄えられていて、その栄養で芽が出てくるまでなんとか過ごす、はずだ。
そうじゃない植物がいたとしても、こんなに、大木の栄養を吸い取るほどに成長する必要はない。
「待っているんだな」
リューの立てるさざめきの意味が、当時の私には、分からなかった。
光がひどく多い夜だった。
「満月というんだよ」
リューが葉を落としてささやいてくれた。
このとき、周囲の植物たち、起きている動物たちは皆、じっと一点に注意を払っていた。根の広くない者たちも、噂話で伝わって、もうすっかりその場所は分かっていた。
その夜には香りはよりはっきりとしてきて、すぐ土の表面の下にそれが迫っていることが分かった。
息をついたとき、ゆっくりと土が盛り上がり始めた、らしい。私にはそこまで細かな動きは感じられないけれど、ざわざわと草木が、動物たちが動いた。
それほど時間はかからなかった。風がどうっと吹いて、一度この場の空気を一掃した、その直後だった。つやのある芽が、首をもたげたのは。
ざわざわ、ざわざわ――――
私はこの夜を、この細い体があるうちは、ずっと忘れないだろう。
ずっとこの森の奥深くまで、風が吹き抜けるようなささやきが、言葉が広がっていった。息をひそめていた虫たちが鳴き、飛び跳ね、駆けだして、いなくなったかと思うとまた群れでやってきては、広間を中心に賑やかに話した。小さな鳥から大きな鳥まで、木の上に止まっていた鳥たちは羽ばたき、旋回していた鳥たちは降り立って、その小さな芽に近寄るものもいた。
その騒ぎの張本人、その小さな芽には、たぶん大した自我はなかったのだと思う。それでも、少なくとも自分が注目を集めたこと、大きな騒ぎになっていることは分かったはずだ。
朝が来て、その姿はよりはっきりと見えた。
夜は眠る虫たちが、鳥が、その香に、噂に、やってきた。動物が通るのを嫌がった草が避けたのか、つぶされてしまったのか、獣道がくっきりとしていた。
私は少しだけ、怖くなった。体を堅くする物質が、感情とともにじわりと出てきた。
私が地表に出てきた朝は、周りがどうなっているのか、日当たりはどうなのか、そんなことを確認するだけでいっぱいだった。
あの芽は、落ち着いていた。なんだかずいぶん大人びた子に見えた。そして、
「芽生えにしては大きい」
風に乗せてつぶやくと、
「当然さ」
リューが葉を鳴らした。
「どういう意味?」
「君にはまだ難しい」
リューは話題をそらして、それ以上教えてはくれなかった。
あの花の生えてきたのは、春夏には花の咲き乱れる花園のど真ん中だった。
私やリューのいるところからはちょっと離れていて、草花同士の養分の奪い合いが激しい。どれだけ目立って、虫たちに寄って来てもらえるか、常に競争しているようなところだ。
その時には一部の木から広まって、この花のこと、というか花を咲かせる植物であることは分かっていた。
今満開の花があるのに、まだ芽生えにすぎない花の方が注目される。今はまだいいけれど、これから花が咲いたら敵わない。それは、周囲の花たちにとって脅威だったはずだ。
何かしなければ、そう思うほどには。
「葉をめいっぱいに広げて……」
「陽を遮ってしまえば……」
小さなささやきが時々聞こえた。
花たちのこの感情は、私にも分かった。生まれてすぐから持っている感情だ。それなのに、なぜか、嫌な感じがした。
さすがに、離れた場所に生えた、関係のない植物が大丈夫かどうか、なんて、思いはしなかったけれど。
私含め、ほとんどの草花には、自分から行動できることがほとんどない。普通に生きて、息をして、せいぜい葉をより広げようとしたり曲がって生えてみようとしたり、その程度だ。
それでも、他の植物の成長を妨げることはできる。陽がなければよく育たないし、他の植物がぶつかって来たらやっぱり困る。
そんなひそひそという葉の擦れる音を一番近くで聞きながら、あの花は……ずっと、堂々としていた。
まだ本葉が生えてからいくらも経っていないというのに。本葉もつやつやとして驚くくらい対称な形をしていたし、しゃんと背丈を伸ばしてきたけれど、まだ今ではなにもできないはずだ。
それなのに、どうして?
「今に分かるわ」
自信に満ちたつぶやきが、聞こえた気がした。
その、たった数日後。
周囲の花が、次々に枯れた。
反対に、あの花は少し大きくなった。
「きれいで健康そうな葉だ。それに、香りもいい」
「花が咲いたらまた来よう」
通りすがりの小さな虫たちが言い残していった。
「離れていてよかった」
リューは枝を揺らした。
「あの植物の持つ毒は、周囲の草花の成長や開花を早めることができるな」
「早める?」
「早く枯らすこともできる。あそこの花は、本当はもっと長く咲いているはずだ」
「まだ小さいのに?」
「僕も分からない、でも、そうなんだ」
けれど、そんな風に言えるのもその時だけだった。
あの植物は、すぐに育って大きくなったから。
そして、とうとう花が、咲いた。
そのすこし前から、枯れずに残った花たちに動きがあった。
といっても、ささいなものだ。今までのように、わずかずつ成長するだけ。
あの花の周囲を空けつつ、周りの植物を邪魔するように葉を伸ばして。
明らかに、あの花の成長を邪魔しないため、あの花が一番目立つようにするためだった。
普通なら、そんな自分に不利なことはしないはずなのに。
ときおり、変な言葉が聞こえた。あの方に従っておけば大丈夫、とか。
そのころには私も、少しはものの分かるお子様になってきていた。
「あの花に香りを強く出してもらうと、近くの花にも虫がつられて寄ってくる」
「そうだな」
そのときも本当には分かっていなかったことが、今の私には分かる。
多分あの花は、私にはない感情を、性格を持っていたのだ。
もちろん私や他の草木にも、性格みたいなものはある。
でも、ここまで生き方に現れていて、棘みたいに鋭い……あの花は、棘すら持たないけれど、……。今の私にも、うまく表現まではできなさそうだ。
あの花は、たぶん、自分がこの世で一番きれいだと思っていたのだ。そして、そのことを全力で表したかったのだ。
あの花は、やはり薔薇でも百合でも三色すみれでもなかった。
……たしかに、あの花は、美しかった。一応草花の私から見ても。花以外のどんなものよりも。
日々が過ぎるのは早かった。その間が、ずっと単調だったと言えば嘘になる。
それでも、あの事件に比べれば大したことではなかった。
この森に、人間が入ってきた。
ここは森の真ん中くらいにあるらしい。昔、リューのお父さんが他の木々と連携を取りながらなんとかこの森の木の本数を調べた時に分かったとか。数なんて言うもの、私には意味があるとは思えない。
それはともかく、普通は絶対に人の入ってこないこの森の、奥深くにあるこの広間の花畑には、誰も来るはずがないのだ。
それなのに、あたりの木々はざわめいていた。ときおり、怒ったような枝のしなる音まで聞こえる。
「何が起きたの?」
「……あの人間だ」
リューが全体の枝を震わせた。葉が雨のように落ちる。
「あの人間!」
尾の大きい小動物がわずかばかりの木の実を大事に集めて、急いで巣穴に潜っていった。
私が本葉を出して間もないころ、リューと私はまだ仲良くなりたてだった。
それまでは私に自我が大して無かったから、物言わぬ種と話すようなものだったらしい。植物の髄や維管束なんて、そんなものだ。
リューの話すことは物珍しくて、私たちは朝から晩までたわいのない話をしていた。
そんなとき、あの人間はやってきたのだ。
何が目的だったのかは分からない。こんな奥深くまで入ってくるなんて、初めてだった。
「あれは何?」
「人間って言うんだよ」
私の質問に答えた、リューのざわめきがなかったら、あるいは違ったのかもしれない。
あの人間は、リューに目を止めた。
ゆっくりと近づいてきて、幹に何かをあてがった。野太い声が人間からもれた。
「
嫌な予感がしたとき、人間が、鋭いものをリューに刺した。何かで打ちつけながら何本も、何本も。
そして木の幹に、なんだか名前のような文字を彫り付けた。
私はその間ずっと、自分が音や衝撃を感じられること、リューの声を聞き取れることを、本当に嫌だと思っていた。
その人間が、またここへやってきたのだ。
「……」
私には、うまい言葉が見つからなかった。リューの傷は、そのままだ。
「……大丈夫だよ」
そのとき、鋭い声が響いた。
めったに聞くことのない木々の大きく震える叫びであることに、すぐには気づかなかった。
「来たぞ! 奴だ!」
「!」
リューの周囲の木と、あのとき人間に踏みつぶされた草花の周りに、緊張が走った。
どんなに葉をざわめかせて威嚇しても、人間は帰らなかった。人間という生き物の前では、本当に私たち植物は無力だ。
そして、あの人間が現れた。
葉にチラチラと嫌な光が当たった。たぶんあの、光るなにか重いものを持っているのだ。
激しく二酸化炭素を吐きながら、まっすぐリューの所にやってくる……!
しかし、そこで人間は立ち止まった。
「***?」
なにか、私の知らない言葉をつぶやいた。
「****んだ、****……」
言いながら見たのは、あの花だ、すぐにそう分かった。
今ではすぐ近くに邪魔者はいない上に、さえぎるもののない日を浴び、強く栄養を吸い上げて成長した花は、際立っていた。
人間は、ふらふらとそちらへ歩いていく。
「***な**だな*……*あ***」
ほとんど何を言っているか分からなかったけれど、その人間が何をしようとしているかは分かった。
あの花を、摘もうとしているのだ!
花が、すっくと、立った。
そんなふうに、見えた。もしあの花に目があったなら、じっと人間の目を見つめ返していたのだろう。睨みつけてさえいたかもしれない。
「無礼者」
人間には聞こえるはずのない声だった。
人間の手が、止まった。また少し手を伸ばそうとして、またやめた。
そのまま、しばらく人間は立ち尽くした。
わたしはたぶん、このときのことも忘れることはないだろう。わたしの思いの及ばない体のどこかで、苦いものが作られたことまで覚えている。
根から吸い上げた水が上にあがって、三回ほども葉から出ていくくらい長い間、緊張が続いた。
風は吹かなかった。草木はそよとも言わなかった。昆虫や小動物は皆、隠れて息をひそめていた。
人間が、手を下ろした。数歩後ずさりして、背を向ける。
よろめくようにして、急に走り出した。私のすぐ横の草を踏んづけて、広間から走り去っていった。
リューが、まだ緊張したまま、荒い息を吐くのと同時に言った。
「この、花は……」
そのあとに続く言葉は、私の知らないものだった。
意味を尋ねたら、君や、君みたいな植物には必要のないもの、とはぐらかされた。
「とうとう咲いてたんだね。また来たよ」
いつか来た虫が大きくなって、多くの仲間を連れてやってきた。
花粉が風にも舞ってわずかに飛んできた。
雨粒さえ、花を傷つけないようにやわらかに降った。
毎日、花園は美しい花への賛辞の
鳥が果実の香りと間違えて降りてきては、褒めたたえる歌をさえずっていった。
美しい蝶がひらひらと飛んできてはくちづけをした。
そして
「……え?」
夏が急に影を落とした。
周りが見えていないあの花には、この変化も分からなかったのかもしれない。
もう季節は秋になり、ときおり冷たい風も吹きこむようになってきた。周りの花は、役目を終えて花びらをこぼしたもの、しぼんでしまったもの、茎を下ろして実をつけているものばかりになってきた。虫は去り、あるいはなくなり、大鳥たちは南国へと旅立ち始めた。
リューも、冬でも葉をつけているとはいえ、夏盛りのころのように激しく成長することはない。青々としていた葉も、乾燥に備え、硬くなってきた。
今でも美しい花は、取り残されていく。どんどんその色が浮いて見える。
どんなに輝いたところで、秋は来ているし、冬はやってくるのだ。
つい先日は雨だった。色を
「あれ……」
何の偶然だったのだろうか。
たまたま、あの花が、こっちを見た。かすれるような声に、私もそちらを見た。
そのとき初めて、私とあの花は向き合ったのだ。
その時私には、喜びもなければ、蔑みもなかった。何の感情も生まれてこなかった。
「こんな、背が高くて目立つ植物、あたしの近くにあったかな」
そのとき、何かが切れたようだった。
それが何だったのか、今の私にも、物知りのリューにも分からない。でも、これは確かに、いつかどんな花にもやってくるものだった。
あの花が大きくなりだしてから、ずっと感じていた小さな圧迫感が、消えた。
これまでは、根を大きく張り巡らせて、周囲の草花たちの分まで、地から養分を吸い取っていた。それを、やめたのだ。
私はその時初めて、「疲れる」という感情を知った。
主人公はあなたでよかった。あなたは自分で、美しくい続けようとした。美しかった。皆があなたを褒めた。
でも今、私があなたにかける言葉は、ない。
こんなに美しい花を秋まで
美しい花を咲かせる桜の木には、ほとんど実は生らないらしい。子孫を残すことは、できない、という。
「本当は必要ないんだよね」
二年目にしてやっと花を開く私には、そんなふうに華々しく生きて命を無駄遣いすることは、できない。
しようとなんて、しない。
高飛車な花が、今日枯れた。
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