第17話 断


 キャラメルボックスという会社は、仕事も、家族も応援する会社です。


それは、遥人と修介と吉住が一番大切にしたいと思ったことだった。だから社屋の上階に社員寮があって、なおかつ朝早く仕事に出かける社員がいる以上、子供の学校の送迎を会社単位でバックアップするのが当然だと思っているし、学校から離れた場所に会社がある以上、送迎に便宜を図るのも会社の責任だと思っている。


 毎朝、小学生と中学生は車で誰かが学校に送ってゆく。その時間は7時45分出発と決められていて、担当ドライバーは配車係の吉住が手配するが、1週間交代が基本だ。帰りはそれぞれの親が迎えに行く。仕事が終わっている時間だからだ。送迎をしないと、この商業団地から学校までは遠いのでお互いの了承のもとでそうなっていた。


 その日、聡子は8時の出勤に合わせて早めに部屋を出る。遥人はもっと早く出ているし、もっと出社が早い時間の社員もいるのだが、聡子は基本15分前に出勤する。一定の出勤時間ではないので仕方ないが。ただ、8時出勤の時は少しだけ早く家を出る。丁度学校に行く子供たちを見送る時間を取るのが習慣だった。

「おはよう、さとねぇ」

「おはよう、剛史」

 事務所の前につけられた車の前で、聡子とハイタッチしてから、中学生の剛史は助手席に乗った。体が大きいことと、一番の年長なので助手席特権ということらしい。

 後部座席には残り3人の小学生も乗り込んでいて、見送りの親たちも傍にいた。

「朝から元気良いねぇ」

 大きなお腹を撫でながら娘の見送りに来ているのは葛西容子である。もうすぐ臨月で、そもそもは別の会社に勤めているのだが今は産休中である。

「うわぁ、容子さん今にも生まれそう」

 聡子はニコニコしながら容子と笑顔を交わす。


 いつもと変わらない朝だった。


 なのに、子供たちが乗った車の陰から近づいてくるのは黒い上下の服を着た男だった。顔を上げた聡子が、びくりと震えて一歩下がる。

「容子さん逃げて」

「なに?」

「みーつーけーたー」

 嬉々として近づく男。聡子はとっさに容子を車の中に押し込む。

「剛史。ドアロック。変質者だから絶対にドアを開けるな」

 剛史は目を見開いたが頷くだけで、それでも聡子がドアを閉めると運転席側に移動してドアロックをかけた。

「やっとだ、やっとだ」

 男は狂喜乱舞するように聡子を追いかけ始める。聡子は事務所前からロータリーのほうに移動する。

 何より、男の手の中にある、「光るもの」が気になった。


 異変に、まだ誰も気が付いていない。


 不意に、異常を知らせるために狂ったようにクラクションがなりはじめた。

 剛史が車のクラクションを鳴らしている。ちらりと容子がどこかへ電話をかけている姿が目の端に映る。

 倉庫や事務所で作業中の誰もが顔を上げた。ふざけていようが何があろうが、朝っぱらからクラクションを鳴らすことなど全くなかったからだ。第一、子供たちが乗っているバンのクラクションは「行ってきます」「おはよう」「ただいま」といった意味合いが強く、こんな切羽詰まった鳴らし方はしない。

 そして、クラクションを鳴らしているのが当の中学生の剛史だと気が付くと、何か異変があったのだと周囲を見渡す。


 そのクラクションで倉庫で荷物整理していた圭介が異常に気がついて聡子を追う。

 事務所から何事だと顔を出したスタッフたちを一喝し、警察に通報するように指示を出したのは修介だ。倉庫にいたスタッフたちに事務所に逃げろと指示したのも修介だった。修介の指示を受けて男たちが中心になってスタッフを誘導する。


 一方で事態の異常さに飛び出して行ったのはドライバーの伝二や事務所にいた山本だった。彼らよりも真っ先に飛び出したのは遥人である。倉庫にいた男たちの何人かが子供たちが乗っているバンに駆けつけ、彼らの無事を確認する。

 

「もう、決めたんだ。俺はお前と結婚する」

「いや」

 はっきりと拒絶する聡子。意識してゆっくり呼吸しないと過呼吸の発作を起こしそうで、その予兆を感じていた。

「わたしは、いや。あなたは、きらい」

「おまえは俺のものだーーーーー!」

 男、あの聡子をレイプした橋本行孝は高らかに宣言した。

「させるかっ」

 その二人の間に入ったのは、追いついた遥人だった。

「まーたーおーまーえーかー」

 橋本はそう言って持っていたナイフをふりかざす。

「おまえは、許さない。また邪魔をするのか、ガキのくせに」

 橋本は遥人に飛びかかってゆくが、ガキン、と金属音がして橋本が後ずさった。その体制を崩したところで遥人が持つ銀色の何かが振り下ろされ、橋本が持っていたナイフが乾いた音を立てて地面に落ちた。

「うがぁぁっ」

 手を押さえて前のめりになる橋本の痛む手を取り、拘束しようとしたのは圭介だった。遥人と同じく、伸縮警棒を手にしている。

「いてぇ、いてぇ、なにしやがんだ」

「どう見たって殺人未遂だ、観念しろよ」

「うるせぇ」

「橋本、そこまでだ」

 見慣れない作業服姿の二人の男が息を切らしながら声をかけてきた。その男たちが橋本を拘束しようと近づいた途端、橋本は渾身の力を込めて圭介を振り切る。

「あっ」

 逃走しようとして、阻む男たちを突き飛ばし敷地内から道路へと飛び出した。


 激しいブレーキ音とクラクションの音。形容しがたい、物がつぶれるような鈍い音が同時に起きた。


 突き飛ばされても追いかけようとしていた二人の男は途中まで走って行ったものの、2台のトラックが急ブレーキをかけながら止まったのを見て、その惨状を知って足を止めた。聡子を守るためにその場で動かなかった圭介も遥人もその「惨状」に目をそらした。


 聡子は走り去った方向のまま膝をつき、地面を見据えながら必死に過呼吸の発作を押さえこもうとしていた。

 その聡子を、遥人は抱きしめた。ビクリと震える聡子を強く抱きしめる。


「大丈夫だ、聡子。深呼吸しろ」


 静かなその言葉に、圭介と二人の男は我にかえる。


 頷いて、しかし思うように呼吸できない聡子に遥人は抱きしめたままとんとんと背中を叩く。「惨状」が聡子の目に入らないように自分の身体を盾にするという配慮もしている。

「大丈夫だから。とりあえず、事務所に行こうか」

「ダメ、病院に行こう。ハル兄怪我してるよ?」

「ああ、大丈夫だよ」

 遥人のわき腹から出血しているのがわかった。作業服がすっぱりと切れて、下に着ていたシャツも血に染まっている。

 だが、遥人は聡子の視界を制限して事務所に向かって歩き出した。傷は浅いので支障はない。だが、あの惨状は間違いなく聡子にはトラウマになるはずだろうから。


 作業服姿の二人の男たちは圭介と顔見知りらしく、警察だと名乗ったのは聞こえたが、それ以上はもう聞きたくはないと遥人は聡子と事務所に向かった。


 それからは大騒ぎだった。


 事務所に戻るなり、聡子はほぼ機械的に遥人の傷の手当てをした。切れていたのは殆どが服で、肌には2,3センチの浅い傷があるだけだ。傷の手当てを終えた後で救急隊員がやってきて、救急隊に必要な情報をてきぱきと伝えた。

 致命傷になるような傷ではなく、傷跡が残るかどうかというような傷だという見立ては隊員をうならせた。


 スタッフたちは通常業務に戻れるものは戻り、子供たちはちょっとした騒ぎとしかわかっていない小学生3人はわざわざ別の駐車場出口から車を出し、「惨状」の現場を避けて登校させた。何があったか、ほとんど目撃していないので何があったかもわからないまま、だ。その方が良いという判断だった。ただし、学校側には変質者に遭遇したのでくれぐれも今日一日は注意して欲しいと言い添えて。

 運転席にいた剛史は学校に行かないと言い張り、遥人が乗る救急車を見送る聡子を見ると大丈夫なのかと声をかけてきた。


 聡子は感謝に言葉もなくて、剛史をそのまま抱きしめた。

「ありがとう。剛史、ありがとう。無事で良かった」

 あの時、橋本がナイフを持っていたことを考えると、子供たちが傷つく恐れもあった。だから咄嗟に車に籠城するという方法を取るしかなかったし、詳しく説明する暇もなかった。が、剛史が機転をきかせてクラクションを鳴らさなかったら誰も気がつかなかったはずだ。


「聡姉」

「ロックかけて、クラクション慣らしてくれなかったら、子供たちが危なかったかもしれないし、誰も気がつかなかったかもしれない。ありがとう」

 容子の言葉に、他の大人たちが頷き、ありがとうと感謝の言葉を述べた。

「でも容子さんは迷わず警察に通報してくれたし」

 剛史に抱きついたまま静かに泣く聡子をどうしようかとオロオロしながら剛史は自分だけが守ったわけじゃないとそういった。

「俺は言われたことをしたまでで…」

「それでも、おまえのおかげだ。ありがとう」

 修介が剛史の頭をぐりぐりと撫でて剛史を抱きしめた。

「皆が協力してくれたからだよ。皆落ち着いて静かにしてくれたから」

 照れたようにちょっとだけ笑った剛史の坊主頭を聡子はぐりぐりと撫でた。何もいえなくて、泣き笑いの顔でグリグリ撫でていた。

 子供たちが、無事で良かった。剛史の機転のおかげだ。

「聡ネエ、どさくさにまぎれてグリグリしてんじゃねぇ」

 聡子はそれでも笑いながら泣いていた。言葉もなく、グリグリ撫でることで剛史に感謝を伝えていた。じゃれあいながらも、剛史にはそれが通じていた。


 一方、本来警察と連携を取っていた圭介は現場に集まった他の警察官からの事情聴取を受けていた。

 修介は全員を通常業務に戻しつつ、防犯カメラの映像の提出をし、警察に協力した。見慣れない二人の男は、私服警官の二人で、橋本の動向を探るために会社前で張り込んでいたというのだ。ただ、張り込み場所が死角になるので、あのクラクションの音で気が付いて飛び出したのだという。

 遥人については今回はもう何も言われないだろうと思う。何しろ、橋本のナイフを弾き飛ばしたのは市販の防犯グッズで、伸縮性の警棒で、必要以上の殴打は加えていない。しかも、橋本は飛び出した瞬間、たまたま通りがかったトラックにはねられて対向車線に弾き飛ばされ、更に対向から来たトラックに再び撥ねられて文字通り肉塊となっていた。トラックドライバーにしたら不運だが、不可抗力だ。その点は考慮されるだろうと思う。目撃した警察官2人はそういった。


 橋本自身の罪は、ストーカー容疑と殺人未遂容疑になるだろうと想定される。最も、死んでいては起訴にもならない。被疑者死亡で書類上のやり取りが行われるだけだ。


全てが終わった瞬間だった。


 残されたのは膨大な事実関係の整理と検証と警察への報告だった。聡子は過呼吸の発作がおさまるとすぐに警察署につれてい行かれ、過去の事件から最近のストーカー事件の話まで、事情を聞かれ、解放されたのは午後遅くだった。

 迎えに来たのは母の登紀子と遥人だった。同じように事情を聞かれたらしい静子も、夫岩井の付き添いを受けて警察署にいた。

「ハル兄、動いて大丈夫なの?」

「ああ、2,3日は安静が必要だが、入院するほどじゃない。会社ももう通常運転に戻っている。剛史も午後から学校に行ったそうだ」

「良かった」

「聡子、暫くうちに来る?」

 母の申し出はありがたいが、首を横に振った。

「仕事、放り出すわけにはいかないし。週末にかなり大きな取引のプレゼンがあるんだ」

「身体は大丈夫なの?発作は?」

「今のところ大丈夫」

「俺も気を付けておきますから」

「いや、遥人君が気を付けることじゃないわ。貴方の方が重傷だもの」

「軽傷ですって」

 遥人が笑って返した。

「そうだな」

 岩井が嬉しそうに遥人の頭をグリグリと撫でた。昔とは違って、成長した「息子」に。

「良くやった」

「ちょ…」

「さとちゃんが怪我していたら先にお前を半殺しにするトコだ」

 岩井は真顔でそう言った。


 あの事件の後、静子は聡子のことで心を痛めていた。勿論、一番苦悩したのは息子の遥人だと知っている。「助けられなかった」という思いが強く、あの事件以降、女性とはまともに付き合えていないことも知っている。


 岩井は、結婚前も結婚してからもそんな二人を見守ってきた。何度か聡子にも登紀子にも会ったが、事件を引きずっているようには見えなかった。

「それでも、あの二人は許嫁だったから」

 妻の静子から衝撃的な言葉を聞いたのは随分前だった。

 聞けば、生まれたばかりの聡子を見て、可愛すぎるとこぼした遥人に冗談半分で二人の父親が成人して二人の意思が固まったら結婚させると許嫁宣言したらしい。双方お酒が入っての席上だったらしいが、本家当主と分家当主が同席する言わば親族筋が勢ぞろいする中でのその宣言は「ほぼ確定」宣言と同じだったらしい。最も、その後、双方の父親は亡くなったが。


「あなた…そんな物騒な」

「お前は、さとちゃんの許嫁なんだろう?」

 その言葉に、遥人は顔を上げた。聡子も驚いたように顔を上げた。幼いころから、戯言のように出る話題。二人の父親が仲が良くて息子が欲しい、娘が欲しいとお互いの子供を取り合っていたこと。だから二人を許嫁にしたのだということ。それは、如月の親族の間で思い出話のように語られるだけで、聡子が年頃になってからは一切そんな話はない。


 その話を、何故岩井が知っているのか。


「静子から聞いた。二人の恋愛感情以前に、静子も登紀子さんも遥人は息子であり、さとちゃんは娘であるんだ。他人に理解してもらうには許嫁という便利な言葉があるのなら、俺はそれを利用しても良いと思う」


 そうなのだ。今回も警察が拘ったのは遥人がどうしてそこまで聡子を守ろうとするのか、なのだ。親族だからということでは到底説明がつかないと。だから、過去と同じように許嫁だと言いたかったが、今回は流石に聡子が成人しているので使うことはためらわれた。

 だが、岩井の心にあるのは、苦悩する義理息子の姿である。時々交流する聡子親子の姿をずっと追いかけるまなざしは恋する男そのもので、それはずっと長い間聡子にしか向けられていないことを知っていた。聡子の気持ちを推し量って、許嫁という言葉は決して使わなかったが。

「早く行ってやれ。宮前君がさっきからずっと待っていた」

「え?」

「中に入れと言ったんだけどね、遠慮して入ってきていない」

 義理父のそんな言葉に押されて遥人は聡子を気遣いながら警察署の外に出ると、一般車両用の駐車場でうろうろと入ろうかどうしようかと悩む修介を見つけた。

「修介」

「遥人」

 修介は傷を気遣ってゆっくり歩く遥人にかけより、ハイタッチをかわした。続いて遠慮なく当たり前のように聡子とも。

「帰ろうか、皆待っている」

「ああ」

 修介は登紀子達に一礼して遥人と一緒に歩いてゆく。

 遥人を後部座席に乗せ、横にならせると聡子が反対側から乗り込み、膝枕の体勢を取り、帰って行った。



「登紀子さん…」

「意表を突かれたなぁ。そう言うことだったのかもしれないと思うと、ハルの行動が理解できるわぁ。どうする?静子さん」

「登紀子さん、それで良いの?」

「聡子がね、ハルと一緒に暮らしているということ自体に驚いているの。あの子、女性同士なら大丈夫なんだけど、男性がいると「お泊り」ができないのよ。勿論、男女別の部屋でもダメでね。合宿とか修学旅行とか、全部駄目だったのよ。和也君がウチに泊まった時もダメで…。それが、一緒に暮らしているなんて凄い進歩だなぁと思ってね」

「え?そりゃ、別々の部屋で寝ているけど…。そう言えば、この間会社の人が10人雑魚寝で泊まった時は悲鳴上げたと言ってたっけ?」

「…だからね、そういうの、ハルと一緒だと気にならないというのはそういうことだったのかもしれないなぁって」

「でも、まだ決まったわけじゃないから」

「勿論、二人の気持ちが大事なことは言うまでもないけど、ね」

 登紀子はそう言って笑った。

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