ここから・葉月

第18話 見守る人

 事務所で手荒い歓迎を受けると、そのまま修介は仕事に取り掛かった。遥人は三日の休みをもらい、聡子は今日一日は休みだと言われたので遅い昼食に取り掛かる。


 この仕事をしていると、時間の組み立てが上手くいかないことが良くあるので休みの日に聡子はまとめて常備菜を作ったりもする。煮物が殆どだが、これが会社の仲間たちにも好評で、若いくせに意外にも和食が得意だと年長組の社員から言われることもある。勿論、上階の奥様たちとの交流でお互いに差し入れがあるので常備菜のレパートリーは多い。

 昼食の用意のために台所に立ち、ほぼ支度ができたところで不意に「それ」に襲われる。


 最初の事件の後、パニックを起こしていた自分に何度も襲いかかった恐怖感。例えようのない身体の底から全てを奪われるほどの闇に飲まれそうな感覚と、それに抗う自分。抗うことで苦しくなり、息ができなくなる。呼吸をしようとすればするほど、それは過呼吸となって苦しくなってくる。頭ではわかっている。どう対処すればよいかも。だからそれら全てに抗うように頭を振り、逆らい続ける。果てしない精神力が必要とされることも、もうわかっている。どうやっても付き合っていかなければならないのだと、最初のころよりもわかってきたつもりだった。


 けれど、今日の「あれ」は強烈だった。


 あの時とは違って、相手は年老いていたし、自分もその場から逃げることもできた。何より、遥人が守ってくれた。クラクションを鳴らして、剛史は守ってくれた。伝二も、清水も、新しく入ったスタッフさえ聡子を守るために走ってきていた。一人ではない。


 シンクの縁を握って、崩れ落ちそうな身体を支える。


 落ち着け、落ち着け、と言い聞かせ、恐怖を押さえこむ。あの時も、今も、一人ではないと知っている。だから、あの闇に飲まれてはならないと。


 ゆっくり呼吸を整える聡子は、不意に、自分をふわりと包む体温に気がつく。今のことではない、随分前からこうやって抱きしめてくれていた。そのことにようやく気が付く。

「大丈夫、深呼吸して。俺がここにいるから」

 小さな声で、けれどはっきりと何度も繰り返される声。何度も頭を撫でられ、何度も繰り返される言葉。シンクの縁を握っていた指先は、いつの間にか遥人のシャツを握っていて、震える体は遥人に抱きしめられていた。

「ハル兄…」

「一人にして悪かった。大丈夫か?」

 いや、そうじゃなく。横になっていた方が良いのに、と思うが、身体が、指先が硬直していて思うように動かない。

「ゆっくりだ。ゆっくりで良い。すまなかったな。本当は、あの時、真っ先に抱きしめて落ち着かせてやりたかったんだ。聡子に謝りたかった。助けられなくて、ごめんって言いたかった」

 硬直した手をほぐすように、遥人の手が聡子の手と重なり、もう一方は聡子の頭をぎゅっと抱きしめていた。

「ハル兄、それはちがうって」

「違わない。俺は聡子を守れなかった。だから、今度は、これから先も絶対に守っていたいと…。間に合ってよかった」

 遥人が深呼吸した。聡子よりも、遥人が緊張しているのか心なしか震えてる。

「警察からはガードが付いているとは聞いていたけど、間に合うかどうかなんてわからなかった。あんな思いをするのは嫌だったから…」

「ハル兄、大丈夫だから。それより、傷に障る。座って」

「……発作は?」

「大丈夫」

「聡子、あの時、俺は本当は…」

「ハル兄、もういいから。真っ先にあいつを叩きだして私を抱きしめてくれた。私、それだけは覚えているの。遅くなって済まないって、気がついてやれなくてごめんって言ってくれた。でね、ハル兄は助けてくれたでしょ?あれ以上酷くならないように助けてくれたでしょ?私にはそれで十分。男の人が怖くなった私を、倫人おじさんに逆らってまで守ってくれたでしょ?誰か女の人じゃなきゃここを動かないって言ってくれたでしょ?凄く嬉しかった。こんな私に…ありがとう。今回のことだって…感謝してもしきれない」

「当たり前だろう?お前は俺の許嫁だったんだし」

 確かに、それは事実だ。だが、初めから重要視されたことではなかった。酒の席での、二人の父親の戯言。親戚中が微笑ましく笑っていた。そんな約束だ。


 二人の父親が今なお生きていたら、二人は今頃許嫁のまま、いずれは結婚したという可能性があったかもしれない。だが、あの事故以来、二人の話はでなくなった。勿論、許嫁の話も話題には上がらない。それほど、ムードメーカーだったあの二人の父親の存在は大きく、話題にも出来ないほど親族三人を失った衝撃は大きかったからだ。


「大人たちがどう思おうが、俺はずっと聡子が許嫁だと思っていた。三人が死んだ時は、皆にやっぱり笑ってお前は聡子の許嫁だから守ってやれっていつも言われている気になっていた。でも、あの事件の後それは言えなくなった。俺は聡子を守ることができなかった」

「いや、その許嫁の話は…」

「うん、結婚云々という意味じゃなくて、あの事故で親父がいなくなった者同士というか…おじさんの遺言みたいな?とにかく、俺は聡子を守りたかったのに、守れなかった。それがずっとずっと…」

 聡子を抱きしめたまま、そのつむじにキスを落とす遥人。

「気持ちが落ち着いたのは事件があって暫くしてからだよ。聡子のことが好きだと自覚した、というのかな?最初はそんな自分を否定したよ。自分がおかしいのかと思って、何人かの女性とも付き合った。でも、しっくりこなかったんだ。じーさんの家で聡子に会う度に、法事で会うたびに、聡子のことが好きになっていっている。だから、聡子がいない時にじーさんの家に行くようになったし、法事も行かなくなった。いずれ、聡子には好きな男ができて、多分そいつと結婚するだろうって。自分の気持ちに蓋をした。…蓋をしたはずだったんだが…」

「私ね、男の人がダメなのよ。だから合宿も修学旅行もダメ」

「ああ、登紀子さんから聞いた。今回のことは随分心配してて」

「だから、あの時、ハル兄と港湾ターミナルに行った時、絶対に眠れないって覚悟して行ったのに、不思議だよね、ぐっすり眠れちゃったのよ。いつもならパニック発作起こしているだろうに、平気だったの」


 聡子は深呼吸した。言わねば、ならない。


「不思議だったんだけど、ハル兄と一緒にいると、違うんだ。それ、安心できる存在だからそうなるわけで、その根拠ってね、ハル兄のことが好きだから、だと、思う」



 腕の中の存在は、耳まで真っ赤にしていて。それが愛おしくて、可愛くて、遥人は思わずその耳朶にキスを落とした。

「ひゃ」

「嬉しい」

 それだけで、へにゃりと、聡子の表情が崩れる。それがまた可愛くて、今度は聡子の唇にキスをする。最初は様子を見るだけ。二、三度啄ばむ小さなキスを落とし、発作が起きないことを確認すると少しだけキスを深くする。最初は緊張して強張っていた体から少しだけ緊張が抜けたことを確認するが、聡子はそれ以上だったらしく、体がへにゃりと揺らいだ。


「聡子?」

「もう、もう、もう」

 赤面して言葉もなく慌てる聡子の頭を撫でる。

「ご飯、食べよう」

「あ、ん。でも良いの?本当は一晩入院した方が良いって…」

 わき腹の傷は、浅いとは言っても痛みはある。入院でもどちらでも、と言われて通院することを選んだ。聡子を一人にしておきたくなかったからだ。その代わり、痛み止めや抗生物質はしっかり出された。登紀子曰く、聡子はある程度の医療知識はあるからおかしいと思ったら病院に直行するだろうから平気だと。

 2人で遅い昼食を食べた後、休むと言った遥人を残して、聡子は事務所に降りた。少し食料品を買い足したいし、何より、事務所前のあの現場で発作が起きないことを確かめなければならない。


「サトちゃん、いいの?」

 先に気がついた吉住が気遣ってくれた。事務所には、ドライバーたちが戻ってくる時間帯で、聡子は彼らに迷惑をかけたと一旦頭を下げた。

「少し休むって言っているから。その間に食料品の買い出しをしたくて」

「吉住か、小町か、連れてってやれ」

「でも仕事中だから悪いよ、自分で行く」

 修介の言い分に聡子は異議を唱えた。

「今日一日は車の運転はするな。お前が大丈夫でも皆が心配する。いいか、副社長命令だからな、破ったら即クビだ」

 そう宣言したのは修介だ。有無を言わさないその声に事務所がしんとなるが、その意図を理解しているから皆がうんうんと頷いていた。

「だから、もしも具合が悪くなったら、夜中でも何でも遠慮なく連絡しろ。無理して事故られた方が夢見が悪い。こんだけいるんだ、誰か電話に気が付くだろう」

 修介はニヤニヤしながらそう言った。事務所が無人になっても、社宅には大勢の社員がいる。二人が住む部屋の隣は修介が住んでいるし、その場にいた社宅に住んでいるメンバーが立候補するよ、とばかり手を振った。

「いや、それは…」

 そう言いながらも、皆の気持ちが嬉しくて涙した。遠慮するなとばかり、吉住がぐりぐりと頭を撫で、ぎゅっと抱きしめた。


「社長が中古の、しかも倒産した運送会社のこの社屋を即決で買うと決めたのは、いざという時に皆で助け合える会社にしたいと思ったからだよ。一人で抱えていたら解決しないことも、皆で知恵を出し合えば何とかなるんじゃないかって。だから、今日一日、サトちゃんの代わりに誰かが運転することになっても、別に皆は何とも思っていないよ。そういうの、嫌だと思うのなら最初からここに住んでいない」

「そうだよ。私さ、一人っ子だったから皆でわいわい言いながら暮らすのが夢だったんだよ。寮でも生活した事あるけど、こんなワイワイした家ってないよ」

 小町がそういった。

 うん、うん、と聡子は頷く。

「ありがとう、ありがとう」

「じゃぁ、私が行くよ。丁度ガソリン入れなきゃならないし」

 ドライバーの小町が手を上げた。

「よろしく」

 修介が頷き、聡子は小町と一緒に車に乗り込んだ。



 翌日、聡子はいつもの時間に下に降りて、学校に行く子供たちを見送る。昨日の夕方、あの現場に立ってみたが聡子に発作の兆候はなく、何ともなかった。今度は今朝、同じ時間に現場にたった。何ともない。吉住や山本は心配そうに陰から見ていたが、問題ないと確認すると二人は顔を見合わせてサムズアップした。心配顔で見守るのは彼らだけではなく、他にもいた。その中には剛史もいたが、聡子の顔を見るなりぱっと顔を明るくした。

「聡ネエ」

「あ、剛史がそんなに元気なのは今日は大好きな体育がある?」

「あ、ひでぇ」

 そんなからかいに剛史は笑う。

「こら、早く乗れ、遅刻する」

 運転席から声をかけてきたのは当番の小町だ。

「行ってきます」

「はい、行ってらっしゃい、小町ちゃん気を付けてね」

 車を見送って、昨日とは違うことを確認する。それだけで良かった。


 それで、聡子はまたいつものように仕事にかかった。


 事件後、二人の生活ががらりと変わったことはない。ただ違うのは、事件直後に傷から来る痛みのコントロールや介助のために聡子が遥人の隣で寝るようになっただけである。

 万一のことを考えて三日間だけは遥人の横で眠ったが、以後は自分の部屋で眠っている。そして、あの警戒する日々以降も遥人はスタジオで寝るのではなく、自室で寝る日々になっていた。

 修介や吉住が気が付いたことはそういった外側だけのことだが、何となく遥人と聡子の雰囲気が柔らかくなった印象がある。もう、「あの男」に脅かされることはないという安心だと推測できたが、それほどまでに影響が深かったのかと二人はやるせないため息をついたほどだった。

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