第9話 共に

 母の登紀子は看護師で、夜勤もある勤務状態で母子二人の生活は、子供のころから家事をやるのはごく当たり前の生活だった。坂上や坂下の如月の家でもそれは同様で、誰か大人の監督のもとではあるが火を使うことも許してくれていた。食事を作ることも、部屋を整えることも、洗濯をすることも当然のようにやりこなしてきたので染みついてしまった習慣といえる。


 だから、シャワーを浴びて身体を綺麗にすると、使ったタオルも遥人の洗濯物も洗濯機に入れてスイッチを入れたのも普通の事だった。スイッチを入れた後で「あ」と気が付いたがもう遅い。苦笑いしながら洗濯機に後を任せた。



 周囲の朝の喧騒を耳にしながら、部屋中の窓を開け、空気の入れ替えをする。春という季節もあるが、気持ちが良い。


「うわぁ、緑がいっぱい」


 小高い丘を切り開いて作られたこの工業団地の流通エリアは、背後に山を背負っている。適度に離れているので風も通るし緑色が心地よい。


 一通りおひさまの光を浴びると、ノートパソコンを開き、携帯を充電する。


 幾つか受けた会社の不採用を知らせるメールと、派遣会社からの派遣登録完了のメール。ただ、聡子は事務職希望なので企業と面接するのも難しいだろうと言われた。店舗開発はどちらかというと企画とか営業に当たる。そちらの方で登録した方が紹介できると言われたが、外回りをするにはためらうことがあって、登録できないと断った。だったら、事務仕事未経験だとして登録することになるので紹介率は低くなるという説明がされている。この先、職域を広げるには事務研修を受けたほうが良いとも言われていた。


 新聞代わりにざっと情報をチェックすると、洗濯物を干し、ベッドに横になった。そこから、記憶がない。一気に眠ったようだった。



 同時刻、事務所内は朝の喧騒を終えて通常業務に戻った。


「ちょっと良いか、ハルさん」

「コウさん」

 事務所内でコウさん、コウシュンと呼ばれているのは葛西公春かさいきみはるである。長距離のドライバーで、妻はルートドライバーとして働いている。小学生の子供と三人で社宅に住んでいる仲良し家族だ。


 彼は出発前の一連の手続きを終えてこれから出発する。担当は中継地を経由しながら往復荷物を運ぶ長距離便で、一度出発すると4日は事務所には帰ってこない。創業時からのメンバーで、プライベートでは遥人の兄貴分だが仕事上では頼りになるパートナーでありアドバイザーでもある。一方、そもそも事務所にいることが少ないのに、ルート便で活躍する女性ドライバーを口説いて妻にしたという伝説と、職場結婚第一号に夫婦で産休と育休を取ったという栄誉を授かった、皆からの信頼も厚い「お父ちゃん」である。


「彼女、…如月聡子さんのことだけど」

「あー。突発的とはいえ、気分悪いよね。本来ならちゃんと手続きするべきなんだけど、申し訳ない」


 本来なら然るべき手続きを踏んで、アルバイト扱いで日当いくら、で雇うべき仕事である。プロとしてはそれが当然だし、同じドライバーなら正当に自分の仕事を評価するべく契約するべきだ。事実、そうするべきだと思う。だが、時間も余裕もなかった以上あの場は口約束で出発するしかなかったのも事実だ。だから、遥人は同じドライバーとして葛西が不快になるのは当たり前だし申し訳なかったと頭を下げた。


「いや、そこもそうなんだけど、ソコじゃなくて」

「ん」

「彼女、ウチに来ないのかな」

 ちょっとそわそわした雰囲気でそう言った。


「口説いている最中。ただし、コウさんが嫌ならやめるよ。正式にオファーしたわけじゃないから」

「嘘だろ、正式にオファーしろよ。何で俺が嫌がったらオファーしないってなるんだよ、違うだろう」

 葛西が抗議の目を向けた。大概のことは推し進めてゆく社長と副社長の二人が、今回は自分の意見で、しかも嫌だという感情的な理由でオファーしないというのは納得がいかない。それだけの理由があるのなら話は別だが、現場から上がって来る声と、事務所での対応を見る限り、好意的な意見よりもむしろ一緒に働きたいという意見の方が多い。

 葛西の頭の中では、何か問題があるのかと考えていた。イトコだと名乗ったと聞いているが、それが問題なのか?とグルグルしている。


「あー、うん、俺は聡子を長距離で雇うつもりはない。ピンチヒッターとか、誰かのフォローとか、そういう時には保険として使うことはあるけれど、長距離常勤としてはない。当面はルートドライバーが足りないからそっちの業務を任せたいとは思っている。それがまず一つ」


「…その理由は何だ。確かに、長距離は今の状態で何とかなるから保険でも誰かいてくれた方が助かるのは事実だ。でも最初から使うつもりはないというのは、他に理由があるってことか。まさか親戚だから情が入ったなんて馬鹿なことを言うなよ」


「つまり、だな、昔、いろいろあって男性恐怖症になってだな」

 その言葉に信じられない、と葛西が目をむいた。昨日、仕事の打合せで事務所にいた時に会ってはいる。が、彼女からは全くその気配はなかった。


「ある程度は克服しているとは聞いているが、場合によっては皆に協力を仰ぐ必要があるかもしれないし、配慮が必要になるかもしれない。なにしろ、俺が知ってるのは最近は何とかなっている、くらいの話でそれ以上突っ込んだ話をしていない」


「そうなのか。でも普通にコミュニケーション取れていたけど」

 カウンター業務を担当している山本が不思議そうにそう言った。山本も男性スタッフのだれかと言葉を交わしているのを見ている。

「生方さんからも話を聞いたけど、特に気になるような言動はなかったし、実際、昨日も今朝も大丈夫そうだったけど」

 山本がそう補足した。


「配慮が必要というふうには見えなかった。それとも、無理していたとか」

「俺は従兄弟だから大丈夫だったけれど、普通の男性とは車に乗るのは苦労するとはいっていた。ま、その点は二人乗務はできないとしておいた方が良い。今までアルバイトでもなんでも、二人業務の時は相方は女性だったというからな」

「そうなんだ」


「だからバイト扱いにして給料をもらうと、何かあったときにこっちに迷惑がかかるだろうという考えで朝ごはんのおねだりだったわけだ」

 ふむ、と葛西が納得する。それだけの気遣いができいるなら、だったら尚更欲しいと思うが。


「でもハルさんが欲しいのはそのポイントじゃないっていうんだよな。今はルートドライバー扱いでも、将来は違うってこと。ドライバー以外にポイントがあるのか」

 疑問が並ぶ。


「あいつ、瀬川家具で店舗開発やっててな、そういった企画力を発揮してくれたら良いな、とか思っている。将来的には営業やらせたい」


「あの瀬川家具にいたのか。ホームセンターセガワに」


「体壊して退職したんだ。全面的に関わったのは2店舗くらいだが、アシスタント含めて、ほぼ5年は店舗開発の仕事をしている。それ以上は聞いていないから良くわからんがな」


「質問、店舗開発って…企画とかとは違うの」

「新しく店舗を出店するときに、場所のリサーチに始まって、どんな商品を取りそろえたら客が来るのか、どういう売り場にしたら買い物がしやすいか、どんなお店にすると客が入るのか、商品の管理がしやすい店は何か、とか、建設コストはどうするのか、そういうのを考える部署」

「すごいな」


「絶対欲しい人材じゃないか。口説けよハルさん」

 葛西が詰め寄る。

「リスクがあるなら採用しない。いくら男性恐怖症だからと言って近づいたスタッフを見境なしにブン投げるような回復ぶりならパスだ」

「え、投げるの」

「護身のために習った空手は黒帯だそうだ」

「意外」

「俺も知らなかったよ。この間、法事で久しぶりに会うまで16年会ってなかったんだ。続けていたなんて知らなかったよ」


「俺は賛成。むしろ、条件的に問題ないなら正式にスカウトしたい」

「コウさん、乗り気だね」


「お前の親戚だの、女だの、そう言うことじゃなくてだな、昨日、浮足立ってた事務所の空気を一発で鎮めただろう。冷静に観察して、今どうすりゃ良いのかミニマムの質問でマックスの判断した。若いのになかなかできることじゃないし、へらっとじゃぁ自分が行くなんて言えないぞ」


「そして驚いたのは伝ちゃんもコウさんも出発前の二人の様子を見てもう、呆れていたんだ」

 山本がそう言った。

「え、何。事務所で何かあったの?もめたの?」

「俺はそっちを覚悟してたんだけどね。伝ちゃんもコウさんもウチの事務所の中ではうるさ型のドライバーですよ。なのに、二人のやり取り見て車を見送ったら、あっさり心配ないから病院に行くっていうし。うちらスタッフは結構ハラハラしてたのにさ。コウさん心配ないからって、へらへら笑っていたんだ。俺意味わからないし」


「彼女には『届けたい』って気持ちがあってさ、乗り慣れている様子だったからもう安心だと思った。だから、一緒に仕事をしたいかなと」

 葛西のその言葉に、ああ、確かに、と遥人は納得した。

「出来るだけ頑張って口説くよ」

 遥人はそう約束した。



 目が覚めた時は昼で、頭もシャッキリ覚醒していた。

 洗濯物を取り込んで、部屋を片付けてからここを出ても、夕方には自宅に戻れる。そんな算段をしながら起き、ベッドメイクをする。

 テレビニュースをBGMに仕事を始める。天気予報では夕方にざっと雨が降る、夕立になると予報していた。

 だったら、余計に早く帰ろう、と思う。


 雨は好きだ。好きだけれど、嫌いでもある。


 洗濯物を取り込み、畳んでダイニングのテーブルの上におくと自分の荷物を片付ける。サービスエリアで買ったペットボトルのお茶を飲みながらてきぱきと動いた。


「おーい、起きているか」

 玄関からそっと入ってきたのは遥人だった。

「あ、お帰り。長居しちゃってごめんね」

「いや、聡子のおかげで助かった」

「仕事は」

「副社長に投げてきた。俺も限界。…洗濯物サンキュ」

「いえいえ。私、帰るね。今なら雨に降られないかも」

「そうだな」

「鍵返すよ」

「持っていろ」

「え」

「ウチの連中がお前を気に入ったと。フリーだと言ったら、引き抜いてくれないかって。聡子が良かったら働かないか」

「でも」

「ああ、俺が欲しいのはルートトラックのドライバーで、しかも勤務時間は朝7時からの早番のドライバーだから長距離はやらせないと言った。それでも、会社にいて欲しいんだと。だから、来い」

 遥人は穏やかにそう言った。


「私、そんなにお買い得じゃないのよ。事務スキルもないから派遣会社も難色示したし。スタッフ投げ飛ばすかもよ」

「見境なしに投げるのか」

 遥人がケラケラ笑う。いきなりそんなことはしない奴だ、と断言できる。だからそんなことが言えた。


「それはないけど、慣れるまで時間がかかると思う」

「納品ノルマなしのルートトラックは不満か」

「不満じゃないけど、ここじゃぁ通えないから。母さんがあんなだし」

 骨折の事を言った。重々しいギプスは取れたが、まだ簡易的な固定をしている段階だ。


「ああ、リハビリにはなったんだろう、順調か」

「ボチボチかな。あの人すぐ動きすぎるからドクターストップかかるし」

「全く、看護師なのにな」

「ホント。それで家では座り込んでいるの。私としては嬉しい申し出だけど、こっちで暮らすようになるだろうし、色々相談してからじゃないと。男性恐怖症の事もさ」


「おばさんは俺のところで働くのは反対ってことか」

「そんなことは言わないわよ。そうじゃなくて、いずれ耳にするだろうから話しておくけど、母さん、ある医者からスカウトされていて。在宅ケア専門の診療所で、スタッフとして来ないかと前から誘われていてさ。もうずっと迷っている」

「え」


「プライベート込みで」

「お?」

 まじまじと「娘」の顔を見てしまった。


「今いるアパートを引き払って、その診療所の近くに引っ越すことになるの。足の事もあるし、引継の事もあるから基本的に法事が終わるまでは待って欲しいって言っていたから、条件が合えばすぐに引っ越すと思う」

「本当に」

「県北だってよ。雪道どうするんだって話だよ」

「そうかぁ」

「だから、ちょっと待っていてね。2,3日時間を下さい、お願いします」


「おう。待っているから、来い」

「でも鍵…」

「女性の独身寮というのがないんだ。ココしか空いてないから。アパートがきちんと決まるまでは俺はこの上にある仮眠室で寝泊まりするから」

「でもそれは…」

「みんな、お前と一緒に仕事をしたいからって。だったら、まぁ、目の届くところの方が良いかなって、そういうことだ」

「ありがとう」


「今でもダメな時があるんだろう」

「時々ね。でも、ほとんどは大丈夫」

 にかっと聡子は笑った。そしていつものように笑って二人は別れた。

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