第10話 雷雨
※注意を要する描写有り※
運よく雨に降られずに戻ってきた、と言ってよいのだろう。家に戻った瞬間、雷と共にものすごい雨で、三歩先の距離も見失ってしまうほどだった。
すぐにイヤホンをして音楽を流す。雷の音が多少は緩和されるので何とかなる。
雷は嫌いだ。良い思い出はない。
とりあえず、おさまるまで自室のベッドの中に潜り込む。母はまだ帰ってきていない。
雷が嫌いになったのは小学校6年生の夏休みのことだ。
夏休みに入ってすぐ、学校のプール教室に通うようになったが、一緒に通う和也はプールから帰ると学校近くの剣道場に向かう。昇級試験を控えて精進の日々で、中学になったら大会で優勝するのが目標と息巻いていた。
夫を亡くした後、乳飲み子を抱えた母の登紀子は、それまで住んでいた坂上の本家から数メートル下がった離れに移った。結婚当初は義兄夫婦は転勤続きだったためにそもそもこの離れに住んでいた時もあったが、子供も生まれ、転勤するようなことも少なくなったので入れ替わったのだ。
それは平屋建ての小さな家で、入れ替わると同時に義母から登紀子へと生前贈与された土地と家だった。古い家だが、二人で住むには充分で、聡子が物心ついた時にはいつも誰かが出入りするような家だった。合鍵を持っているのは本家の貴子と、万一を考えておじさん先生である倫人。5年生になったということでようやく聡子も鍵を持って良しということになったくらいで、下校後、一人でずっといるような時間は作らないように、倫人一家も直也一家も心を砕いてくれていた。静子もフルタイムで働いていることもあって、遥人が学生の頃は真っ先に自分の家よりも聡子の家に顔を出した位だ。
途中まで学友と一緒に帰り、坂を上がる。登紀子は日勤だと言っていたからこれから6時過ぎまでは一人になる。最も、シャワーを浴びた後はおじさん先生の家で宿題をする予定になっているので一人になるのはこの先のちょっとしかない。しかも、夏休みで遥人兄が大学から帰ってきている。今の時期、坂下如月家は従兄弟たちが集まって賑やかになっているので楽しいのだ。
ウキウキしながら家の鍵を開けた途端、目の前に黒い影が現れて物凄い強い力で張り飛ばされた。
そこから記憶がない。
気が付けば、茶の間にいた。何故か頭ががんがんして身体が動かない。タオルか何かで両手を縛られて万歳の格好になっている。
しかも、着ていたはずのワンピースが無造作にたくしあげられて、のしかかっている見知らぬ男が自分の服と肌を荒らしていた。
それが何を意味するか、聡子にはおぼろげながらわかる。本来は愛すべき人と紡ぐ行為を、一方的な暴力によって染められてしまったと。
聡子にできることはできるだけ暴れて抵抗すること。嫌だと訴え、二度も殴られたが、押さえこまれても暴れた。暴れながら聡子は気が付く。
茶の間のカーテンの隙間から、揺れる洗濯物と雷雨。
全部水に流れないかな。
三度殴られて、声を出しても暴れても誰も気が付かないかもしれない。
一瞬そう思う。だが、嫌なものは嫌だ。どうであろうと、この男は嫌だ。
「サトー、いるんだろ」
どんどん、と叩かれた玄関のドア。大学生の遥人の声だ。それに一瞬驚いたのか、聡子にのしかかっていた男は動きを止めた。
「入るぞ」
合鍵を持っている遥人は宣言して入ろうとしたが、ガチャリと派手な音を立ててドアチェーンがそれを阻んだ。
「サト、起きろ。洗濯物濡れるぞ」
どんどん、とドアを叩く。それに励まされるように聡子は暴れた。声を上げようとして口をふさがれ、男に抑え込まれる。だが、ドアは開かない。閉まったままで遥人の気配が消えた。
嫌だ、と頭の中で男に対する拒絶しかない。暴れるしかなかった。
いつまでもみあっていたのか、わからない。けれど、むっとするほどの部屋の暑さの中、不意に風が流れてカーテンが揺れた。
ぶわり、と少し冷えた、しかし湿った空気が流れ込んできた。
「この野郎」
聞こえたのはガチャン、という音と遥人の恐ろしいほどの殺気のこもった声で、男は聡子にのしかかっていたはずなのに、すぐにいなくなった。
それからもう一度派手な音が立って、父が大切にしていたという庭の鉢植えが派手な音を立てて割れ、亡き祖父が大切にしていた盆栽が幾つか割れた。
「へん、俺のものだ」
野卑た笑いと共に男の声がした。それが遥人の怒りに火を付けたらしい。もう一度何かが割れる派手な音がした。
遥人は男に拳を振るうと庭に干していたシーツで、物干し台に男をくくりつけた。逃げられないように。
「聡子」
遥人は一度深呼吸して聡子の傍に膝をつき、腕の拘束を取った。一方の聡子は自由になった手で身を整えようとし、同じように服を直そうとした遥人の手とぶつかる。
それだけでも言葉もなく、聡子は怯えたようにいやいやと首を振った。
「ごめん、遅くなってごめん。気が付いてやれなくてごめん」
「ちがう、ハル兄は助けてくれたのに。ありがとうなのに。ごめん…」
「悪い、俺じゃぁどうして良いかわからない」
遥人は聡子を抱き上げて惨事のあった茶の間から聡子の部屋に押し込み、タオルケットですっぽりくるんだ後、祖父宅に電話をかけた。そう聞いている。聡子自身の記憶はなく、すっ飛んで帰って来た登紀子の顔を見たとたん、わっと泣いたことだけは覚えている。
遥人からの電話を受けて倫人はすぐに家にやって来た。
その時には、派手な物音に驚いた夕刊配達中の新聞配達員が近所の家から警察へ連絡を取った後だった。確かに、庭にシーツでぐるぐる巻きにされた、下半身丸出しの中年男が殴られて気を失っていれば通報もしたくなる。
遥人はその時、登紀子の勤務先の病院に電話をしていた。ようやく電話口に登紀子が出た時、遥人は泣きながらすぐに家に帰ってきてくれと懇願した。倫人は、家の中の惨状を一目見て何があったか察し、遥人から電話を取り上げると、混乱する登紀子に、大事なことだから直ぐに帰って来いと穏やかにそう言った。
警察が来たのは、それからすぐの事だった。
だが、それからが大変だった。
駆けつけた警官により、何があったかは一目瞭然だったが、遥人は男ばかりの集団を見て聡子の部屋の前から動かなくなった。警察の説得にも、祖父の説得にも応じず、ようやく到着した女性警察官だけは部屋に入れた。何より、聡子自身がパニックになっていて誰の言葉も受け付けなかったこともある。それを案じて動かなかったのだ。そう説明した。
遥人は聡子を助けるために茶の間に面する窓ガラスを割って家に入ったこと、犯人の男を殴ったことを認めたので、警察署に行くことになった。犯人の男は多少は抗ったものの、殴られて鼻骨は見事に骨折していたからだ。正当防衛ではない、過剰防衛に当たる可能性がある、というのが警察の言い分だった。
聡子は女性警察官と登紀子の付き添いで病院に行き、そのまま入院した。幸い、処置が早かったというべきか聡子は妊娠することはなく、抵抗した傷も日を追って回復した。だが、心の傷は計り知れないほど深く、感情の折り合いがつかない状態で、時々いきなり奇声を発して転げまわることもあり、登紀子は倫人たちと相談して如月一族が住む土地を離れた。勿論、聡子も登紀子と話し合いをしての結論で、今でもその結果に間違いはなかったと思う。
転校先で、いくらかリセットの恩恵にあずかった聡子は、とりあえず休み休みでも学校を卒業できたのだから。
聡子を襲った橋本という男は、前科者として知られる要注意人物で過去にも同じような事件を起こしていた。執行猶予中の罪状もあって、男は傷害罪を含めて13年の刑を受け、遥人は過剰防衛を疑われたが、警察での事情聴取でも過剰とは言えないと判断されたが、相手が無抵抗時に殴ったことが問題であるとされ、検察送致の後、在宅のまま不起訴処分、厳重注意ということで話は収まった。
だがしかし、決まりかけていた芸術系の会社からは採用を見合わせるとの通知が来た。それ故、遥人は卒業後は独立するという道を取ることになった。
事件後、聡子の回復の事もあって面会は禁じられた。時々やり取りする手紙でようやくの回復を知るくらいだ。そのうち、遥人は家を離れたこともあって如月の地に立ち寄るのは墓参りの時くらいになり、聡子の様子を知るのは母経由か寺の住職経由になるのだった。遥人自身、あの家を見るのは辛かったのだ。
「聡子」
不意に現実に引き上げられて飛び起きた。
「あ、お母さんお帰り」
「ご飯出来たわよ。食べよう」
そう言いながら登紀子は背を向けた。
「もうそんな時間ってか、お母さん足」
固定はしているが、松葉づえをついていない。
「もう大丈夫よ。遥人君からメール貰ってね」
「え?」
「昨日。貴方からの連絡の後、静子さん経由で」
「ああ、そうか」
遥人は仕事をするとかで小型のノートパソコンも持ち込んでいたから、連絡していてもおかしくない。
聡子は顔を洗ってからLDKの椅子に座った。
食卓に並ぶのは聡子や登紀子が時間がある時に作ったおかずと、味噌汁。焼き魚は焼き立てで、純和食の夕食だ。
「びっくりした。いきなりだもの」
「私もびっくりした。ドライバーがいないって大騒ぎしてて、ハル兄が行くってきかなくて。前日長距離乗っていて、パートナーのドライバーさんは熱出してて…。風邪だったら自分にうつっている可能性だってあるのよ?」
「そこ?」
「そこ。まぁ、お客さんへの影響を考えたらねぇ。納入待っている人がいるわけだし。それで、ハル兄から正式に一緒に仕事したいって言われたんだけど、どう思う?」
「聡子はどう思っているのよ?」
「直近の仕事はルートドライバー。自社製品を決められた納入先に納めて行く仕事になるって。でも、半年をめどにその仕事から営業展開の仕事をして欲しいって言われた。企画して営業してくれないかって」
「私は遥人君の仕事が良く分かっていないんだけど、学生時代のお友達と会社を起こして、アクセサリー作家の販売を担当していると静子さんから聞いていたけど?そんなに儲かるの?」
「ああ、今はね、アクセサリーだけじゃなくて色々なクラフト作家さんからインテリア小物とかシーズン小物を取り扱っているの。クラフト工房には、色々な作家さんが登録してて、常時お店で販売できるようなものを作っていたりするの。ハル兄の会社は、その作品を販売するのを手伝っているの。こういうのがありますよ、ってショッピングセンターに売り込んだり、インテリアショップに売り込んだり。売り上げは販売してくれた店舗と、ウチと、作家さんとで割合が違うけどね。時にはお客さんから特別注文を受けることだってあるの。例えば、家の表札を作ってくれませんかとか」
「へぇ」
「ルートドライバー半年間というのは、前任さんが、親が倒れて実家に帰っちゃったんだって。だから今ギリギリ、ムリムリでシフトをまわしているから人手が見つかるまで助けてくれと。前の会社であれやっていた、これやっていたと言ったら、売り込む店舗のピックアップとか、どの商品を置いたら良いのかなんてリサーチしてくれないかって。商品セレクトは副社長の宮前さんという人が担当していて、彼が売れると言ったものは必ず売れるんだけど、新しいお店を開拓する必要もあるしね」
「そうねぇ。私はそういうの、良く分からないけど。聡子はそれで良いの?」
「やりがいある仕事だと思っているよ」
「それもあるけど、遥人君と一緒に仕事すること。お客さん、外部からくることもあるでしょう、大丈夫?」
「受付スタッフは別にいるから大丈夫だよ?どうして?」
「半年前…」
半年前の苦い思い出が残る。
「大丈夫だと思う。実際、ルートで交渉するのは私じゃないから」
「そうだけど」
「それでね、このアパートから通えないからここを出ることになるんだけど、母さんどうする?星野先生のところに行けば?」
「ん?」
「きっと待っているよ。連絡は取り合っているんでしょ?」
「まぁね」
「行け。と、言っておく。あんな良い男居ないよ?」
「聡子」
思わず、といったふうに登紀子が照れていた。
「当面、アパートが見つかるまでハル兄の部屋に居候することになる。社員寮の空きがなくて」
「え?遥人君にだって恋人がいるでしょうに。お付き合いしている人がいると言っていたわよ?静子さん」
「いない、と否定していたけど?ちなみにハル兄は仮眠室で寝泊まりするって。アパートはちゃんと調べてみるけど、ハル兄は明日にも入社して欲しいってくらいの勢いだから当面居候しなが ら部屋探しした方が良いのかなって。そう言う話、トラックの中でしたんだ」
「そう。わかった。じゃぁ、出来るだけ早めにそうしなさい。で、貴方他の会社受けていたわよね?そこ、ちゃんとしなさいよ。給料とか、入社日とか、遥人君と相談しなさいね。引越しはとりあえずの荷物だけ持って行って、後はチョコチョコ運ぶしかないか?」
「ありがとう、母さん」
「あとは早く嫁に行け。父さんも心配してるよ」
「いや、誰と?」
そうとぼけて、聡子は魚を口に放り込んだ。
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