私の原点・如月
第3話 再会
大きなため息と共に聡子は車を降りた。それは、ホテルの車寄せに愛車の軽自動車を停めた直後のこと。
「聡子、大丈夫なの」
「あ、なんでもないよ、大丈夫」
無理に笑って助手席に座る母の登紀子にそう答え、後部座席に入れた松葉杖を取り出してから、助手席のドアを開ける。
「いや、さっき営業車とすれ違ったからさ」
「前の会社の?こっちまで営業しているの?」
「そう、営業エリアだし」
人生二度目の退職が決まってすぐ、聡子は登紀子が暮らしているアパートに引っ越した。
最初の会社の時も二度目の会社の時も、通勤の関係で登紀子とは住居を別にしていたのだが、今は就職活動をしながら不定期にアルバイトで働いている身としては出費はできるだけ抑えたい。その判断と、母からの「戻ってこい」コールを受け入れたことにある。少々情けなかったが。
貯蓄を取り崩せば生活できないことはないが、住居契約更新時期でもあったのですんなりと今はその方が良いと、母と話し合った結果の同居だった。何より、母の骨折で日常生活に不自由が起きているとなると帰らざるを得なかったこともある。
おかげでバタバタ引っ越し作業に追われたが、そもそも荷物は最小限のものに限っているので、洗濯機と冷蔵庫の家電だけは業者に任せての引っ越しで、それも知り合いに頼んだから最小限の料金でおさまってしまった。衣類や生活用品は自分で運べたので、足掛け6年の一人暮らしはあっけなく終わった。
生活圏が変わったことで、二度目の会社、緑川精機との縁は切れた。
万々歳だ。
後にも先にも、退職したことを後悔しないと言い切れる会社だった。それほど、聡子の人生において未練がないという希薄さだった。
登紀子はまだ足が痛むのか、やりづらいのか、ゆっくりと身体を起こして車を降りる。後ろから来たタクシーが停車して精算をはじめたが、車寄せが広いので時間がかかっても邪魔にはならないのだが、やはり気になるのだろう、動きを早くしようとした。
聡子もそれがわかるから何も言わないが、ただ、車のボディに頭が当たっても痛くないように手でガードしたり、バランスを崩しても大丈夫なように腕を差し出して待ち構えたりするのはもう当たり前になってしまった行動をとった。
「もう忘れなさいよ、そんなくだらない会社」
「そうなんだけどねぇ」
実際、そんな会社にしがみついたって給料が良くても気分良くは働けない。ただ、会社のネームバリューと給料だけは良かった。アパートの家賃が払えるくらいには。だが、あの営業所で働こうとは思わない。働こうと思えない営業所だったからだ。
最初の会社は事情があって辞めた。続けられないと判断したからだ。だが、それは聡子の事情であって、会社自体に幻滅したわけではない。だからこそ、余計に二度目の会社が残念すぎた。
ワガママかもしれないが、給料が安くても気分良く働きたいと思う。そういう意味ではあの会社に未練はないが、『2週間でやめた』事実が、地味に聡子にダメージを与えている。
再就職に足かせとなっているのも現実だ。
登紀子が車を降りて、きちんと松葉杖で自分の身体を支えたことを確認してから乱れた母のロングスカートを直す。
「荷物は持っていくから先にロビーにいてよ。車を駐車場に入れてくる」
「いいのに。荷物くらい持てるわ」
「母さん、怒るよ」
ぶすっと聡子が言うと登紀子はしぶしぶ頷いた。不自由なのは右足だけで、あとは元気なのだ。そして、職場では松葉杖をつきながら器用にバリバリ仕事をしているらしい。その姿が目に浮かぶから、頭が痛い。できるだけ安静にしろと言われているはずなのだが。
そもそも自分の職場である病院で転んで骨折して、子供に緊急連絡の呼び出しがかかるなんて冗談にもならない。本当に看護師なのかと、思ったくらいだ。
「もしかして、坂上の登紀子おばさんなの」
背後から声を掛けられて振り返ると、先程のタクシーから降りてきたのはチョイ悪オヤジっぽい男だった。喪服は着ているが、ちょっと着崩している。というか、スーツを着慣れていないことが丸わかりの、ネクタイを緩めた中年男。渋い方向に年を取ったとわかるその男に、見覚えがあった。
「御無沙汰しております、
外見とは裏腹に、礼儀正しく腰を折った遥人の自己紹介に聡子は言葉を失った。
最後に会ったのは、聡子が小学校を卒業する年の夏だったはず。
遥人は、22歳の大学生だった。大学卒業の年で、就職活動するはずなのに金髪に染めていた。大学に入学してからは赤や黄色や緑や、しかも前衛的な髪形で周囲はハラハラしていた。就職活動に影響は出ないのかと問うと、本人曰く「就職先の職場も了解を得ている」という。就職活動中は確かに黒かったんだよ、と祖父を安心させてはいたが。
あれから、16年ぶりの再会になる。
「ハル兄…うそぉ、髪黒かったの」
「これ」
「聡子、相変わらずだなぁ」
ケラケラ屈託なく笑う遥人の顔はあの時のままだった。目尻に皺が増え、同年代の男性と比べて日焼けしているが、16年前の夏から、変わっていない笑顔だった。
「足、怪我したの」
「ちょっとね。医者が大げさで」
「よく言うわ。年甲斐もなくやんちゃして骨折という結果なんだから。ハル兄、頼んで良い?ロビーに伯父さんたちがいると思う」
「ああ、わかった。登紀子さん、行こう。やんちゃしたっていう冒険談聞かせてよ」
遥人は昔と変わらない屈託のない笑顔で登紀子に寄り添い、聡子は車に乗り込む。
今日は親族が集まる。皆の節目の年だった。
如月の家はこの近くの小さな丘のふもとにあった。田舎では名の通った家で、系譜をたどれば江戸時代まで遡れるという昔ながらの庄屋の家系だという。
昔から一族が近所に住んでいて、同じ如月だから坂上だとか、坂下だとか、川筋、川向だとか、目印になるような場所でそれぞれ区別を付けていた。基本、坂上と言うのが本家筋の一族で聡子の祖父一族に当たる。
対して、坂下の、と言われるのが聡子の祖父の弟の一族だ。祖父の兄弟は当時から仲は良く、一族の結束も強かったらしい。その精神は今も続いている。
坂上にある本家祖父の子供たち、つまり聡子の父信也とその兄である直也兄弟はとても仲が良く、祖父の弟の子供たち、つまり遥人の父親である秋人と、弟の優斗とも仲が良く、それは彼らが成人しても変わらず仲が良かったと亡くなった坂下の祖母である里佳子は話していたし、直也伯父は転げまわって遊んだ記憶しかないと笑う。
両家とも男二人の兄弟で、4人は年の差はあったが幼少から遊びまわり、おなじ小学校と中学校を卒業した先輩後輩ということでもあり、それは彼らの子供でもある聡子や、遥人や、直也の三人の子供たちにも同じことがいえた。当然のようにこちらの世代も転げまわって遊んだクチだった。
坂上の直也伯父の子供たちは女二人、末っ子が男の和也で、彼は聡子と同級生になる。和也は幼馴染の同級生と結婚して、二児の父親だ。坂上の古い家を内部改造しながら直也夫婦と二所帯住宅で暮らしていて、事あるごとに如月の家の人間がそこに集まったりもする。にぎやかで、和やかな家庭だ。聡子が「姉」と呼ぶ二人の娘は嫁いで地元から離れているが、それぞれ幸せに暮らしている。
坂下に住む、祖父の弟倫人は次男である優斗夫婦と今も坂下の家で暮らしている。元教師なので近所ではおじさん先生と呼ばれている温厚な好々爺で、聡子はずいぶん世話になった。もちろん、勉強も教えてもらった。聡子のおじいちゃんと言っても差し支えないほどに。
こちらの坂下家族も仲が良い。
数年前、優斗夫妻は身体が弱ってきた倫人を心配して家の大半をバリアフリーに改造する計画を立てた。いつ計画を倫人に話そうかと迷って二日ほどしたころ、倫人は何時まで経っても話さない、気に入らない、と自分の荷物をまとめると、さっさと坂上の甥っ子が住む本家に「家出」した。結局、工事が終わるまで居候したらしいが、本家の伯父が笑って言うに、それはおじさん先生なりの「優しさ」なんだよと言っていた。優斗夫妻が中心になって住むのだから、設計の希望はメインになる優斗夫妻の生活だと言ったらしい。だから直也も、「ひねくれた爺」を演じる倫人を笑って居候させたのである。事実、倫人はリフォームした家にケチ一つつけなかったらしい。
最も、そう言ったのは直也にだけで、他の人間には桜の季節にリフォームしたことで、工事の間、自分の書斎から桜を見られないのが不満だと言っていた。それに抗議して、桜を正面から見ることができる本家客間に居候したのだと倫人はそう言ったのだ。
しかし、優斗夫婦やその意味を知っている一族の嫁たちは、わざとその時期にしたと口をそろえる。本家の桜を愛してやまない倫人が、気兼ねなく本家に滞在できる時期を考えれば桜の季節しかなく、本家もいずれは改築する計画が出ている以上、今を逃しては本家に滞在することもできないだろうというお互いの配慮からだった。
体の弱った倫人にはなるべく家の近くで過ごしてほしい、自然が好きな人だから家の周りの植物や昆虫で季節を感じてほしい。それが、息子である優斗の願いだった。それを聞いた孫世代の男たちは心情は理解できるが、と嘆いた。意味がわからんのはお前たちだと一喝したのは直也伯父だ。孫世代は、情緒や郷愁を語るにはまだ早い年代だったというわけだ。
だが、その頃から倫人は自分の「あと」のことを考えていたらしい。
優斗夫婦も倫人自身も隠していたが、登紀子からの話として、どうやらその頃倫人が癌にかかったらしい。登紀子は最初から知っていたそうだが、今の今まで聡子には黙っていたのだと、つい先日そう教えてくれた。だから、その後を見据えてのあれこれの計画と目標を立て始めたという。今日の集まりは、倫人の目標でもあった節目の集まりだった。
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