第八片

 人々が寝静まった満月の夜。紫貴は布団で寝息を立てず静かに眠る葵の姿見つめていた。

 蛍と蓮に連れられて帰って来た葵の姿はとても危険な状態で、左肩からは止まる事を知らない鮮明な血が流れ出し、白の服を染め続けていた。顔や腕にも怪我はあったが、何より一番危なかったのは、葵が神子の姿のままだった、ということだ。

 神子になる、ということはもとより人間が持つ妖力や闇に匹敵する「精霊」の力を使うということだった。もちろん、誰でも神子になれる訳ではない。神子の姿になるためには常人以上の精霊の力を有している必要があり、かつ特定の神の加護が必要だ。しかし、その精霊は人間が生きる上で必要不可欠なもので、その存在が体内から消えた時、その人間の人格は消えてなくなる。つまり、体を残したまま精神が消滅するすなわち抜け殻という状態になってしまう。こうなったら最後、二度と人格が戻ってくることはない。

 本来であれば、神子から人間の姿に戻るためのは葵本人の意思が必要だ。しかし、葵はその意思もままならず、大傷を負って帰って来た。つまりそれは大量の精霊を意味無く消費していたことになる。いくら時間が経てば回復するとはいえど、一度空になった体に精霊が溜まることはない。もし少しでも対処が遅れたら葵の人格は消滅していたかも知れない。

 そして、葵が戻ってきてから既に三日が過ぎていたこの日、紫貴はずっと葵の近くでその瞳が開く時を待っていた。

「紫貴殿…。その、そろそろお休みになられてはいかがですか」

 沈黙を破ったのは、お茶を持ってきた蓮だった。

「昼間の仕事以外ずっと寄り添われて、全くお休みになられてません。後は僕がついていますので、少し休まれたらいかがですか?」

 紫貴の隣にお茶の乗った盆を置く。

「いや、大丈夫だ。俺は休まなくても何とかなるからな。それより、お前達が休め。特にお前は葵の分まで仕事をこなしているのだから」

「いいえ。葵殿がいない今、私が休む訳にはいきませんから」

 「ならぬ」。そう口にしようとした紫貴だったが、その前に蓮は突然意識が無くなったように力なく倒れた。

「今君が倒れたら守護が薄れてしまう」

 倒れかけた蓮の体は床に叩きおつけられることはなく、睦月の腕によって支えられた。

「別の方法はなかったのか」

「あいにく、これしか思いつかなかった」

 蓮を自室に送り届けた睦月は布団を挟む形で紫貴と向かい合った。

「葵の様態はどう?」

「今は落ち着いている。“舞姫まいひめ”のおかげで体の傷はずいぶん良くなった。しかし、問題は精霊の方だな」

「え?舞姫が来てたの?」

「あぁ。…ほら、来たぞ」

 開いた障子から見える中庭に紫貴が目を向けると、どこからか花びらが降って来た。そして、その間をすり抜けるように人影が現れる。

「わざわざすまぬな、舞姫」

 その人影が廊下に足をついた時、ようやくはっきりと人物を確認することができた。天女を連想させる美しい容姿を持ち、それに見合った美しい着物を身に付けた女性だ。

「お気になさらず。こんな形で恩返しができるのであれば、本望ですわ」

 紫貴の隣に正座した舞姫は深く眠る葵に目を移した。

 この女性は舞姫というれっきとした神。天界に暮らす神の一人で治癒を司る神である。紫貴とは昔からの仲でいわゆる友神である。

「あんなに小さかったあの子がこんなに大きくなって…」

 そんな時、舞姫のなかで回想されたのは舞姫が初めて葵に会った時の事だった。

 それは紫貴神社を目指していた時のとこ。寄り道したせいで半ば迷子になっていた舞姫は、運悪く妖怪と遭遇してしまった。その時に助けたのがまだ幼かった葵だった。

 ―お姉さん!ここは私に任せて逃げて!―

「あの時も一人で無理をなさって…。自分のことを後回しにして相手のために動く。本当に誰かさんにそっくりですこと」

 舞姫はニッコリと笑顔を紫貴に向けた。紫貴は顔をそらす。

「お前が何の連絡もよこさず一人で来るのがいけないのだ。無防備な神ほどうまいものはない。…そもそもその話は何回目だ。ついに歳か」

「女性に対して失礼ですわよ。神に歳など関係ありません」

 裾で口元を押さえた舞姫は、目の前に睦月が座っていることに気が付き軽く会釈した。

「睦月さんも、お元気そうで何よりですわ。本当に…」

 最後の一言を聞きとれたのは紫貴だけかもしれない。

「お久しぶりです、舞姫。相変わらずの美貌で」

 睦月の笑みもそこそこ負けていない。

「最後にお会いしたのは五年前なのに、本当に何も変わられてませんね」

「あら、神にとって五年なんてあっという間ですわ」

 ね?と言わんばかりの目で紫貴を見た舞姫だったが、まだそっぽを向ける紫貴に「子どもね」と返した。

「いつもこんな感じですよ」

「何か申したか、睦月」

「さぁ」

 紫貴のすさまじく鋭い視線にも屈するこことなく睦月は涼しい笑みで返す。言いだしっぺの舞姫はというと、楽しそうに二人のやりとりに耳を傾けていた。

「まぁまぁ、お互い様ですわ。さて、そろそろ始めましょうか」

 神の威厳なのか。ふと舞姫の纏う気配がその一言で変わった。

「頼む」

 紫貴も真剣な眼差しで舞姫に返した。それは睦月も同じだ。

 コクリと頷くと、舞姫は葵の左肩辺りに両手をかざして、ぐっと力を込めた。

 すると、薄い桃色の光を放ち始め、その直後また花びらが舞い始めた。

 部屋全体が異空間と成した時、舞姫はそっと瞳を閉じた。

「―舞姫の名の下に、精霊よ力を我が下へ―」

 花の甘い香りが漂い始めたのと同時に、葵の体も桃色の光に包まれた。昨日も同じ光景を見ていた紫貴だが、つくずく舞姫の力はこの世の理を超えた力だと感じていた。本来、治ることのない傷まで治してしまうのだから。

「…よし、今日の分は終わりましたわ」

 しばらくして、顔を上げた舞姫。

「傷の治りはここまで来ればもう安心。精霊達も少しずつだけど回復していますわ」

 舞姫の言葉に紫貴は安堵の笑みを浮かべた。

「そうか…。ならば良かった。疲れただろう。今お茶を入れる」

「いいえお構いなく。これからまた別の仕事が入っていますから」

「こんな夜中にか?」

 神の世界でも通常は昼に活発に動き、夜はプライベートに使う事が多い。

 現在の時刻は深夜0時ごろ。

「えぇ。天界の神々による大会議ですの。主にあの妖怪について、ですけれど」

 その言葉に紫貴の肩がピクリと動いた。

「やつのとこについて…なのか」

「ここ十年間は静かなものでしたが、そろそろ動き出してもおかしくないとのことで、年のための会議ですの」

 今まで黙っていた睦月も舞姫の言葉に眉を顰めた。そして、今もなお眠る葵に目を向けた。

「今日は天界だけの。近いうちに人間界の神も交えた会議も行われるようですわ。…おそらく、その時の主役は貴方様になるかと」

 あの時のように。紫貴が一人になってしまうのではないか。舞姫のなかで不安が横切る。

「大国主様もおっしゃっていましたが、やはり、一番の被害者は貴方様で…でも…」

 言葉にするのが苦しかった。しかし、紫貴は笑みを見せた。

「俺は確かに一番の被害者だが、それと同人俺もやつと同じ妖怪だった、ということだろ?」

「違いますわっ!。確かに元は妖怪でしたが、人間のために尽くしているではありませんか。大国主様はそういうことをおっしゃりたかったのではなくて…」

 紫貴はいつもそうだ。なんでも一人で抱え込んで、誰にも迷惑をかけまいと…。そんな紫貴の姿に涙が浮かんだ。

 そんな舞姫にそっとハンカチを渡したのは睦月だった。受け取った舞姫は涙を拭って紫貴と向かい合った。

「天界の神のなかでも貴方様の事を蔑む方もいます。けれど貴方様はそんなことを言われる筋合いはどこにもありませんわ。貴方様は…紫貴様は立派に神としてお役目を果たしているのですから」

 舞姫のまっすぐな瞳が紫貴の姿を映す。

「舞姫…。ありがとう」

 自分のことをこんなにも想ってくれる人がいる。

 紫貴の言葉は、舞姫の中で波紋となって広がっていった。



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