34.巣立ちの日、あるいは
神谷と園田の二人は寮長室に佇んでいた。
善は急げとばかりに二人で話した次の日の夜である。
寮長の北条はいない。『しばらく寮に戻らないから、荒らさないなら好きに使ってくれていいぞ』とは本人の談である。
万が一他の寮生に話の内容を聞かれたくないという理由から、他の部屋から離れた位置にあるこの寮長室を貸して貰うことにしたのだ。
入口のドアには『入室禁止』の札を下げている。
「大丈夫?」
「……はい」
あからさまに青い顔で答える園田。
お世辞にも大丈夫とは言えない様子だった。
「ほ、ほんとに大丈夫? わたしが代わりに言おうか?」
だがそんな神谷の言葉にも頑なに首を横に振る。
すると同時に電話の着信音が鳴り響いた。
「やってみせます。でもやっぱり怖いので……手を握っててくれませんか」
「……うん!」
園田の左手を、神谷の右手が固く握りしめた。
どちらの手も汗ばんでいて冷たかった。神谷もまた、隠せないほどに緊張していた。
それに気づいた二人は困ったような笑顔を交わす。
「ありがとうございます。では」
意を決して受話器を持ち上げ耳に当てた。
『――もしもし。みどりか?』
「はい。園田みどりです、お父さん」
子が親に向き合う時が来た。
『帰ってきてくれる気にはなってくれたか?』
漏れ聞こえてくる声は、とても高校生の娘がいるとは思えない若々しさだった。
この男が――電話の向こうにいる人物が、園田みどりの人生を傷だらけにした張本人。
そう思うと、腹の底が熱くなってくるのを神谷は感じた。
「お父さん、私……私は」
園田は何度も口を開いては閉じるのを繰り返している。
心はすでに決まっているはず。しかし身体がそれについてこられないのだ。長年刻みつけられた恐怖が、父親への反抗を妨害しているようだった。
そんな娘の態度を、父親は『まだ迷っている』と解釈したようだった。
『みどり。前にも言ったが……本当にすまなかった。子どもに暴力を振るうなんて、あってはならないことだった。お前がいなくなってやっとお前がかけがえのない存在だと気付けたんだ』
神妙な声色だった。
神谷には、本当に反省しているように聞こえた。
だがそれでも許すことはできない。どれだけ反省し償おうとも、一度したことは無かったことにはできないのだから。
「…………本当に、そう思ってますか」
震える声で、園田はその言葉を紡ぐ。父親に意見するというのは彼女にとっては初めてだった。深呼吸し、隣にいる神谷の存在を強く意識すると少しだけ震えは収まった。
「私は今でも少し大人の人が怖いです。突然視界を横切られるだけでも必要以上に驚いてしまいますし、近くで誰かが腕を上げる仕草をするだけで悲鳴を上げそうになります。ときどき怒鳴り声の幻聴が聞こえることもいまだにあります。全部……全部お父さんのせいなんですよ!? それでもあなたはやり直せるって言うんですか!? 私はもう二度と会いたくないくらいなのに!」
そこまで一息で言い切ってから、園田は荒く息をつく。
ずっと言いたくても怖くて言えなかったのだろう。今まで心の底に埋めていたのだろう。
その想いをやっと言葉と共に吐き出すことができたのだ。
『……困ったものだな。せっかく僕がこうやって歩み寄っているのに、どうして理解してくれないんだ』
わけがわからない、といった調子で電話の向こうの男は言う。
娘の訴えがまるで響いていないようなその態度に園田は目を見開き、言葉を失った。
『いいか、子どもは親のいうことを聞くものだ。だって子どもは――親がいないと生きていけないのだから。それをなんださっきから、まるで僕が悪人のようじゃないか』
今度こそ、二人は完全に停止した。心臓が凍り付いたのかと思った。
こいつは、この男は、まるで反省していない。
自分の何が悪いのか全く理解していない。
神谷の右手に痛みが走った。見ると、園田の左手に強く握りしめられていた。その手はひどく冷たくなっていた。
「……あなたは、何を言って、だってさっきは……」
『ああ、暴力はいけないことだね。だがそれだけだよ、僕の非は』
搾りだすような園田の言葉は、たやすく打ち捨てられる。
この男にはどれほど切実な思いも言葉も届かない。自分が正しいと信じ切っているからだ。
だから何を言っても『間違った意見』としか捉えられない。
「す、いません。お母さんに……かわってもらえますか」
憔悴した様子で、園田は言う。このたった数分で消耗しきってしまった様子だった。
だが、それでも。父に話が通じないなら、母に伝えて取り持ってもらえればと……諦めずに望みを繋げようとした。
だが――甘かったのだろうか。考えが足りなかったのだろうか。
いや、そう言うにはあまりにも残酷で、希望の欠片も残っていないことを二人はすぐに知ることとなる。
『ああ、あいつなら出て行ったよ』
は、と息を少し吐き出して、それきりしばらく止まった。
余りにも端的過ぎて理解が追いつかない。
『お前がこの家を出て行ったその日にどこかへ行ってそのまま帰ってこないままだよ。まったく何を考えているんだか』
『ずっとお前のことが邪魔だったらしいぞ。もううんざりだ、こんな家出てってやる、なんて今のお前みたいにまくし立てて鞄ひとつ持って逃げ出した。まったく、親の自覚があるのかねえ?』
『寮に入りたいというお前に味方し庇ったのも、お前が家にいると心置きなく出ていけないからだったそうだ。全く理解に苦しむよ――みどり? 聞いているか?』
連なる言葉を、理解したくなくて遠ざけようとした。
だが不可能だった。楔のように心臓に打ち込まれて抜くことができない。
心は激しい痛みを訴えているのにひどく意識がぼやける。
父は人生の障害。味方だと思っていた母も、本当は自分のことをずっと目障りだと思っていた。
嘘だと思いたかった。しかしそう思い込もうとするほどに母との記憶がフラッシュバックする。
最後のあの日だけは庇ってくれた。
しかしそれは裏を返せばそれ以外は一度も庇ってくれなかったということだ。
ああ、そういえば。
(私は――お母さんに一度だって笑顔を向けられたことがない――)
以前母親に言われた言葉を思い出す。
『この学校にいけば、あなたは自由になれる。何をしたっていいの。今までできなかった分、目いっぱいしたいことをしなさい』
そうか、つまりこれは『さっさと出て行って後は好きにしろ』ということだったのか。
これまで幸せだと信じていた思い出の全てが一瞬にして反転した。
あの時もあの時もあの時も、母は自分のことを疎ましいと感じていたのか。ただの業務のように自分に接していたのか。親子の愛なんてものは幻想だったのだろうか。信じたこと自体間違っていたのか。
こんなひどいことがこの世にあるのか。ならば自分は何の罪を冒したのだろうか。
産まれてきたこと自体がそうなのだろうか。
そして神谷もまたショックを受けていた。
そんな親がこの世にはいるのかと。今まで想像すらしていなかった。直接関係のない神谷であっても呼吸を忘れるほどの衝撃だった。ならば当人である園田は――そう思い、隣に目を向けると。
「……………………」
目を見開いた園田は、口元を覆って声も上げられずに涙を流していた。
いつの間にか取り落としていた受話器からは園田の父の声が雑音じみて聞こえる。
ただ、左手で神谷の右手を強く握りしめて、打ちひしがれるように泣いていた。
もう彼女にはそれ以外に何もできなかった。
この子が、いったい何をしたと言うんだろう。
ただその家に産まれたというだけでここまでの仕打ちを受けなければいけないのだろうか。
親の意に沿って育たない園田みどりが悪いのか?
そんな馬鹿な話があるか。
「――――そんな馬鹿な話があるか!!」
気づいた時には受話器を拾い上げていた。
これが正しいかどうかはわからない。
本当は間違っているのかもしれない。
よその家庭に口を出すなんてことが許されるのかもわからない。
でも。
「こんばんは。みどりの友達の神谷沙月と言います」
そうしないと、園田みどりの友達でいることを、自分自身が許せなくなるような気がした。
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