35.私とあなたの証明式


「こんばんは。みどりの友達の神谷沙月と言います」

 

 電話の向こうには園田の父。

 自分の手が震えるのが分かる。

 隣の園田が、驚きに満ちた表情でこちらを見ていた。


 ああ、本当はわかっている。

 こんなことに意味がないことはわかっている。


 園田の父に強制する力はない。仮に園田を実家に連れ戻そうとしても、今度は寮長の北条が立ちふさがるだろう。北条が経緯を知れば、きっと全力で味方になってくれる。そういう人物だと神谷は信じている。

 だから園田みどりが父の提案を拒めた時点でこの話は終わりのはずだった。

 彼女は家に帰る必要はなく、これからも寮での生活を続けられる。


 だが、声も上げられずに泣いている園田を見ると、腹の底からあまり味わったことのない感情が無限に湧き上がってくる。それが燃料となり、心にくべられる様を想像した。

 もう止まることはできない。

 電話の向こうで、自分を信じ切ってふんぞり返るこの男に、何か言ってやらないと気が済まない。

 

『……ああ、そうか。いつもみどりがお世話になっているね。そこにいるということは事情は把握しているんだね?』


「……ええ」


 喉が不自然なほどに渇く。心臓がうるさいくらいに脈打っている。

 相手は大人だ。対してこちらは年端もいかない高校生。

 この男が、そんな子どもの言葉を聞き入れてくれるのか。

 ごくりと生唾を飲み込む。


『お恥ずかしい限りだよ。悪かったね、こんなことに巻き込んで。みどりも黙っていればいいものを……だが君は無関係だ。みどりに代わってはもらえないだろうか』


「……なんでさっきからそんなに平気そうなんですか? 家族がバラバラになったんですよ?」


『確かにそうだね。だけどそれは僕のせいじゃないからなあ』


 なんなのこいつ、と神谷は声には出さずに毒づく。

 どこまで自分の正しさを信じ切っているのか。

 これでどうやって今まで生きてきたのだろう。家族だけではなく関わる人全員を利用してきたのだろうか。


「あなたのせいじゃないって……暴力を振るったことは反省してるって認めてたじゃないですか」


『ああ、だがそれも世間では『悪いこと』だとされているというだけなんだ。はっきりいって今でもあれは必要なことだったと思っている。でないと言うことを聞いてくれないからねえ。というかこれでも気は遣ったんだよ? だから服で隠せるところにしかしてなかったわけだし』


「なにを、言って――そんな……他人が自分の思い通りにならないなんて当たり前じゃないですか」


『そうかもしれないね。だから僕は殴った。しつけってやつさ』


 堅く、分厚く、冷たい壁が目の前に立ち塞がっているかのようだった。

 こんな人間をどうすればいいのだ。


 プラウ相手なら、直接戦って倒すことだってできる。この拳を握れば解決できる。そっちの方がよっぽどマシだった。


「……あなたは子どもをなんだと思ってるんですか」


 震える声でたずねる。

 もう神谷の方が今にも折れてしまいそうだった。それほどまでに電話の向こうにいる人間が理解できない。


『なんだと聞かれてもね。まあ、子どもは親を敬うべきで、感謝するべきだな。なぜならわれわれがいなければこの世に存在していないだろう? だから子どもは親のために生きるべきなんだ』


 園田の手をひときわ強く握りしめる。

 だがそれは彼女を安心させたいがためでも勇気づけるためでもない。

 園田に、隣にいる誰かにしがみついてその体温を感じていないと、今にも崩れ落ちそうだったからだ。

 受話器を伝って流れ出した毒に汚染されているような錯覚さえ感じる。


「神谷さん……もう……」


 目を赤く腫らした園田の静止に、神谷は首を横に振って拒絶する。

 もう園田のためだけではなくなっていた。

 この男を否定しないと神谷自身が立っていられなくなりそうだったのだ。


『だが僕は失敗してしまった。みどりを追い出すまでになってしまった。だから今度こそやり直したいんだ。僕たちはきっとまだ家族をやり直せるはずなんだよ』


 この期に及んでこんなことを言う。

 自分が何を言っているのかわかっているのだろうか。

 言葉の並びを頭が理解するのを拒んでいる。


 ここまで他人を軽んじられる人間がいるのか。人間を人間と扱わないこの姿勢――ならばこの男の世界に存在する人間は、この男たった一人だ。

 こんな自分以外の全てが自分のためにあると信じている人間を、園田みどりを自分のために利用することしか考えていない人間を、許せるはずが――――


「あ、は」


 口元が、無意識に笑みのような形に歪む。

 嬉しいとか楽しいとか、そういった感情に由来するものでははない。

 ただ気づいてしまったのだ。

 その事実に、ただ愕然としてしまった。

 

 自分の目的のために園田みどりを利用する――それは神谷沙月も同じだ、ということに。


 【TESTAMENT】をクリアするために、園田を巻き込んでいる。戦力として味方につけている。

 いくら園田の方から頼んできたと言ってもそれは覆しようのない事実だった。

 彼女をいいように利用していると、そう言われれば反論する術を神谷はいまだ持っていなかった。

 割り切ることもできなかった。


 呆然とし、言葉を発することができなくなってしまった神谷を置き去りにするように、電話の向こうでは園田の父がなにやら講釈を垂れている。

 結局、神谷すらどうでもいいのだろう。自らを主張し誇示できればそれで。だがそれも霞の向こうにあるようで、ぼんやりとしか耳に入ってこない。


 ついさっきまで否定していた人間が自分にとてもよく似ているという事実が、神谷の心をへし折ってしまった。今まで立っていた地面が一瞬にして崩れ落ちていくようだった。

 絶望というものを感じるのはこれで二度目だった。ここからはもうどうやっても立ち上がることはできない。

 

 だが。

 そんな底の底に落ちた神谷を黙って見過ごすことのできない少女がいた。

 ぎゅううう、と右手が握りしめられる感触にはっとして横を見ると、園田が赤く腫らした目をこちらに向けていた。


 その瞳に揺らぎはない。強い意思を持って神谷を見つめている。

 園田は首を横に振った。

 声には出さずに唇を動かした。

 それらの仕草は雄弁に彼女の意思を語る。

 

 違う、と。

 

 二人は全く違うのだ、と園田みどりは主張していた。

 園田も神谷と父に似ている部分があるということは理解しているだろう。常に神谷を見つめ続けて、神谷のことを考えている彼女なら。


 だが、それでも違うと言う。

 おもむろに園田はスマホを取り出し操作した。すると神谷のポケットが震える。

 画面を見てみるとチャットに新着通知が数件。


『確かに神谷さんは私を【TESTAMENT】をクリアするために連れて行こうとしています』

『それはもしかしたら利用していると言えるのかもしれません――私は全くそうは思いませんが』


 でも、それは問題ではない。

 神谷自身が”そう思っている”限り、心は折れたまま戻らない。

 そんな神谷の背中を押すように新着がさらに届く。 


『でもこれは私がどう思うかは関係ないのでしょう。あなたの認識の問題ですから』

『だから私は提示しましょう。父とあなたとの決定的な違いを』


 神谷の思考を先回りしたかのような内容に内心舌を巻く。本当に――よく見ている。


『神谷さんもこの電話でのやり取りでわかったと思います。父は自分の考えを絶対的に信じている人で、他人の意見を聞き入れることはまずありません』


 一呼吸置いて、さらに数件。


『でも神谷さんは違うじゃないですか』

『最初、私の申し出を断ったじゃないですか』

『もちろん自分の力だけでクリアしなければ、という思いもあったでしょう』

『でもそれだけじゃないでしょう?』

『私の自惚れでなければ――私のことを案じる気持ちもあったはずじゃないですか』


 その通りだった。

 あのとき確かに神谷は巻き込みたくないと思ったのだ。


『最後には折れてくれましたけど……本当は今もまだ葛藤してる。違いますか?』


 違わない。

 あの時ひとまずの解決を見せたものの、今でも迷いを振り切れてはいない。

 『なんでもする』だなんて子どもじみた曖昧な口約束だけでは自分を誤魔化しきれなかった。


『そこなんですよ』

『自分は間違っているのではないか――そう迷い続けていること』

『そして他人のために本気で悩むことができること』

『それがあの人とあなたとの違いです』


 そこまで打ち込んでから一息ついたかと思うと、園田は小声でこう呟いた。


「――――反論は?」


「ありません」


 そう言い切られては神谷もそう返すしかなかった。

 ああ、もう……脱帽だ。

 敵わないなあ、と今度こそ神谷は心からの苦笑を浮かべた。 

 そこまで言われたらもう奮い立つしかないではないか。


 そう、まだ終わってはいない。

 毒を吐き出し続ける電話の向こうの男に抗わなければいけない。

 頭の中の霞が払われ、言葉が直接届く。


『わかるかい? 子供は親の元でこそ本当に幸せになれる。僕は以前過ちを犯してしまった。だからこそこれからはみどりの幸せのために全力を費やすと誓おう』


「…………!」


 凍り付いた神谷の心臓に、火種がくべられた。

 それは。

 それだけは聞き過ごせなかった。


 まだ完全に立ち直れたわけではない。園田の説得で持ち直せはしたがそれだけで切り変えられるほど割り切れる性格でもない。

 しかしそうやって悩むことこそがあなたらしさなのだと言ってくれたから。

 だから諦めずに立ち向かう。


「親の元でこそ幸せに、だって……?」


 ここしばらくの園田を思い出す。

 幸せ? それが本当だとしたら。


「それがもし本当なら! みどりはもっと笑顔になれたはずだ!」


『何……?』


「最近、みどりは全然笑わなくなったよ。いつも顔色を青くして、思い悩んで、それでも誰にも相談できなくて。目の下にクマまで作ってるし、腫れぼったい目のまま登校してきた日もあった」


 父親からの電話ひとつでどれだけこの少女が苦しんだか。

 それが幸せだというのなら。この世に幸せなんていらないと神谷は思う。


「あなたのやってることはただの押しつけだよ。自分がそうしたいからってだけでこの子のことが全然見えてない。この子が本当は何を必要としていて、何を恐れているのかを考えもしていない」


 本当はこんなことを言う資格はないのだろう。神谷が今やっていることだって押しつけだ。自分がそうしたいからやっているだけだ。

 それでも他ならぬ園田のために、この男を否定する。

 自分が辿っていたかもしれない未来を否定する。

 園田が隣にいてくれる限り、自分はこうはならない。それだけは信じられるから。


「あなたは間違ってる。もうこの子に……みどりに関わらないでほしい」


『な……そうは言っても、親がいなくて子どもが生きていけるはずがないだろう』


 確かにそうだ。

 園田は今も、少なくとも経済的に庇護されている。

 それは否定できない。

 

「そうだね。でもきっとこの子は大丈夫」


 だってあんなに必死になって、命を懸けて助けてくれたから。

 園田みどりはそんな強さを持った人間だから。

 その行動の由来はどうあれ、それだけは事実だ。


「みどりはね。あなたが思ってるよりずっとずっと強い子だよ。あなたに守ってもらわなくたってたくましく生きていける」


 それでも、生きていくうえで何が起こるかはわからない。

 これからまた彼女が折れるようなことがあるかもしれない。

 しかし、だからこそ。


「でも、もしもそれができなかったとしたら――わたしがずっと一緒にいるよ。わたしが隣にいて、ずっと支え合って生きていくよ」


 一人では駄目でも、二人ならなんとかやっていけると、そう信じられる。

 もしかしたら現実を知らない子どもの戯言かもしれない。

 世界はもっと冷たく険しいのかもしれない。

 だが今の神谷には、この子がいれば、わたしがいればきっと大丈夫……そう思えるのだ。

 

 そして、しばしの静寂が訪れた。

 音を発しなくなった受話器に神谷が不安を感じ始めたころ、


『……ああ、そうか。そう言えば――面と向かって間違っているなんて言われたのは初めてかもしれない』


 電話口から聞こえたのは、なにか憑き物が落ちたような声だった。

 決定的に声色が変わったわけではない。だが今までとは確かに何かが違っていた。


『そうか……そうだな。一年も離れていればそれはそうか。友人にそこまで言わせるようになるか……』


 すまないがみどりに代わってくれないか、と言われたので素直に受話器を園田に渡す。

 何やら二言三言交わしたかと思うと、会話は終わったようで、園田は受話器を置いた。


「え、もういいの? なんて言ってた?」


「それが……帰ってこいとはもう言わないと。お前のしたいようにしなさいと、あと……」


「あと?」


「友達を大事にしなさい……と言ってました」


 余りにもあっけない最後に、一気に力が抜けてしまい神谷は後ろに倒れ込む。


「……もしかしたら、お母さんがいなくなったことに、何か思うところがあったのかもしれませんね。だから暴力がいけないことだと気付けた。あの人はただ寂しかっただけなのかも」


「ふんだ、知らないもんそんなの。わたしあの人嫌い。大嫌い」


 例え事情があったとしてもしていいことと悪いことがある。

 子どものようにへそを曲げる神谷に、園田は口元に手を当て上品に笑う。


「ふふ、私もです。……それにしてもまた助けられちゃいましたね」


「ううん、独りよがりだったよ、わたしは。自分のことを棚に上げて色々言っちゃった…………」


「でも私は救われましたよ。経緯はどうあれそれが結果で、それが事実です。……これは沙月さんが言ってくれたことですよ」


 そう言う園田の顔は、眩しいほどの笑顔に彩られていた。


 何かが本当に解決したわけではない。

 園田の母はいなくなったし、父もまた本質的に変わってもいない。

 しかし、園田みどりはこれから前を向いて歩いていけるだろう。

 だからこの笑顔を守れたこと……ただそれだけで喜んだっていいと、神谷は強く思った。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る