11.おとなとこども
「お、神谷じゃないか。お帰り」
授業が終わり、寮に帰ってきた神谷を出迎えたのは寮長の
学生時代のものと思われる着古したジャージに身を包み、長い髪を雑に一つに縛っているが、美人なので無駄に様になっていた。掃除機を持っているところを見るに、今しがた掃除が終わったところらしい。頬や額に汗が張り付いている。
まだ春とはいえそれなりに気温は高いし、掃除は意外に重労働だ。動けば暑いし汗もかく。
「ただいま、です」
神谷は控えめにぺこり、と会釈する。
いい人、だと神谷は思う。親しみやすく、面倒見もよく、緩くはないが厳しすぎない態度は寮生からも大変評判がよく、親しみを込めて『優莉ちゃん』と呼ばれていた(本人はあまりよく思っていないようだが)。
北条はいつもひとりでいた神谷をよく気にかけていた。何かにつけて用事を頼んだり、それにかこつけて神谷と会話する機会を作ったり。神谷も彼女が自分のことを気にかけてくれているのはわかっていた。
ただ、以前の神谷はそれを半ば拒絶していたこともあって――はっきり言ってしまえば態度が悪かった――今では気まずいの一言だった。光空と同じように歩み寄るべきだというのは神谷自身わかっているが、急にはまだ無理だった。
足早にこの場を去って、さっさと部屋に戻ってしまおう。そう思った神谷だったが、
「ちょっと手伝ってほしいことがあるんだけど、今いいか?」
からっとした笑顔でそんなことを言う北条。
(この顔で頼まれると、なんでか断れないんだよね……)
はあ、と聞こえないようにため息をつく。こういう人好きのする表情も周りに好かれる素養なのだろうか。
せめてもの抵抗としてうんざりとした表情を作って向き直る。子どもっぽいな、という自覚はあったが北条の前ではなぜか少し幼くなってしまう神谷がいた。無意識に甘えているのかも、なんて思う。
「いいですよ、なんですか」
「食堂の蛍光灯が切れかかっててな。替えを倉庫から持ってきたいんだ。探すのを手伝ってくれないか」
「ああ……」
そういえば、と思い出す。
数日前から確かに蛍光灯がひとつ点滅していた。
替えるにはあれから少し時間が経ちすぎているなとも思うが、北条は何かと忙しい身らしく、しばしば寮を空けることがあった。それでもいない間に問題を起こす寮生がいないあたりはこの学校の生徒の、ある種の育ちの良さが出ていると言える。だからこそ北条も安心して寮を出られるのだが。
「わかりました。じゃあ行きましょうか」
さっさと済ませてしまうに限る、という考えからのその言葉に北条は嬉しそうに頷く。
神谷もいろいろ言って、断る気なんて微塵もないのだ。この寮で暮らしているなら、お世話になっていることは確かなのだから。それに報いたいという気持ちだってもちろんある。おくびにも出さないし本人も自覚していないが、神谷は北条のことが結構好きだった。
二人は寮の外に設置された倉庫に着いた。
かなり大きく、倉庫と言うよりは小屋と言った方が正しいようなサイズ感だ。そんなに大きな寮でもないし、それに伴って寮生も大して多くは無いのだから不釣り合いでは? と神谷は思うが実際その通りで、無駄に物が多く管理が大変というのは北条の弁である。
「蛍光灯の場所って目星ついてるんですか?」
ガラガラと横開きのドアを開き、中に入りながら神谷が言う。
「いや全然。替えたの結構前だからな……片っ端から探してくしかないだろうな」
後に続く北条。
その台詞を聞いて、神谷はうへえと辟易しつつ倉庫の中を見回す。
金属製の棚がいくつも置かれている。棚には無数の段ボール箱が雑に収納されていてごちゃごちゃとした印象を与えてくる。窓が一つしかないためか薄暗く、そこから差し込む陽光が宙に舞うほこりを浮かび上がらせていた。
とりあえず一番端にある段ボール箱から手を付ける。
何に使うのかさっぱりわからない雑貨が入っている、蛍光灯はなさそうだ。
次の段ボール箱も覗いてみたが、無かった。
これは思ったより骨が折れそうだ。
「……なあ、神谷」
「なんですか?」
神谷とは反対側に位置する棚を探す北条から呼ばれ、振り向いて答える。
北条は「探しながらでいいよ」と言う。
「お前、最近雰囲気変わったな」
「そうですか?」
反射的にそう答えたが最近の出来事を振り返り、確かに北条の言う通りだな、と考えを翻す。
「……そうですね」
【TESTAMENT】と、光空との和解。それによって神谷のパーソナリティは少なからず変化していたし、本人にもその自覚はある。
「前とは別人みたいだよ、お前。目離したらその隙にころっと死んでそうな感じだったから……今はなんていうか、生きてるって感じがする」
無遠慮にして不躾とも言える物言いだったが、実際そうだったんだろう、と神谷は思う。北条は言葉をオブラートに包んだりはしない。だからこそ、彼女の言葉はいつもストレートだ。そこが寮生から信頼を置かれている理由のひとつだった。
「最近光空と仲良さそうにしてるし、そのへんか?」
「……はい。ずっと彼女には迷惑かけっぱなしだったので……ちょっと話す機会をもらって」
「そうか……良かったな」
光空とのやりとりは以前から知っていたのだろう。気を遣って話に出すことは無かったが――それでもずっと気にしてくれていたのだ。
そんなことにも今まで気づいていなかった。
「……また、これか」
「ん? なんだって?」
口の中で転がした言葉を北条に拾われ、神谷は少し動揺した。
なんでもありません、と言おうとした口を閉じる。
自分の心のうちを言えばきっとこの人は聞いてくれる。少しずつでも自分の考えを打ち明けるのだって歩み寄りじゃないだろうか。
小さく深呼吸して口を開く。
「最近よく思うんです。『今さら気づいた』って」
「そりゃまた、どうして」
「わたしのことを気にかけてくれていた人の行動や気持ちに、ここのところ気づくことが多くて……陽菜もそうなんですけど、北条さんも……話しかけてくれたり、陰ながら見守ってくれてたり、そういうのをずっと自分は見逃してて……見ないふりをしてて。気づけてよかったって気持ちはもちろんあるけど、それ以上に、今まで気づかずのうのうと過ごしていたことが悲しいんです」
ああ――上手く話せない。そう自覚する。長く他人とまともに喋らないからこうなるんだと自嘲する。
わかってもらう気がないとすら取れそうな言葉に自分でうんざりする。だが口が止まらない。
「たぶん今もわかってないこと、たくさんあると思います。誰かの思いやりを徒労にしたことも数え切れないほどあると思います。そんなことばかりだったから、最近『今さら気づく』ことばかりなんだと思います」
話していて、自分が悲しくなった。考えを直接口に出すことで頭の中が整理されたようだったが、かえって自己否定が強まるだけだった。自分がどれほどダメな奴なのかを、他ならぬ自分自身にわからされた気分だ。
「いいんじゃないか」
「え……?」
そんな神谷の考えを、自己否定を――北条の言葉が断った。
「知らないことを知ろうとするには、まず自分が知らないってことを知らなきゃいけない。神谷は今、自分が知らなかったってことを知ったんだろ。なら後は知っていくだけだ」
「知る――だけ」
「今までの自分が嫌なんだろ。だからこそお前は光空に歩み寄ったんじゃないのか。だからこうやって、私に自分の考えを話してくれてるんじゃないのか。そうやって知ろうとしたんじゃないのか」
北条の言葉は畳みかけるようだったが、その声色はどこまでも優しく、神谷の心に染み込んでいく。
「そういうのを成長っていうんだよ。今お前が苦しいと思っているなら、それはいわゆる成長痛ってやつだ。心配しなくていい。みんな少しずつでも、自分のできることからやってくしかないんだよ。それに……」
もし失敗しても助けてやる。
北条はそう断言した。
「……はは」
「どうした?」
頼もしい言葉に、神谷はいたく感じ入って――だからこそ、そんな自分を嘲るように乾いた笑い声をこぼす。
「恵まれすぎてるなって……これでいいのかなって。わたしに優しい人が寄り添ってくれてるからって、それに寄りかかっていいのかって思ってしまうんです。甘えてるんじゃないかって」
今まで周囲に剣呑な態度をとっていた自分が、差し伸べられた手を振り払い続けてきた自分が、今さらその手をとっていいのか。他人の善意を直視してしまったからこそ自分の罪深さが浮き彫りになる。
光空に肯定されてもなお、そんな考えは消えることなく、神谷の心にこびり付いていた。
でも。
北条の言葉はそれを打ち払う。
「甘えればいいんだよ、子どもなんだから。子どもは大人に甘えるもんだ。助けてもらったら素直にありがとうって言えばいい。それでも足りないと思うなら、今度はお前が困ってる奴を見かけたときに、そいつを助けてやればいい」
ああ――敵わないなあ。
神谷は蛍光灯を探す手を止めてほこりっぽい天井を仰ぐ。
「ありがとう、ございます」
こういうことはちゃんと向き合って言うべきだと、そう思ったが――できなかった。
泣いていると悟られたくなかったから。いや、そんな子どもっぽい考えは、北条にはすでに悟られているだろう。
未だ子どもの神谷は、どこまでも子どもじみていた。
いつか大人になれるなら。
きっとこんな大人になりたい――そんな小さな祈りが、神谷の胸に灯された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます