7.救いはあなたとわたしから


「お待ちどう」

 

 ことん、と光空みそらがホットミルクが入った二つのマグカップをローテーブルに置く。長い話になるかもだから、と気を利かせてくれたのだ。

 ちょっと待ってて、と席を外したあとこれを運んできた。きっとわざわざ食堂で入れてきたのだろう。

 マグカップを満たすミルクからふわりと甘い香りが漂う。ハチミツを入れているようだ。以前甘い方が好きと神谷が漏らしていたのを覚えていたのだろうか。

 こういった細かな気遣いを、光空はずっと続けてくれていたのだろうと思う。それに今まで気付かずにいたことが情けなくて、鼻の奥がツンと痛くなる。涙腺弱いなあ、と思わず内心で苦笑する。


「ありがと……」


 神谷は白いリボンのように滑らかに伸びる湯気を立たせているマグカップをおそるおそる口に運び、白い液体を少し口に含ませる。熱すぎなくて飲みやすい。神谷が猫舌だと、光空はいつ知ったのだろうか。


「どこから話そうかな……私と沙月が幼馴染ってのは言ったよね?」


「う、うん……」


 そのことを覚えていない神谷は気まずそうに身を縮こまらせる。それを見た光空は、いいよ気にしなくて、と笑った。

 神谷が自分の記憶に無いのに二人が幼馴染だという話を信じたのは、再会した光空がカガミさんのことを知っていたからだ。小学生の時の友人はおおむね家に招いたことがあり、その時に例外なくカガミとも顔を合わせていた。

 だから、当時多くいた友人のうちの誰かだと思っているのだが――――。


「でも、どうしても思い出せない。光空みたいな子がいたら忘れないと思うんだけど……」


 光空は明るくて友人も多く、いつもクラスの中心にいる。そんな目立つ女の子のことを忘れるだろうか、と神谷は考える。

 眉間にしわを寄せて悩む神谷に、光空はにんまりと笑む。


「じゃあ、こうしたらわかるかな」


 そう言って光空はポニーテールをまとめているゴムをおもむろに外す。明るい色の髪がぱさ、と広がる。そして手で前髪を抑えるようにして無理やり目元を隠した。


「あ…………」


 頭に電流が走ったような感覚がして、思わず声を漏らす。

 あのころ毎日のように会っていた子がいた。同じ学校、同じクラス。見た目が変わっただけで全く分からなかった。

 気弱で引っ込み思案で、長い前髪でいつも目を隠していた、そんな女の子が、


「あ、え、うええ!? 『ひーちゃん』!?」


「うん、そうだよ……久しぶり、『さーちゃん』」


 昔の呼び名を、懐かしい響きを二人は交わす。

 どこからか、あの頃の香りが鼻孔をくすぐったような気がした。




「はい、というわけで私の正体は引っ込み思案のひーちゃんなのでしたー、ぱちぱちぱちー」


 口で言いながら実際に手をぱちぱちと叩く光空。

 神谷はいまだに信じられないというような面持ちでそれを眺めている。

 今までは光空のことを忘れていたのだとばかり思っていた。だがそれは間違いだったらしい。あまりに印象が変わりすぎて『ひーちゃん』と光空陽菜が同一人物だと思えなかったのだ。


「う、うーん……あれから何年も経ってるとはいえ、人って変わるものなんだなあ……」


「沙月がそれ言う? まあ沙月の場合、逆に見た目はほとんど変わってなかったからそこもびっくりだったんだけどさ」


「わたしの発育の話はしないで」


そうやって少しだけ二人は笑い合う。

しかし、神谷にはまだ疑問があった。


「陽菜がひーちゃんだったのはわかったよ。でも……」


 根気強く関わってくれた理由には遠い。幼馴染というだけでは。

 それでなくても中学生の間は会わなかったのだ。光空は小学校の卒業とともに引っ越した――そのことを今しがた思い出した。

 その空白があったからこそ急な変化で気づかなかったのだから。


「……そだね。じゃあ、私から見たさーちゃんがどういう子だったのか。そこから話していこうかな――――」


 そう言って目を伏せた光空はホットミルクを一口飲み、ぽつぽつと話し始めた。


 


 沙月は思い出したと思うけど、私って昔はすっっっっごく引っ込み思案でさ。小学校に入学した時もなかなか周りと馴染めなくて、誰にも話しかけられずに、休み時間は黙々と絵を描いてるような子だったんだよ。人と目を合わせるのが恥ずかしくて、だから前髪を長く伸ばして……。今から思えば、誰もそんな奴に関わろうとしなくたっておかしくないよね。


 でもそんな時、沙月……さーちゃんが話しかけてきてくれたんだよ。私、嬉しくてびっくりしてうまく返せなかったの、今でも覚えてるし、思い出すだけでわーってなっちゃう。でもそれからさーちゃんはちょくちょく話しかけてきてくれて、友達って言ってくれた。それが本当に嬉しかった。


 ……でも、すぐに気づいちゃったんだよね。当時の沙月は……さーちゃんはすっごく明るくて、わけ隔てなく優しくて、いつもたくさんの友達に囲まれてた。だから、私にとっての友達はさーちゃんだけだったけど、さーちゃんにとっての私は、たくさんいる友達のうちの一人なんだって。ちょっと……ううん、けっこう寂しかったよ当時は。仕方ないことだけどね。


 でも、暗い子だった私は当然のようにいじめとか嫌がらせの標的にされたわけなんだけど、そんなときいつもさーちゃんが助けに来てくれたんだよ。覚えてる? ……あ、覚えてない。そかそか。

 私がいじめっ子に詰め寄られてる時に、「やめろー!!」って飛んできて、いじめっ子たちと取っ組み合いのけんかになって、最終的にボコボコにして追い払った後、結局いつもさーちゃんの方がわんわん泣いちゃうんだよね。「こわかったよー!」って。ふふ。


 それがほんとに嬉しくてさ。


 泣くほど怖いのに、どんな相手だろうと向かって行って助けてくれたんだ。

 その姿に私はずっと憧れてた。


 でも小学校の卒業を機に私はお父さんの仕事の都合で引っ越すことになっちゃって、さーちゃんとは中学が離れることになっちゃって……お別れの日、いっぱい泣いたのを覚えてる。さーちゃんも泣いてたね。

 それで唯一の友達と離れることになって、思ったんだよね。


 自分を変えようって。


 明るくて強くて優しくて、いつだってたくさんの人たちに囲まれてる、そんな憧れのさーちゃんみたいな子になろうって。

 まずは見た目から変えた。長すぎる前髪も切って、明るめに染めて、髪型も変えて……。

 いわゆる中学デビューってやつ。


 最初はやっぱりうまくいかなかったけどね。

 でも私にはさーちゃんっていうお手本があったから、次第に友達は増えていって、私自身も本当に明るくなれた。だから中学の三年間は充実してたんだと思う。


 でもまた引っ越すことになって、この街に帰ってきて――この学校に入学した。

 びっくりしたよ。まさかあの『さーちゃん』も同じ学校だったなんて。

 でもそれ以上に驚いたのは……あの明るかった子が、まるで別人のようになっていたこと。


 入学式を無断欠席して、その次の日も病欠して――三日目にやっと登校してきたのを見て愕然としたよ。いつだって笑顔で、光を放っているようだったさーちゃんが、今にも死んでしまいそうな顔をしていたんだから。


 放っておけない、って思った。

 絶対に。




 そこまで一気に話した光空は、冷めかけのミルクをぐいと喉に流し込み、一息つく。

 今聞いた内容は、神谷も知っている部分はあったが、大半は衝撃的な内容だった。

 少し頭の整理がつかず、目を閉じ眉間を指で押さえる。


「ちゅうがくでびゅー……そっかあ……デビューしちゃったかあ」


「だめ?」


「ううん、いいと思う……でもなんで会ったその日に自分が『ひーちゃん』だって言ってくれなかったの?」


 そんな神谷の問いに光空はにやりと笑い、


「言ったとして、当時の沙月が聞いてくれた?」


「あ…………ごめん」


 そんな風に軽口まで叩き、からかうようにくすくす笑う。昔の光空にはこういったことはできなかった。

 

 ここまで変わるのに、それだけ努力したのだろう。

 神谷には、今から昔のように振る舞えと言われても到底不可能だ。


「すごいよ陽菜は。わたしにはとてもできそうにない」


「違うよ」


 喜びと、羨ましさと、少しの嫉妬を含ませた言葉を即座に否定され、神谷は思わず光空を見る。

 光空もまた、泣き笑いのような表情で神谷を真っすぐ見つめていた。


「沙月がいたから頑張れたんだよ。いつも助けてくれたさーちゃんがいたから憧れて、そうなりたいって思って、だから今の私はここにいる」


「陽菜…………」


「だから一年前に再会したとき、私がなんとかしなくちゃって思った。さーちゃんにもらったものを、今度は私が沙月に返す番だって」


「わたしが……あげたもの」


 呆然とした神谷の問いに、そうだよ、と光空は笑顔で頷く。


 ――――ああ。そっか。


 神谷は一つの答えを得る。


 一年前、カガミが失踪してからずっと神谷は無意識に自分を呪い続けていた。

 『きっとカガミさんがいなくなったのはわたしのせいなんだ』……そんな思いを抱いて、これまでの自分を――カガミがいたころの自分を忌み嫌っていた。それは嫉妬も混ざっていたのかもしれない。きっと幸せだったころの自分自身を、神谷は妬んでいた。

 『カガミさんが消えた元凶であるわたし』――その存在を、自己を否定し続けていた。

 そんなことに今さら気づく。

 プラウに遭遇したあの時。死んでもいい、なんて思ったのはそういう意思があったからなのかもしれない。自分なんて死んでしまえと。


 でも。

 そんな自分でも、今目の前にいる光空陽菜という少女に少しでもいい影響を――いまや無二の存在である彼女を形づくる一部に、以前の自分がなれたというのなら。

 あの頃の自分を、少しは肯定できるかもしれない。


 視界が歪む。目頭がかっと熱くなる。


「ああ、ごめん、また泣いちゃってるわたし……」


 先ほど流したはずなのに、後から後から溢れてくる。

 光空の言葉でどうしようもなく救われてしまった。

 喉の奥が熱い。胸が震える。顎を伝って、雫がいくつもいくつもテーブルに落ちる。


「泣き虫。治ってないんだね」


 そう言う光空の目尻にも光るものが浮かんでいた。神谷は恥ずかしくて、うっさい、と悪態をつく。

 静かに洟をすする。言っていないことがあるのを思い出した。これが一番大切なことだ。


「……ありがとう、陽菜」


「うん」


「わたしを覚えててくれてありがとう。わたしをまた見つけてくれてありがとう。わたしといてくれてありがとう」


 さっきまで、謝るばかりで感謝を伝えていなかった。胸のうちから溢れる思いをそのまま口にする。

 そのほうがきっと伝わると思ったから。


「これからもどうか、わたしと友達でいてください」


「こちらこそ!」


 光空は即答し、神谷の手を握る。

 お互いに嬉しそうに笑う。重なった二人の手は同じ温度を持っていた。






 

「……で、どうする? 私たち、さーちゃんひーちゃんって呼び合う?」


「はずいからやめとこ」


「確かに。やめとこやめとこ」

  

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