二章

6.最初の一歩は何より重く

 

 神谷沙月(かみやさつき)は悩んでいた。


「うーん……」


 先ほど気を失った園田みどりを、なんとか背負い、えっちらおっちら彼女の部屋に運んで寝かせた後だった。

 それは同年代の中でもかなり背が低い方の神谷にとってかなりの重労働で、思った以上の疲労を感じていた。園田が特別大きいというわけでは決してない。神谷が小さいだけだ。


「うーーーん…………」


 それが終わって、神谷にまず立ちはだかった問題は――――光空陽菜に謝る、ということだった。


「うーーーーーん………………」


 ひたすらうんうん唸り続ける。

 ただ謝ればいいというわけではない。一年間にわたって気にかけてくれた子を無下にし続けてきたのだ。それ相応に報いなければいけない、と神谷は思う。はっきり言って取り返しがつかないんじゃないかとは思うが、それでも。


 ただ具体的にどうすればいいのかがわからない……。

 今まで取ってきた光空への態度を、神谷はふと思い返してみる。


『沙月ー! 今日部活ないし一緒に帰らない?』『無理』『そっかあ……』

『沙月ー! 一緒に学校いこ!』『やだ』『ええー……』

『沙月ー! そろそろ名前で呼んでよ』『は?』『ご、ごめん……』

『沙月ー! お昼食べ『遠慮しとく』せめて最後まで聞いてから断ってよお!』


 愕然とした。


「え、わたし酷くない……? 人の心が無いのでは……」


 いやでも、最近は少しずつマシになってたような気も……などとぶつぶつ自分に言い訳をする。

 これは何をやっても許してくれないんじゃあ……と悪寒に襲われぶるぶると震える自らの身体を思わず抱きしめる。

 いくらなんでもこれはない、と思う。

 普通は頑張っても、二度三度こんな態度を取られたら離れていくだろう。

 それを一年間。光空陽菜という少女はめげずに神谷に関わり続けてくれていた。


「あの子、なんでそんなにわたしの事…………」


 自室の天井を仰ぎ、そんな言葉を吐き出した。



 寮の扉が開く音がし、一階の方が少し騒がしくなる。運動部員が帰ってきたようだ。

 ぴくん、と反応した神谷は立ち上がり、部屋の中を落ち着きなくうろうろする。

 すでにチャットアプリで『部活が終わったらわたしの部屋に来てほしい』と連絡は入れてある。

 心の準備はしていたはずなのに、いざその時になると緊張で落ち着かない。喉がからからに渇く。

 うーだのあーだのと唸っていると、こんこんこん、とドアが三回叩かれた。


「沙月ー? 入っていーい?」


「! あ、は、はい! いいよ」


 慌ててベッドに座る。

 するとドアを開けて光空が入ってきた。あぐらをかいてカーペットに座る彼女からシャンプーがふわりと香る。学校の部活棟ですでにシャワーを浴びてきたのだろう。


「それで、どうしたの? 沙月が私を呼ぶなんて珍しい」


「う、うん……えっとね……」


 落ち着きなく指と指を遊ばせ、俯きながら神谷は口ごもる。

 謝るしかない。謝るために呼んだのだ。ここで何も言わず終わらせてどうする。

 それでも、唇は震え、まともに開いてはくれない。


 どうしよう。


 そんな臆病な想いが神谷自身の邪魔をしていた。

 謝るしかないんだ、口を開け、声を出せ!

 そう心の中で必死に叫ぶ。

 だけど、失敗したらどうしよう、という考えがそれを遮ってくる。


 やめてしまえ。


 このまま今日のことも今までのこともなあなあで流して、これまでと同じようにぬるい関係を続ければいいじゃないか。

 光空が差し伸べる手に目もくれず、その献身に密かな優越感を抱えて自分の殻にこもっていればいいじゃないか。

 これ以上自分が傷つくなんてまっぴらごめんだ。それなら光空が傷ついたまま――――



(――――なんてのは、もう嫌なんだよ)



 ほだされたくない、なんて嘘だ。

 仲良くなりたくない、なんて嘘だ。

 好きになりたくない、なんて嘘だ。


 だってとっくに大好きだった。


 自分がどんなに拒絶しても、それで確かに傷ついてしまっているはずなのに、また明日と言って別れ、次の日にはまた笑顔で手を差し伸べてくる。

 最初は疑った。何か裏があるんじゃないかと疑った。

 でも、そんなものはなかった。光空が自分に話しかけるたび、彼女は奇異の目で見られていた。憐れまれることだってあった。いいや、それ以前に彼女を見ていればわかった。裏なんてものは、どこにもないということが。

 光空陽菜は何があっても自分を貫くことをやめなかった。

 この一年間、神谷に手を差し伸べ続けることをやめなかった。

 そんな彼女のことを好きになっても、おかしいことは何ひとつない。

 

 …………いや。これもおそらく嘘だ。

 一年前、神谷が絶望の底に横たわっていたあの時。

 

『久しぶり!』


 そう声を掛けてくれたあの瞬間、きっともう神谷は光空のことが好きになっていた。

 でも、だからこそ。

 再び得た繋がりが、もし途切れてしまったら。

 それが恐ろしくて、自分から彼女を拒絶した。

 失いたくなかったから。

 いつか失うかもしれないなら、最初から無かったほうがいいから。


(でも、それは間違いだった。本当に失いたくないのなら、もっと他にやるべきことがあったはずなんだ)


 そんなこと、本当はわかっていたはずなのに、ずっと逃げていた。

 大丈夫、覚悟は決まった。

 すう、と一度深呼吸。なけなしの勇気を振り絞り、意を決して口を開く。


「今朝はあんな嫌な態度とってごめんなさい。それと、今までわたしのこと気にかけてくれてたのに、拒絶ばかりしてて……本当にごめんなさい……!」


 誠意をもって謝る。報いることができなくとも、これだけは絶対にしておかなければならないことだった。

 目を硬くつむったまま、しばしの時が過ぎる。光空は何も言わない。時間の流れが遅く感じる。

 そして、神谷の体感では数時間、実際の時間では数秒がたった頃。


「…………た」


「え?」


 不明瞭な発音に思わず顔を上げると、光空は笑っていた。


「なーんだ、よかったー!」


 そんな風に、笑って言うのだ。


「え?」


 神谷はわけがわからずもう一度聞き返す。自分の謝罪に対して、なぜそんな風に返すのかが分からなかったからだ。

 怪訝な顔をしていると、光空は笑顔のまま眉を下げる。


「今朝さ、沙月を怒らせちゃって……ずーっともやもや考えててさ。どうやって謝ろうって。そしたらいきなり呼び出しメッセージくるじゃん? もしかしたら、とうとう本気で嫌われちゃったかなって、絶交とか、されちゃうのかな、とか」


 怖くてさ。

 明るい声音だったが、その語尾が明らかに震えていた。前髪を指で引っ張り、顔を俯けたその口元には笑みが浮かんでいる。

 隠された目元から、雫がひとつ落ちるのを神谷は見た。



 胸が締め付けられるようだった。

 ずっとこの子はこんな風に考えていたのか。陽気な風を装いながら、内心ずっとおびえながら。嫌われてるかもしれない、なんて思いながら。

 それなのに――わたしが引きこもっていた『かわいそうなわたし』という殻を叩き続けてくれていた。

 わたしが今日感じていた怖れを一年間も抱えながら、それでもわたしに関わることを諦めなかった。

 それはどんなに苦しいことだっただろう。


 ちがうんだよ。わたしが、わたしが悪いのに――――



「ごめんなさい、ごめんなさい陽菜……! 全部、ずっと、ごめん……」


「……沙月……? 泣いてるの……?」


 涙とともに、言葉が溢れる。

 罪悪感で絞め殺されそうだった。胸がいたい、いたい、いたい――――。

 プラウとの戦いで受けた傷よりよっぽど痛かった。

 泣いているところを見られたくなくて顔を伏せる。

 そうしてしばし嗚咽を漏らしていると――ローテーブルに置いた手が温かいものに包まれる。


「……?」


 驚いて顔を上げると、手を包んでいた温かいものは光空の手だった。ぎゅう、と握るその手は太陽のような温かさで、冷え切っていた神谷の手を緩く溶かしていく。


「いいんだよ。今朝のことは私も悪かったと思うし――それに、こうして沙月の思ってることを聞けたから」


 そういって微笑む。その顔にはもう憂いは見当たらない。

 そんな光空をみた神谷は、ひとつ聞きたいことがあったのを思い出した。


「でもなんでここまでわたしのこと気にかけてくれたの? 自分で言うのもなんだけど、結構ひどい態度取ってたと思うよ、とくに最初の方は……」


 目すら合わせなかった。そのように記憶している。

 それを聞いた光空はしばしの逡巡のあと、


「ちょっと長い話になるかもだけど、聞く?」


 前髪を指で引っ張りながら、神妙な表情で呟いた。


 神谷は是非もなく頷く。

 光空陽菜という少女に向き合いたい。彼女を知ることがまずその第一歩だ。  

 そう思った。

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