第13話 この瞬間を
しばらく坂江家の二人とは会えず、久々の食事だった。秋の涼しさは徐々に冬の風を感じさせるようになり、鱗雲も見えなくなった空は静かだった。まだ防寒具を着る季節でもないが、もこもこのジャンバーでそわそわする奈緒実は、智宗を見つけると一目散に駆け寄った。
「智宗さん!」
「ナオちゃん久しぶり!大きくなったなあ!」
「そんなに経ってないよう!あれ、なんだかこげくさいよ」
智宗に抱きつくと身体にこびりつく異臭に気付いた。彼はちょうど、特強の備品となった自衛隊89式小銃と押収M16A1小銃の実射訓練を終えてきていたところだった。89式は元々特殊武装班の物だったが、敵の武装強化に伴い各分隊に一挺配備され始めた。服を着替えてもなお5.56mm小銃弾の硝煙が残っていることに驚いた。
「ごめんね、モデルガンが趣味で、それは火薬を使うおもちゃだから。さっきまで遊んでたからその臭いかも」
下手な嘘だが、奈緒実は解ったような解らないような顔で頷いた。眞衣子はなぜ智宗の身体から焦げ臭い体臭が漂うのかなんとなく判っていたが、言及せず彼の手をとった。
「智宗くん久しぶり」
件の授業参観以来二人は手を繋ぐようになっていた。奈緒実の夏休み中は全然会えず、次に会ったのがシーズン終わった海辺を歩いている時。眞衣子はいとも容易く、それが当然であるかのように指を絡ませてきた。素直に喜べず、彼女に男がいるという懐疑してしまったからなのか、また栗本の死があったからなのか、浜辺に打ち上げられ干からびるクラゲの虚しさがより心を内気にさせてしまっていた。愛おしいという感情を飛び越え、まるで慣れているかの如く手を強く握り返した。
「智宗くんの手あったかいね」
「真冬でも汗かくくらい体温はあるから。むしろマーちゃんの手が冷たくて気持ちいい」
「智宗さん、ナオもナオも!」
奈緒実も智宗の手が収まっているポケットに小さな指を忍ばそうとした。握ってやると川の字の中心、眞衣子を車道側に歩かせるのが申し訳ない。
「俺車道側行くよ」
「気にしないで。私も智宗くんの手を握ってたいから」
絡む指が体温を求めて動いた。隙間なく包まれた掌が体温を打ち消し合って血管中を互いで満たした。
智宗はアマートで見た眞衣子の後ろ姿が想像上で重なるのを必死で抑えた。かき消そうとすればするほど、彼女のコートは派手なドレスに変わっていく。嫌な妄想の爆発は奈緒実の存在によって辛うじて留められた。
「・・・あいすたべる」
「もうお腹いっぱいでしょ?その辺にしておきなさい」
「やだあ、あいすぅ」
焼肉屋の食べ放題、奈緒実は十分元をとってなおデザートを所望した。だが満腹となった身体は睡眠を求めていた。
「後で買ってあげるよ。そろそろ行こうか」
「・・・」
「寝ちゃったね」
「会計済ましてくるよ」
「ううん、アイス頼もう」
「でもナオちゃんが」
「この子には後で買ってあげよう。智宗くんともうちょっとお話ししたい」
「別にいいけど」
注文したバニラチョコそれぞれのアイスクリームはすぐにきた。眞衣子はバニラアイスにちっともスプーンを入れず、焼網の横、余熱で溶け四角の皿に流れた。
「アイス、溶けちゃうよ」
「智宗くん、私たち、仕事の話を全然しなかったね」
智宗がスプーンを口に運んだ時だった。彼女の言う「仕事」で身体が固まり舌にスプーンの苦味が染み始める。唇から抜いたスプーンは磨き抜かれたように光り蒼ざめた自分の顔が映った。
「仕事、そうだね。俺の仕事はつまらないことだから」
「そうかな。あの火薬の臭い、仕事で火薬を扱ってるからじゃなくて?」
「さっきも言ったけど、火薬の臭いはモデルガンの趣味があるから」
「モデルガンはお父さんがやってたからどんな物なのか知ってる。実弾よりずっと少ない火薬が詰まったキャップを弾に入れて撃つの。智宗くんほど激しい臭いはつかない。実銃使ってるんでしょ?」
「・・・」
「智宗くんが特強やってること知ってる。巷でヤクザ屋さんとよく銃撃戦してる特強さん」
智宗はスプーンを落とした。皿で弾ける金属音が耳に痛く響いた。この世で一番知りたくないことを知ってしまう会話になることは理解している。それに智宗の口から溢れようとする言葉は特強の秘密事項でもあった。だが彼には抑えられなかった。二人の手前では止していた煙草を出し灰皿を引き寄せた。智宗がライターを出すより早く眞衣子は煙草に火を点けた。手慣れた動作が心に張り付く。
「アマート、そこにマーちゃんはいるの?」
「そこまで調べがついてるんだ。私はアマートで働いてる」
「知らなかった、と言いたかった。でもマーちゃんの姿をそこで見てしまった」
「智宗くんも来てたんだ。じゃあ念入りに変装してたんだね」
「マーちゃんも名釜会?」
「だったらどうする?」
「俺は君を連れて行かなきゃならない」
「もうちょっと待って。いや、私を連れて行くことはできないかな」
「名釜会なのか⁉︎」
「続きは家で話すよ」
智宗はテーブルを鳴らして席を立ちレジに伝票を叩きつけた。会計を済ませると戻り奈緒実を背負って店を出た。燻る煙草とほとんど溶けきるアイスが残され三人を見送った。
奈緒実をなぜかリビングのソファーで寝させ、和室の寝室で待つように智宗は言われた。布団が二枚敷かれていて、枕元にはオーディオとウィスキー瓶が置かれていた。廊下の先から聞こえるシャワーに耳を塞ぎ自分のメッセンジャーバッグを開けた。財布と捜査官手帳、手錠に10発の予備弾が閑散とし、腰からインサイドホルスターごと拳銃を抜き中に入れた。部屋の隅に鞄を投げ煙草とライターをポケットから出した。その二つを置いた場所の横、一枚のCDがあった。拾い上げてみるとFrank Sinatraの文字、二〇世紀末に故人となった彼の微笑みが白リボンのソフト帽と共にあった。
「アルバム、聴く?」
似合わないバスローブを纏い眞衣子が扉を開けた。彼女はグラスが二つ並ぶ盆を持ち、明かりを枕元の間接照明だけにするとウィスキーを取った。智宗はケースを開けオーディオにCDを挿入した。
「マーちゃん酒飲むの」
「家ではたまにね。お店ではよく飲まされるけど」
「ウィスキーだなんて。強いんだ」
「智宗くんは飲めるの?」
「そこそこ」
「乾杯しよ」
グラスの三分の一位にウィスキーを注ぎ眼前に掲げた。智宗もそれに倣い、凛と軽い音、シナトラの甘い歌声に重なった。
「乾杯」
「乾杯。でも何に?」
「私たちが、ここにいられることに」
眞衣子はひとくち口をつけ、智宗は一気に呷った。空になったグラスになみなみと注ぎ直し、腹の底に熱さを感じた。
「強いね」
「どうなんだろうね。酒は好きだ」
「特強さんもよく飲むんだ」
眞衣子は智宗の横に並び肩をもたげた。小さい肩をどうしようかと腕を宙に浮かせていたら、眞衣子が手を取って自分の肩に置いた。抱き寄せるとドライヤーで乾かされたばかりの髪が鼻先に香った。
「私ね、名釜会の構成員じゃない。でも繋がりがある」
「どんな?」
「私高校からいなくなったでしょ。お父さん名釜会にお金借りて事業してたんだけど、失敗しちゃって。私は借金の肩代わりに囲まれることになっちゃった。当時の若頭、現会長名倉闘也の情婦、それからアマートの従業員として」
「じゃあ、ナオちゃんは」
「名倉との子。私を初めて抱いた時避妊してなかったのね。でも産まれたナオちゃんのことは私の子として愛してる。名倉に全然似なかったのが救いね」
「名倉は、君の彼氏なのかい?」
「そんなわけない。ただの情婦、それも数多くいるうちの一人」
「名倉は、マーちゃんと再会した時迎えに来た男だね」
「そう」
「マーちゃんを特強に連れて行く。被害者として」
眞衣子の男の影の心配は名倉への敵意に変わった。本当は、眞衣子を抱いたはずの客にも敵意を向けたかったが、当たり前に顔を思い浮かべることができない。カフェで見た名倉の顔はありありと鮮明に膨れ上がった。
立ち上がろうとするのを眞衣子が抑えた。
「待って。行かないで」
「なぜ?」
「今日この夜だけ、一緒にいて。きっと最後になるから」
「なんで最後なんだ。これからずっと一緒だ。マーちゃんを被害者として申請する。当然のことだ。名釜会を滅ぼして、君は俺が守る。ずっと一緒にいよう、マーちゃんが好きだ!」
眞衣子を抱きしめるとグラスが倒れ、畳に流れて光った。震えるのは智宗で、急に湧き上がった激情が涙を流させた。眞衣子は優しく腕を回し首筋に頬を押し付けた。
「私も智宗くんのことが好き。高校の時から、智宗くんと一緒に生きたいって思ってた。だからキミと再会できたことが、とても、とっても嬉しくて」
「マーちゃん、結婚してくれ」
「結婚して、ナオちゃんとも一緒に家庭を築くことをずっと夢見てた。だけど、ダメね。もう」
「愛してる、マーちゃんを愛してる。俺は、マーちゃんを」
「抱いて、智宗くん」
眞衣子は智宗を離しバスローブの紐を解いた。彼の涙は止まり服を脱ぐ一手一手に視線が釘付けとなった。視覚として受け入れた眞衣子の裸体は高校時代の彼女として変換され、ときめきが心臓を混ぜっ返し、そして抉った。
「今これからが、私のファーストキス、それから初体験。なんだっけ、カサブランカでボガートが言ったセリフ」
「君の瞳に乾杯?」
「そっちの翻訳じゃなくて」
「・・・この
「好きだよ、智宗くん」
智宗に唇が与えられた。何年も夢見た瞬間だった。名釜会のことも特強のことも忘れ去り、隣室で眠る奈緒実のことすらも頭から消えた。それでいて心に吹く寒い風はなんなのか。
これが終礼の向こう側なのか?ほんとうに俺はそこに来れたのか?幻なのか?喜劇になるのか?悲劇になるのか?シナトラがAs Time Gose Byを歌ってる。カサブランカのはドーリー・ウィルソンが歌ってるが、別れの歌じゃないか。ボガートとバーグマン扮するリックとイルザの。彼らはキスを残して別れた。俺たちは?
智宗は服を脱ぎながら錯綜と心の風を考えた。自分と眞衣子を取り巻く危機というのを具体的には思い浮かべず漠然としていて、しかし眞衣子に愛撫を繰り返しているうちそれも消えた。
眞衣子は仕事の関係上床上手とならざるを得なかったが、智宗と繋がることにおいて技術は必要なかった。彼はお世辞にも上手いセックスをするとはいえないが、眞衣子は燃えて燃えてしかたなかった。智宗のカタチそのものが体内だけでなく身体全てを悦ばせ、絡む舌の動き、ぶつかり合う腰、これほどの快感が引き出されるものなのかと恍惚とする。自らの運命を悟っての最後わがままだったはずなのに、理性と野性がない混ぜになる感情の奥深くは、寧ろ未来を求めて智宗の子を宿したがっているのかもしれなかった。
智宗は、眞衣子の中で何度果てたか判らない。痙攣と共に注がれる都度眞衣子は仰け反りより深くに智宗を押し当てた。少し疲れたのか、上になっていた眞衣子は出された後挿入したまま彼の胸に上体を寝かせた。軽くキスをすると耳元に唇を当て言葉を吐息に混じらせた。
「ねえ、前も言ったけど、智宗くん、ナオちゃんのこと、これからお願いね」
「愛してる」
「私も愛してる」
ソファで眠る奈緒実が頬を綻ばせた。夢の中、焼肉屋で食べれなかったデザートのアイスを、智宗と眞衣子と三人仲良く山ほど頬張っていた。
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