7話 小さな嘘
小学校というものを卒業してから既に10年以上も経っている。久々に訪れてみるとかつて巨大に見えたものが全て小さく感じられた。
「ありがとうね、来てくれて」
校門をくぐる眞衣子が智宗を見上げて言った。彼女はよそ行きのスーツにタイトスカートで、カジュアルな格好を見慣れた智宗には新鮮だった。童顔には少々不釣り合いな色濃いリップが微笑む。
「勉強してるナオちゃんも見てみたいさ。でも、部外者が授業参観なんて行って大丈夫かな?」
「へーきへーき、智宗くんも保護者みたいなものだし」
眞衣子は智宗の袖をそっと握った。これまで手を握ることのない二人であったが、会う回数が増えてくると時折こうした軽い触れ合いがあった。このスキンシップの経緯は高校の時の焼き直しだった。くすぐられる心に身体が軽くなる。
映画を観た後のアイスクリームショップで、眞衣子は智宗が着る学生服の袖を掴み、背伸びしてショーウィンドウのアイスを選んでいた。その時紅潮した頬に彼女は気づいていただろうか。
教室に入って他の保護者たちに混じると二人は少し浮いていた。大抵の親たちは三十代で占められ、若くて三十手前と思われる母親がいるくらい。二十半ばの二人は若すぎて、智宗は多少老け顔であるが眞衣子の童顔では子どもに映る。慣れているのか眞衣子は、周囲の人々を意に介さないようだったが、智宗は少々肩身が狭かった。
行儀よく座る奈緒実がそっと振り向き、それに気づいた智宗は小さく手を振ってやった。彼女はあわてて前に向き直ると幼い背中をシャンと伸ばした。
「恥ずかしがったかな、ナオちゃん」
「ふふ、嬉しいんだと思うよ。智宗くんが来るって伝えたらすごく喜んでたもん」
授業が始まる。担任の先生は智宗と同じくらい若い女性教師で、スーツを着ているが、いかにもジャージが似合いそうな活発なショートカットだった。彼女は父兄の前であるからか、張り切って授業を行った。赤縁の眼鏡が光る。
「張り切ってるねえ先生」
「新任なんだって。ナオちゃんのお気に入り」
「良い先生らしい、よかった」
算数の授業で、奈緒実はよく手を挙げていた。難しそうな問題も、ちょっと考え込んだふりをして難なく解いた。わざとらしい悩み方に智宗は苦笑した。
授業が終わると奈緒実はすぐに智宗と眞衣子の許へ飛んできた。嬉しそうに智宗に抱きつくと顔をこすりつけて甘える。
「来てくれたんだ智宗さん!」
「うん、ナオちゃんがちゃんと勉強してるみたいで安心した。頭いいんだね」
「えへへ〜そうでもないよう〜」
「宿題もしっかりやってたみたいね。お母さんの心配が一つなくなったわ」
数人の子どもたちが取り囲んだ。奈緒実と仲良しの友達らしく、もじもじしながら挨拶をしてくれた。
「こんにちは」
「こんにちは。ナオちゃんと仲良くしてくれてるの?」
「うん!ねえナオちゃん、この人ナオちゃんのお父さん?初めてみた」
奈緒実に聞いた女の子が勘違いするのも無理なく、彼女が答える前に智宗が「お母さんの友達だよ」と言おうとした。だがそれより早く、奈緒実は笑顔を浮かべて智宗の脚に抱きつき答えた。
「お父さん!初めてみたでしょ!」
奈緒実の言葉に込み上げるものがあった。時折考えてしまう、二人と本当に家族になれたらという妄想。眞衣子の夫のことがわからぬ限りその願いは叶えられないのに、いざ奈緒実に本当の娘のように振舞われると心が締め付けられた。
これまで触れずにいたし、母娘から話されることもなかった夫もしくは父のことを、一度聞いてみようと思った。それがどのような結果を招くかはわからないが。
にわかに沈鬱になる智宗とはしゃぐ子どもたちを眞衣子は黙って見ていた。諦観とも憐憫ともとれる瞳で。
下校時間となった。親子ともに自由下校することになっていて、子どもたちは保護者が連れ立って教室を出て行く。尿意を催した智宗は顔見知りの保護者に挨拶する眞衣子の肩を叩いた。
「ちょっとトイレ。先出といて」
「あら。じゃあ昇降口で待ってるね」
人気の消えた廊下を小走りにトイレへ向かい、素早く用を足すと近くの階段を降りようとした。だが、若い女の声に呼び止められる。
「あの、坂江奈緒実ちゃんのお父さんですか」
奈緒実の担任の先生だった。スーツから赤いジャージに着替えた彼女はやはりその格好が似合っていた。智宗は一礼すると彼女の言葉を否定した。
「奈緒実ちゃんがお世話になってます。でも、あの子の父親じゃないんです。あの子の母親の友達で、塩山智宗と申します」
「そうですか、私はてっきりお父さんかと。申し遅れました、私はナオちゃんの担任を務めさせていただいてる後藤です」
「何かご用ですか?」
「少し気になることがあって。失礼ですが、塩山さんのお仕事は何をなさってるんですか?」
思いがけない質問に面食らう。話題が掴めないまま、どうせ言っても解らないだろうと正直に答えた。
「仕事ですか、特殊強襲捜査官です」
「トクシュ?」
「聞きなれないでしょうが、凶悪犯専門の警察官のようなものです。一応公務員です」
「公務員ですか」
公務員と聞いて後藤先生は明らかに安堵した。お見合いしている訳でもなし、彼女の安心した笑顔の意味は理解できない。
「それがなにか?」
「いえ。ナオちゃんのお母さんとはどこで?」
「元々高校の同級生だったんですが、何ヶ月か前再会しまして。それからナオちゃんとも仲良くさせてもらってます」
「ナオちゃんがお父さんみたいな人ができたって言ってたのそういうことだったんですね」
「お父さんみたいな・・・それで、なんですか、ナオちゃんがなにか」
「いいえ、ナオちゃんはとてもいい子です。勉強も楽しんでいて他の子ともみんな仲良くて。気になるのはお母さんのことなんです」
仕事の話から眞衣子の事。大体の察しはついた。智宗は煙草を取り出そうとする動作を抑え、手慰みに一度洗った手をもう一度洗った。
「あまりにもお家にいる時間が短いようなんです。お仕事が忙しいようなので迎えに来れる時間まで学童保育を申し込むことも提案したのですが、学童が閉まる時間よりずっと遅い時間にしか帰宅なさらないようで。それに、お仕事というのも・・・」
「別になにやってたっていいじゃないですか。風俗だろうとキャバだろうと」
智宗は声を荒らげた。なんとなく、眞衣子のことが全否定されたような気になったのだ。それに滅多に行くことはないが、風俗にしろキャバクラにしろ智宗は好きだった。枯れた生活に潤いを与えてくれるようで。しかし眞衣子がそうであることを一番信じたくないのは自分自身なのも確かだった。身勝手な独占欲もあったが、真っ当にその職を好きで働いているならともかく、いつしかのチンピラのシガレットケースが思い出される。
急にムキになる智宗に後藤は慌てて言葉を足した。彼女の心配も智宗と同じだった。
「そうじゃないんです!お母さん本人からは飲食店に勤めているとしか聞いてないですし、もしそうだったとしても否定する気はありません。ただ、あの人の繋がりが心配なんです」
「荒っぽい声出してすみません。と、言うと?」
「それこそあまり良くない人たち・・・暴力団とか、そういうところと繋がっているのではないかという噂があるんです。顔の知れたヤクザと一緒にいたという話もあります」
「・・・私も覚えがあります。でも、眞衣子はなんだか嫌がってたみたいだった」
「そうですか。だから、なおさら塩山さんにはお願いしたいんです」
「なんです」
「できるだけ、あの二人に寄り添っていてほしいのです。ただそれだけです。それだけできっとナオちゃんもおかあさんも、もっと幸せになれます」
後藤と別れて階段を降りるとそこが昇降口だった。靴を履き終わった眞衣子と奈緒実が振り返って智宗を迎えた。ちょうど下校の終礼も聞こえてくる。その光景に、ブレザー制服を着た眞衣子の姿が重なった。
「あっ、コトちゃん!」
通学路の向こうに友達を見つけた奈緒実はとことこ駆けて行った。コトと呼ばれて振り返ったのは教室で智宗に挨拶してくれた子で、親が眞衣子に会釈した。
「トイレ遅かったけど、お腹でもこわした?」
会釈を返した眞衣子が智宗を見上げて言った。彼は表情を変えないまま半分嘘を言った。
「いや、先生と会った。ナオちゃんのお父さんですかって。マーちゃんの友達って言っといたよ」
「驚いてたでしょ」
「ううん。特には」
「他には何か話した?」
「ナオちゃんがとてもいい子だって、先生は言ってくれたよ。それだけ」
「そう」
素っ気ない返事でまた前を向いた。遠く視線の先に奈緒実が楽しそうにコトちゃんと話をしていた。
眞衣子は軽く唇を噛むと智宗の手を握った。突然の手の冷たさに智宗は身体を硬くさせた。
「ナオちゃん、父親が必要なの。まだあんな歳だと」
「う、うん」
「私たちのそばにいてくれてありがとうね」
智宗は不意に寂しくなった。指を絡ませ、力強く握り返す。眞衣子は小さく震えていた。抱き寄せたい衝動は、彼女に男はいないという確信が崩れ去る証拠でもあった。抱き寄せる代わりに、耳打ちするようにそっと言った。
「いつまででも、俺はマーちゃんとナオちゃんのところにいるから」
夏の始まりだというのにひぐらしが鳴いていた。切ない鳴き声を聞いていると、智宗は二人のこと以外なにもかも忘れていった。明日に控えた任務のことも、なにもかも。
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