5話 甘美

 初夏の日差しが肌を焼くころ、まるで若家族のように三人は仲良く歩く。遊園地は地方にあるとはいえ混んでいた。


「ねえ智宗さん、次あれ乗りたい」


 奈緒実がキラキラ目を輝かせて小さいジェットコースターを指差す。そこも長蛇の列で、待ち時間を書いた札を持つ係員がぼやけて見えた。智宗は汗を拭きながら自分の手を引っぱって走り回る奈緒実にだらしない嘆きを訴える。


「ナオちゃん、あれあんなに混んでるよ。他のにしない?」

「だーめ、みんなご飯食べてるこの時間がまだ空いてるの」

「しっかりしてるんだからもう」

「ナオちゃん、あんまり智宗さんを困らせちゃだめだよ?」

「はあい」


 やっとのことでジェットコースターの順番が回ってくると智宗は奈緒実と眞衣子を隣り合わせに座らせようとしたが、奈緒実は智宗の隣がいいと言って聞かない。娘がボーイフレンドに懐ききっていて嫉妬するのか、そっぽ向いてふくれ面をする様がおかしくて智宗は苦笑を漏らした。


「いいもん、お母さん一人でさみしーく後ろに座ってるから」

「ほら、ナオちゃん。お母さんのとこ行ったら?」

「智宗さんのとなり!」

「そんなに俺の隣がいいの?」

「だって、智宗さんがいいんだもん」


 そう言ってピタリと腕を抱いてくる奈緒実、愛くるしくて仕方がない。

 

 普段は一週間に一度、多ければ二度の智宗による坂江家訪問は季節をまたいで数ヶ月にも及んでいた。眞衣子の男に興味があったからというのもないではなかったが、それにはついぞ会うことなく写真の一枚すら見当たらなかった。今では眞衣子に男はいないものと確信している。

 初めは夕食を供にするくらいだった。眞衣子の帰りは早くとも六時以降がほとんどだったので、手料理は諦め頻繁に高級レストランに連れて行ったりした。智宗は大した給料をもらっているわけではなかったが、使わないため金は余っていた。奈緒実は高級ステーキや中華よりも、彼が気まぐれに連れて行った焼肉を一番喜んだようである。気品さよりも豪快な食欲の方が奈緒実は得意だった。

 そして夏の差し迫ってきた今日、ようやく智宗と眞衣子の休日が合致し初めて丸一日を共に過ごす。


 何年振りかのジェットコースターでヘトヘトになった智宗は、笑う膝を抑えながら改めてアトラクション全景を見ると呆れるように息を吐いた。奈緒実のような子供でも乗れるようなジェットコースターは流石に小さく、こんなものなら昔は軽く乗れたのにとふらつく脚を叩いた。


「大丈夫?智宗くん」


 眞衣子はそっと背中に手を添えてくれる。薄いシャツの上から感じる掌は冷たく、一瞬の清涼感をもたらしてくれた。


 結局、この手を握ったことはまだない。レストランの間接照明に浮かぶ眞衣子の顔は大人びて見え、智宗の心臓を高鳴らすこともあったが、高校時代の笑顔とその裏にあったであろう関知し得ない男のことを思い浮かべてしまい次の一歩を留まらせた。むしろ奈緒実の手を引くことの方がよほど多く、逆にその時は自分が握る手と反対の手を握る眞衣子の横顔にやきもきする。


こうしてると夫婦と子供に見られるのかな


 ふと思って心くすぐられるのが精一杯。


「なんでもないよ。次はどこに行く?」

「お腹すいちゃった。もう昼も過ぎたし、ご飯にしようよ。ね、ナオちゃんも」

「うん!」


 昼食は、ランチを過ぎて人もまばらになったレストランにした。奈緒実が注文したお子様セットのプレートは賑やかだが、彼女の口にかかればものの十数分と経たずに閑散とする。「もう終わっちゃった!」にっかり笑って、まだ食べている最中の母親に口元を拭かれる様は高校時代の眞衣子を思い起こされる。小柄で細身な体格の割によく食べ、それが風邪もめったに引かないという健康の在処ありか。いつも智宗は彼女の食事量に驚かされていた。今ではさすがにそこまでの食欲はないと見受けられたが、娘の奈緒実には順当に受け継がれている。眞衣子と同じくこじんまりとして細身の身体に秘められた元気印の源。

 デザートに店外の売店でクレープを注文した時だった。突如智宗のスマートフォンから普段使わないアラームが鳴った。そもそもマナーモードにしてバイブレーションでしか着信を通知しない彼の携帯端末からアラームが鳴るという事態が異様だった。


「智宗くん、スマホ鳴ってるよ」


 警告ブザーのような音に眞衣子が気づいて智宗に教えたが、彼はあからさまに不快な表情で震える腰ポケットを見た。この音はせっかく今朝から忘れていた忌々しいことを即座に想起させた。無視しようかとも思ったが、この顔をしてしまった以上電話に出なければ怪しいし心配されるかもしれない。完成したクレープを自分の分も一緒に眞衣子に渡した。


「仕事の電話だろう。ちょっとこれ持って待ってて」

「うん、わかった」


 笑顔を取り繕い背を向けると二人から死角となる場所を探した。近くにあったトイレの裏が喫煙所で、丁度二人の視界から逃れられそうだった。


「塩山だ。くたばれ」


 通話ボタンを押すなり智宗は罵倒した。それに答えるのはへらへらとした若い男の声で、罵倒には気にも留めず注意するように言った。


『塩山さん、まずはコードネームからっすよ』

「・・・アホらし。1330‐0107、五十三分隊」

『確認したっす、塩山さん。今日はオフっすよね?』

「デートだよ。俺さんざはしゃいでたんだから知ってんだろが」

『知ってる知ってる、子持ちシングルマザーの若人妻と』

「あーなんでもいいや。ともかく俺は休みだから、若松、貴様の不快極まる声は聞きたくないの。ワカル?」

『僕は美声っすからわかんないす』

「ほーかほーかわからんか、じゃあ死ね。切るぞ」

『はいはい。それより、デートはいいんすけど、ちょっと今日集会が組まれたもんで』

「集会?」


 若松と呼ばれるこの男と話しているうちにイライラしてきて、無意識に煙草を出し火を点けていた。眞衣子と奈緒美のため一日禁煙と決めていた身、急速にニコチンが血管を回りようやく気がつく。


「ちぇ、禁煙失敗したじゃないか」

『そりゃお気の毒。だから普段あれだけ喫うの減らせって』

「普段はいいんだよてめえの指図なんざ聞かんで。今日はデートだから止してたんだ」

『失敗ついでに存分に喫いながら聞いてくださいっす。人身売買並びに銃器不法所持、あと麻薬ヤク取引の例の暴力団案件、進展があるみたいっす』

「とすれば、襲撃か」

『僕たちの組織的には。だから今夜、ミーティングを開くっす』

「パスだ。デートのが楽しい」

『デート終わってからでもいいから来てくださいっす。それとも、朝帰りの予定?』

「馬鹿。何時からだ」

『今夜八時っす』

「行くよ」


 それを最後に通話を切り、ポケットの底が抜けそうな勢いでスマホをしまった。行こうとしたが既に次の一本に着火しており、なんとなく喫っていくことにする。


「やめたくなるぜ、特強トッキョ―


 雲一つない熱い晴天は心に比例するかのように曇り空を形成し始めていた。智宗は不貞腐れたように煙を吐くとひねくれた吸殻を捨ててようやく喫煙所を後にした。周囲の喫煙者は彼の眼光が不機嫌に鋭く光るのを怯えて見送った。

 自身の表情が硬くなっているのには感づいていた。既に自分のクレープは食べ終わって包み紙を捨てている眞衣子と奈緒実を見つけると声をかける前に顔を揉んだ。


「マーちゃん」

「おかえり智宗くん。煙草喫ってきたの?」

「えっいや、トイレも行ったんだけど裏が喫煙所だったから、臭いするかも」

「ふーん、そうなんだ」

「それよりマーちゃん、謝んなきゃいけないことがある」

「なあに、あらたまって」

「今夜のディナー・・・また今度にしてくれないか?」

「ありゃ」

「マーちゃんとナオちゃんには悪いけど」

「仕事?」

「そう。蹴ったってよかったけど、緊急って言われちゃって」

「いいよ、別に。仕事じゃしょうがないもん。また行こ」

「ほんとにごめん」

「謝んないで。埋め合わせはきっとしてもらうんだから」

「もちろん。えーと、次の休みは」

「ねえ智宗くん」

「うん?」

「仕事って、何してるの?」

 





 

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