4話 奈緒実

 ヤクザたち一行が眞衣子を連れて出ていくと周りの客や店員は憚らず文句を噴出させ、智宗と奈緒美は店に居ずらくなる。智宗は会計を済ませ、二人は早々に退店した。


「帰り方、解る?」


 母親が消えて急に不安になるのを耐えているのがよく分かった。元から白いであろう肌をより一層蒼白くさせて、自信なさげにゆっくりうなずいた。


「迷子札持ってるから、おうちはわかる」

「バス?電車?」

「電車。お母さんと乗ったことあるから」

「どの駅で降りるか解る?」

「・・・わかんない」

「ありゃ」

「これ」


 奈緒実が見せるのは迷子札だった。書いてある住所を読むと驚いたことに隣近所で、ひょっとしたら智宗は二人の住まいを幾度となく素通りしたかもしれなかった。だがその最寄り駅に行くには乗り換えがあり、しかも複雑なホームに加え特急、準急などの区別にも気を使わなければならない。小学生が初めて一人で電車に乗るにしては酷な路線である。しかし、智宗も丁度さっきまで帰ろうとしていた身。


「一緒に行こうか?」

「え?」

「マーちゃん・・・お母さんの家と僕の家は近いから、送ってあげるけど」

「・・・・」


 奈緒実は押し黙ってうつむいてしまう。なにも奈緒実を困らせようとして言ったわけではなかったが、まだ智宗のことをよく知らない彼女の警戒心が解けているとはいえない。戸惑うような顔からは察しがつき、彼女は明らかに困っていた。年上の言う事を断るだけの方便はまだ持ち合わせてはいないだろう。「さすがはマーちゃん、娘の教育をちゃんとしてらぁ」と、ひとりちて苦笑いした。


「まあでも一人で帰る方がいいか」


 ふっと息を吐いてそう言ってやると奈緒実は安心したように顔を緩めてうなづいた。あとは一人で何とかするだろう、と、これ以上は構わず帰ることにする。見かけによらず子供好きな智宗は懐かれなくて残念な気がしないでもなかったが。「それじゃあ、お母さんによろしく」最寄りのコンビニで煙草を喫っていくつもりで、奈緒実に手を振り背を向けた。

 ここで奈緒実と別れてしまえば、つながったばかりの眞衣子との細い糸がほつれて二度と戻らないことは解っている。近所とはいえこれまでその存在にすら気づいていなかったのだからこれからも関わることはないだろう。だが智宗はそれをふと思いついただけで、後には未練も次の再会への期待すら残らないことに自分でも驚く。この遭遇自体が唐突なもので、彼の心は終始浮足立っていた。ぬか喜びに慣れすぎた故に、諦めだけはよくなっていた。


「あ、アイス、ありがとうございました」


 背後から聞こえる声にちょこんと頭を下げる奈緒実を想像し、振り返らずに手を挙げた。脳裏に浮かんだ奈緒実は顔を上げると眞衣子に変わりはかなげな笑みを浮かべた。妄想をかき消すように小さく舌打ちをし、あとは煙草の残りを心配した。

 コンビニで残りの二本を吸いきり、新品の煙草を三箱ばかり買って駅に向かった。休日とはいえ時間が時間、駅は遊び帰りの人々で溢れかえっている。大人ばかりのその群れに奈緒実の姿を見つけるのは容易だった。きっと切符の買い方が解らなかったのだろう、右往左往している姿はどことなくコミカルで、忙しい駅員にも構ってもらえず困り果てている表情は今にも涙がこぼれそうだった。


「奈緒実ちゃん」


 背後から声をかけられた奈緒実は先ほどのよそよそしさどこかに吹き飛び、知り合いに会えて安心したのか紡ぎ出す言葉は涙声に詰まる。


「塩山・・・さん」

「切符買えなかったの?」


 答えに代えてこくりとうなづく。とすれば、奈緒実がとる方法は一つしかなかった。


「一緒に帰る?」

「・・・はい!」


 自分の切符は定期があるからともかく、「こども」ボタンを押して切符を買うのは十何年振りかも知れなかった。ここが繁華街であるからか降車する人々は多く、凄まじい人ごみの中を奈緒実の手を引き逆行した。奈緒実は自分が乗ってきた路線の方向は覚えているらしく選ぶ電車の向きは合っていたが、家までの最寄り駅を過ぎてしまう特急に乗ろうとして慌てて留まらせた。やはり智宗の手助けが必要だった。


「お母さん、仕事何やってるの?」


 一つだけ空いた席に奈緒実を座らせると智宗を見ることなく俯き、話しかけるとようやく少しだけ顔を上げた。その怯えるような瞳の奥にこの男への感謝に基づく信頼が淡く、正直に答えた。


「おみせ。夜おそくまでやってる」

「夜遅くって、どれくらい?」

が寝ちゃったあとに帰ってきます。朝も、ナオの朝ごはん作ったらすぐ寝ちゃう」

「どんなお店なんだい?」

「ごはん屋さん・・・って、お母さんが言ってました」


 ごはん屋さんと聞いて浮かぶのは淫靡いんびな想像だけで、おそらくこの空想は大方当たっているはずだった。あのヤクザ風の男の存在と深夜営業、落胆する要素ばかりだった。知るべくもない母親の仕事を気にかけ心配する奈緒実のいじらしい姿に智宗は目を反らした。

 智宗の自宅に着く数ブロック手前に坂江家はあった。小さな家庭向けアパートといったところで智宗のアパートより幾分広くて綺麗なのだが、高校時代の眞衣子が住んでいた大邸宅を思い出すと如何にも彼女が没落したように感じられた。奈緒実は変なところで大人びていて、帰ろうかと思っていた智宗を中に誘いお茶の準備までしようとした。

 

「きたないところですが」

「どうも、おかまいなく」


 夕方の緩い日差しが部屋に差し込み智宗は周りを見渡してみた。綺麗とはいってもゴミ溜同然の彼の部屋と比べるからであって、机の上はチラシと雑誌が散乱し、加えて朝食の名残と思われる食器も二組そのままだった。シンクの中にはそれ以前に使ったとみられる食べカスこびりつく食器と鍋が。奈緒実が冷蔵庫を開け一瞬中身が見えたが、やはり乱雑に食品が置かれなぜかレトルト食品ですらそのアルミパックを不規則に並べられていた。

 奈緒実は透明なグラスに冷たい麦茶を注いだ。まだ客人に出す茶は熱いものが好まれるような季節だったが、こんな小さな子どもは茶の淹れ方も知らないだろう。智宗の前に茶菓子代わりのバタークッキーと共に茶が差し出された。これは智宗の好物でもある、昔からある市販品だった。


「どうぞ」

「ありがとう」


 やたらと濃く作られた麦茶は舌に引っかかるようだった。バタークッキーがこの麦茶に合うはずもないが無いよりましで、それでもせめて牛乳が欲しいところ。智宗がクッキーをかじっている間奈緒実はずっと無言で彼を見ていた。


「あのう・・・」


 智宗は口を開いた。何か特に話題があるわけではないのだが、咀嚼の音しか聞こえないというのは妙に寂しく、夕方の西日が薄暗く差し込む部屋の中では不気味でさえもあった。つまり沈黙に耐えられなくなったというわけだった。「ありがとうね、お茶とクッキー」とでも言おうとしたのだが、それよりも早く、智宗に対して反射的に奈緒実は言った。


「あっ、お茶より牛乳の方がよかったですよね。とっときののクッキーなのに」


 智宗は一瞬きょとんとし、次第におかしさがこみあげてきた。ははは、と軽く笑う智宗に緊張していた奈緒実は拍子抜けしたようだった。


「とっときのクッキー、確かにこれは美味しいからね。奈緒実ちゃんも食べてください。牛乳もらっていいかな?」

「はい!」


 いくらか馴染むことのできたふたり、暗くなるまで談笑し、智宗はクッキーのお礼にとレストランへ連れて行った。子どもは慣れた大人に対してはじゃれついてくる。手をつなぎ夕暮れを歩くまるで親子のようだった。

 ただのファミレスだったが、奈緒実はとても楽しんだようだった。そもそもあまりこういう場所に行くこともなく、食事は夜遅く眞衣子ととるか一人で作り置きかインスタント食品で済ませるようだった。ドリンクバーに並びはしゃぐ子どもたちの後ろでそわそわグラスを握る奈緒実の姿は痛ましくさえ映った。

 せめて眞衣子が帰ってくるまで居てやりたいと思った智宗は、先に一度奈緒実を家に送り届けて自宅から未開封のゲーム機を持ち取って返した。暇つぶしにでもなればと買った物だったが結局やる気なく捨て置かれていたもので、それでも最近買った新品。奈緒美にそのままプレゼントするつもりである。再び坂江家のチャイムを鳴らすと、パジャマ姿にバスタオルで髪から水滴を飛ばす奈緒実が出た。「塩山さん!」彼女は手を引き歓迎した。

 


「んーあ。飲まされた・・・」


 コートの襟を鼻先に寄せ煙草の強い臭いに顔をしかめる眞衣子、癖のようにと舌を出す。加えて響く欠伸、アルコール臭の充満する口腔でさらに不快になる。

 あの後智宗はどうしたのかと思った。奈緒実の帰宅については、何度か娘を電車を用いて件のカフェに連れてきたこともあり、ならば帰り道も判るだろうとタカを括っていたのだが、ぽつんと残された智宗も入れた二人は奇妙な光景だった。そして彼に自身の痴態を目撃されたのが後悔。あんなヤクザ風の男と繋がっているだなんて、印象が良いはずがない。彼との再会は望んでいた希望であったが、タイミングは最悪だった。せめて雇主チンピラさえ現れなければ。

 腕時計見ると既に日付を越しており、奈緒実は寝ているはずと久しく干していない布団を思い浮かべる。だが玄関まで来ると明かりが漏れていることに気がついた。特に物音が聞こえるのでもなし、不審といえば不審だが奈緒実が消灯し損ねて寝ていたこともあって気にならずに戸を開けた。

 土間に見慣れぬ男物のカンバス地のスニーカーを認めて慌ててリビングに走った。


「な、ナオちゃん!・・・あら」


 ソファに寝ころびタオルケットを掛けられた愛娘、寄り添い静かに寝息を立てるのは数時間前再会したかつてのボーイフレンド。買った覚えのないゲーム機につながれたテレビの中で、「ナオミ」とプレーヤー名を付けられたキャラがファイティングポーズをとっていた。眞衣子は優しく笑うともう一枚毛布を持ってきて智宗に掛けてやった。

 


 

 

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