2話 終礼に至るまで

 智宗が高校三年生の頃、もう七年も前のことになる。塩山智宗と坂江眞衣子は同じ高校のクラスメートだった。二年生の時も彼らは同じクラスだったのだが、そのころの眞衣子はどちらかといえば地味な生徒であり、智宗も大した興味もなくただ同じクラスメートであるということくらいにしか認識していなかった。だが、彼女は三年生に上がると俗にいうイメージチェンジを行ったのか、可愛らしい童顔を持つ清純で誰からも愛される人気者に変身した。変身といっても髪形を変え大きな縁付眼鏡をコンタクトレンズに変えただけだったので、元からの容姿が良かったのだろう。

 「マーちゃん」と呼ばれ愛された眞衣子に惹かれた多くの男たちと同じように、智宗もまた眞衣子への憧れを胸中に抱くことになる。ただ会話の糸口もなく、その他大勢のクラスメートとして以上の関係を持つことはなかった。転機が訪れたのは、進級してから三ヶ月も経った頃だった。 

 その日彼は、放送委員の友人から昼の放送係の代役を頼まれていた。ただCDを放送室へ持っていき音楽をかけさえすればいいとのことで、彼は自身の趣味全開のCDを用意して校内に曲を流した。7曲の内4曲はフランク・シナトラ、2曲はEarth, Wind & Fire、そして1曲、フランキー・ヴァリの「君の瞳に恋してる」がそこに混じっていた。校内にこのような趣味を持っている者も知らないし、きっとこの放送は不評だったろうと考えながらも、内心満足して教室に帰った。教室に入ると、興奮した眞衣子が周りのクラスメートたちに向かって何かを熱く語っているのが目に入った。普段は人形のようにきょろりと微笑んでいる彼女を見慣れているからこのように熱を上げて話す様子は珍しかったが、ジロジロ見るのもいやらしいと思い目は合わせずにいた。


「でも、今日当番のはずの浅口くんはいないよね。誰が流してくれたんだろ」


 耳を傾けていると、前日、次の日は授業をサボって遊びに行くから当番を代わりにしてくれ、と智宗に頼んだ友人の名が聞こえた。その名に反応し眞衣子の方を見た。彼女も動いた彼に気づいて目を向け、互いの目が合う直前、彼女の友人が真相を告げた。


「浅口くんね、アレ、今日サボってライブに行っちゃったんだって。ほんで、今の放送は彼から仕事を押し付けられた塩山がやったんよ。そうだよね、しおやまー?」


 唐突に名前を呼ばれ、眞衣子から目を離し慌てて返事をした。眞衣子から興味の対象にされている可能性が一瞬頭をよぎったからか、変に緊張していた。


「そ、そう。今日は俺がやったんだ」

「やっぱり、塩山が好きそうな歌だったからねぇ。マーちゃんがめちゃ喜んでたよ、この歌好きだって」


 期待を込めた目で眞衣子の方へ向き直ると、爛々らんらんとした笑顔がそこにあった。智宗は染まった頬の紅色が彼女にばれやしないかと心配しながら大きく黒い瞳を見つめた。


「ふらんき・ばり!」


 これが智宗にとって最初の眞衣子との会話だったので、彼女の舌っ足らずな発音は後々まで覚えている。とことこ机を叩いて興奮を隠さない眞衣子はまるでじゃれる小動物の如くと、周囲の目を引いた。


「センスいいねえ塩山くん、フランキー・ヴァリを使うなんて。『君の瞳に恋してる』だともっと新しいのが有名なのに」

「ヴァリの曲はあまり知らないんだけど、これは好きだったんだ。ある映画のBGMに使われてて気に入った」

「それ観てみたい!それにしても塩山くんは古い曲が好きなんだねぇ」

「うん、皆んなと話が合わなくって困っちゃうよ」

「でもわたしは興味あるよ、古い歌」

「ほんと?」


 ときめいたのと始業チャイムが鳴るのは同時だった。数学教師が入ってきて他の生徒と同じように智宗も自席に戻ろうとするが、心は眞衣子の許に置き去りだった。眞衣子から目を離せない智宗に、彼女は小声でささやきを残した。


「後でもっとお話ししようよ。塩山くんとは趣味が合いそうだね」


 こうして二人の交流は始まった。特別どこかへ遊びに行くとかそのようなことはなかったが、週の多くの日を共に過ごし、時には帰り道にデートもした。デートには図書館が最適で、それは館内で無料で映画がられたからだった。眞衣子はフランキー・ヴァリ聴きたさに重い内容の戦争捕虜映画も観たし、智宗もほとんど縁のなかった恋愛映画も眞衣子が観たいというのなら喜んで観た。そうした関係がしばらく続いていると、もう一段階上のステップへ進もうという気が智宗には起きるのは当然だった。異性に恋をした経験は以前にもあったからこの感覚が恋愛感情であるという事は簡単に認識できたし、抵抗なく受け止めた。そして告白の決心がつくまでの間、眞衣子の浮いた噂を聞くことがなかったのは幸いだった。受験生である手前、また、眞衣子と同じ大学に行けるとは万に一つも保証されていないので、その告白は急ぐ必要があった。受験勉強が本格化すればデートの回数も減ってしまうだろうとの焦りもあったが、決心はなかなかつかない。

 ようやく決心がついたのは、夏も過ぎ、再び紺詰襟の学生服に袖を通す季節になってからだった。これまで週数回だった授業後の補習がこれから週の全てに入ることになるため、その日は彼女との最後のデートとなるはずだった。


「ねえマーちゃん、これからあんまり授業後に遊べなくなっちゃうだろうし、今日は少し長い映画でも観ようよ。それでその後、久しぶりに一緒に夕飯を食べない?」


 こう誘っていたのはいつものことだったが、その日は少し眞衣子の様子が違っていた。普段決して暗い表情をすることがなかった彼女は、目を反らしうつむき加減に答えるのだった。


「・・・うん、いいよ」


 あまりに告白の緊張を隠すことに腐心していた智宗は、その時彼女の異変に気付くことができなかった。そしていつも通り、部活のある彼女を気遣うための台詞を続けて言った。


「じゃあまた、終礼の時に下駄箱で」


 その言葉に返事はなかった。ただ寂しそうに静かな笑顔を浮かべると小さく手を振って立ち去るばかりだった。彼は、彼女はいつも通り部活へ行ったのだとばかり思っていたのだ。

 約束の時間、下駄箱。終礼を背に聴き、智宗は独り立ち尽くしていた。高まり続けていた心臓の鼓動が次第に冷めていくのを虚しく感じていた。焦りより先に諦めの気が起きたが、それでも立ち去ろうとは思わなかった。きっと、何かの用事ができて身体が空かないのだろう、でなければ、何かしら連絡をくれるはず。そう思い込めることで外面の冷静を保っていたが、今にも泣きだしてしまいそうな心を堪えるのは辛かった。

 残り少ない生徒も待ち惚けをくっている智宗を横目に次々と下校していく。もう生徒が誰一人いなくなっても彼は待ち続けた。夜が更けてきて、施錠確認をしていた教師に見つかりきつく叱られ、ようやく一歩ずつ校門へ向かって歩みだした。教師に反抗する気も起きず、ただただ無気力が心を支配していた。自転車にまたがりペダルをこぎ始めるとチェーンとペダルのきしむ音が寒空にこだまし、一層彼の孤独を誇張させた。ふと、最後に見た眞衣子の姿が冷たく浮かび上がった。そして初めて眞衣子の異変を知った。


 眞衣子の連続無断欠席は学年中に波紋を呼んだ。女の友人が(それにこっそり、智宗も)家を訪ねてみたが眞衣子どころか家人の気配もなく、毎日欠かさず手入れされていた庭は荒れ放題で、消息を伝える張り紙の一枚もなかった。ほとんど欠席したことのなかった眞衣子のことだったから様々な憶測が飛び交い、よく一緒にいた智宗にも何かしらの嫌疑がかけられていたが、新たな目撃情報によってその疑いは晴れた。しかし、その目撃情報はさらに眞衣子失踪への考察を混迷させることとなった。その眞衣子の部活の後輩という女子生徒が目撃したのは、見たことのない高級車に乗り込む眞衣子の姿だったという。部活の始まる前の早い時間のことであった。眞衣子の家族は企業経営をしていてかなり裕福であり、住宅が高級なら自家用車も高級だったのだが、眞衣子の家に招かれて自家用車も見たことのあるその女子生徒は、眞衣子が乗せられた車は自家用車とは違うものであったと主張した。声をかけて一度振り向いたその顔は、これまで見たことのないくらい悲しい表情であったという。

 また、智宗にとって最悪の噂も流れていた。同級生の女子が思い出したかのように語ったのは、眞衣子は妊娠したのではないかという事であった。体育の着替えのときに、わずかだが張っていた眞衣子の下腹部を女子がいたずらに触るという出来事があったのだが、やけにその腹は硬かった。それに彼女は触られた直後、色を変えて自分の腹を他人からかばい続けていたという。聞いた限りの噂では一番信憑性があり、智宗は周りでその話をされるたびずっと隠れて耳をふさいでいた。

  結局、受験も近くなってきて各人の余裕もなく、眞衣子の消息は追われないまま彼女のことはタブーとなった。最後に眞衣子の名が出たのは、担任教師から眞衣子の家族から退学を願い出る書類が送付されてきた旨を告げられたときだった。学校のポストに直接投函されていて差出人の住所は書いておらず、それでも不思議と必要な書類はそろっており、学校側も気味悪がって即日受理したという噂だった。眞衣子のいない教室は火の消えたようであり、後にはギスギスとした受験勉強期間があるだけだった。


 眞衣子を失い自暴自棄になった智宗は、全てに失敗した。いくら勉強しようしても集中力無く学力は身につかず、むしろ流出していくばかりで、志望校合格への意志はとっくに消えていた。センター試験当日もほとんど寝て過ごし、自己採点の結果急遽三者面談も行われたが当人は上の空で、親は慌てるばかりだが教師は既に諦めていた。浪人すれば拘束的に勉強させられるのは分かっていたため、名前を書けば入れるような三流大学に入学した。やる気なく浪人させるより新しい環境にあてた方がいいと思ったのか、両親は諦めるように進学させた。だが、大学の記憶なぞは無いに等しかった。もうどの駅にあったかも覚えていないし、キャンパスの外見すらおぼつかないうちに通わなくなった。授業にも出ず、街をふらつく毎日。訪れた放浪の末路、ある傷害事件に巻き込まれ、それを期に今の職に就くことになる。


 そして、彼らは喫煙室前での再会に至る。

 

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