1話 曖昧かつ確信

 嫌な仕事の束の間の休日、彼にはこれといって特別にすることはない。したいこともない。

 この日、塩山智宗しおやま ともむねは、いつものようにリサイクルショップや古本屋を回り興味もないような品々を流し見て、結局とあるビルの喫煙室に収まった。この徘徊は無気力な自分の暇つぶしに始めたことだったが、好奇心も購買欲も皆無であり、せいぜい古本屋で写真集を数ページ立ち読みしてもすぐに飽きてしまった。そうなればもう、カフェかファミレス、喫煙所にしけこみ、煙草たばこの紫煙をくゆらせながら街並みや流れる人々を眺めているだけだった。唯一の趣味ともいえる煙草は数少ない彼の慰めの一つだった。

 ここまで無気力な自分にはほとほと退屈していたものだったが、それが仕事による感性や心情の摩耗であるということは解っていた。大学をドロップアウトしてから偶然就いた職業は特殊で、苦手な人間関係の構築とやらはなかったが、とにかくのいる仕事だった。仕事によってどこからどう見たって嫌な行為を続けるのにはいい加減辟易していたが、結局はそれしかできない自分というところに落ち着き諦めてしまう。

 夢中になれる事がないとこのような負の思考が頭をぐるぐると回り続け止めどがなく、彼はそのことにもうんざりしていて、かといって楽しいことを純粋に考えることもできず、こうした何もない休日ではネガティブに心が満たされてしまっていた。だからできるだけ何も考えないようにする。ただ煙草の灰の長さと残存本数だけを気にしてぼうっと往来を眺めることに努めていた。

 

 今日だってそうしているつもりだった。だが、些細な目撃が彼の時間を一変させた。

 十字路の信号待ちをする人々を眺めていると、信号が変わる何度目かの時に視界に異変が起きた。ただ人が立っているというだけであったが、それはモノクロの画面が急に色づいたような、感情をくぎ付けにする小さな目撃だった。横断歩道の手前で並ぶ顔ぶれの左から三番目、小柄な若い女性であり、ぱっちりと黒眼の横には小さなほくろが特徴的な童顔だった。加えて色艶のいい唇と白い肌はノーメイクらしい、となぜか思えた。連れていた小学校低学年ぐらいの幼女には何の感想も抱かなかったが、見たところ親子だと直感した。

 間違いない、と智宗は確信した。その女性こそかつて自分が追い続けていた影の持ち主であると。智宗の視線に気づいた彼女がこちらを向き、目が合った。

 視界が硬まったまま、耳に鮮やかに終礼チャイムの音が蘇った。


「・・・おぇっ」


 喉元に刺激を感じ我に返る。煙草をくわえたまま我を忘れ見つめていたため、過量の煙が取り込まれ思わず嘔吐えづいていた。長くなっていた灰も机の上に落としてしまい狼狽したが、内心それどころではない。急いで荷物をまとめ、まだ数口は吸える煙草を吸殻入れに落とし慌てて喫煙室を出た。信号は変わっていて止まっていた流れは動き出している。先程女性とその子供が立っていた場所では多数の他人たちの足跡が移ろい、二人の見る影は既になかった。しばらく信号の傍にたたずんで人ごみの中を注視していたが、二人の顔を見つけることはできなかった。もう行ってしまったのか、と思うといつもの諦め癖で執着は薄れていき、溜息一つくとすっかりこの場を離れる気になってしまった。


どうせ、何かの間違いだ。彼女が消えて何年も経つのに、こんな場所で会うはずがないじゃないか。しかも子供なんか連れちゃってありえない。ありえない


 そう自分に思い込ませて自宅に帰ろうと帰路に爪先を向けた。だが先程のビルの入り口付近、丁度今までいた喫煙室にガラス越しに向かい合ったところで、不思議な動きを見せる子供を連れた女性がいた。体を揺らして背伸びをしたりガラスを覗き込んでみたり、まるで喫煙室の中に誰かを探しているようだった。怪訝けげんに彼女を見る喫煙者たちに交じってガラスの中で映り込む顔は、紛れもなく信号待ちをしていたあの童顔だった。瞬間先の否認の考えも帰宅への意思もすべて消し飛び、彼女に駆け寄りためらわず声をかけた。


坂江さかえ・・・眞衣子まいこさん?」


 眞衣子と呼ばれた女性は驚いたように振り向き、上から下まで智宗を眺めると、彼にとって懐かしいような笑顔を見せた。


「やっぱり、塩山くんだ!」

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