第八章 再召集 満州へ 昭和16年(1941)
昭和16年(1941)8月のお盆、遂に再召集されることになった。35才だった。
予想していた東南アジアではなく、日本が占領し、中国から独立させた満州国で駐屯部隊に加わることになった。古参兵だから、今度は現地で新兵教育にあたる。 徴兵検査の頃とは正反対に、俺の頭は残していく家族のことでいっぱいだった。祖母は八十六でいつ死ぬか分からない。お袋も65で無理はできなくなっている。育ち盛りの2人の子どもは、またタキに預けて出かけなくてはならない。この二年間の幸せは、束の間の幻に過ぎなかったのだ。今度の出征挨拶は気負った演説などをせず、ただただ、「家族のことをくれぐれも宜しく頼みます。」とだけ述べた。
下関へ向かう前日、四谷へ面会に来た通晴が、古参兵用のサーベルを触っていたので、「帰る時には刀を買ってやる」と約束した。
今度は朝鮮の釜山に上陸し、鉄道で満州に入った。
朝鮮も満州も日本の属国となっていたから、前の時の支那人以上に従順だろうと思っていたら、反対だった。うわべは大人しそうにしていてもなかなかしぶといし、時々敵意に満ちた表情をする。やはり武力だけで外国人を従わせようとする方法そのものが理由だと思った。
満州に入ってからは、大連、新京、ハルピンと動き、結局ハルピンに駐屯することになった。満州人が反乱を起こしたり、中国人が満州国内に攻め込んで来たりすれば鎮圧に出る。何もなければ、次から次へと送られてくる新兵教育の毎日だった。
もっとも訓練といっても何十里を馬で駆けるのだし、冬はマイナス40度にもなることがある。戦斗でなく酷寒の気候に参ってしまう兵隊が多かったが、ここでも俺は平気だった。福室さんに、子どもの頃冷水鍛錬された経験が役に立った。
昭和17年に入ると、36人の班を管理する班長を任命された。班長の役割は管理さえすれば良いのに、下手くその初年兵がやることを見ていられず、時々手を出して隊長に叱られた。
満州にいる間、寒さに耐えるため、よくウォッカを飲んだ。また将棋や碁が非常に強くなり、こうした遊びで大隊に友達が大勢増えた。
今度の出征は本当に楽だが、それにつけても留守の家族はどうしていることか。女学生の手紙はもう来なくなり、タキの手紙が頻繁に来る。その中に、託児所へ行き始めたという通晴の字や絵が入っていたりして、にやにやしながら読むものだから、よく兵隊たちにひやかされた。
内地では、昭和16年秋に組閣された東條内閣が、その年の暮れに真珠湾を攻撃、アメリカに宣戦布告、続けてイギリス、フランス、オランダにも宣戦したそうだ。
欧州では、ドイツが猛烈な勢いで周囲の諸国を爆撃しているらしい。結局、世界大戦になってしまったのだ。
我々もいつまでここにいられるかどうか分からない。近いうちに南方へ回されるのではないか…?そんな噂をしていた昭和18年の正月、突如内地帰還命令が出た。そら来た、今度こそ生きて帰れぬ激戦地に行かされるに違いない。暗い気持ちで東京に戻った。
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