第三章 青年期 大正8年(1919)~15年(1926)

 ※この第三章から第十章まで、通晴が記憶を辿って代吉の語り口を借り一人称で書かれています。


 大正8年(1919)8月13日、自分を最も可愛がってくれたお爺さん(勘蔵)が死んだ。3年後の大正11年(1922)には、胃病で働けなくなっていた親父(定吉)も病死した。

 世の中のことや家の暮らし向きなどがようやく解りかけてきた俺にとって、相次ぐ肉親の死は、今迄気づかなかった「自分自身が存在している意味」と、家の中での責任の大きさをひしひしと感じさせた。

 同じ年の秋には、恩師の福室さんも55歳で亡くなっている。庄次郎先生の死は、俺ばかりでなく、日頃叱り飛ばされながら直接の教育を受けていた、近所の若者グループにとって、親の死以上の重大事だった。

 あの時、俺たちはいろいろ話し合ったものだ。

 …「これからの俺たちは、上の学校へ進まないと時代についてゆけない」

「向村や後田の連中にどんどん追い抜かれる」

「彼らは地主の息子が多いから皆進学するだろう」

「だけど我々の家は貧乏だし、親たちは文盲だからなぁ」

「勉強はもうあきらめようぜ」…等々の弱気な発言を聞いているうちに、俺は我慢できなくなって大声で叫んだ。

「みんなのように愚痴や泣き言だけじゃ、無学な親たちと同じになってしまうぞ!」

「じゃあ代ちゃんはどうするつもりなんだ。」

「俺か。俺も上の学校へは行けそうもないが、世間にどんどん出て、生きた勉強をする。一人男になったことは天の配剤だ。死んだ庄さんがよく言ってたじゃないか、『艱難汝を玉にす』と」

 …今から思うと、若さゆえの啖呵でもあったが、しばらくの間は、本町田の青年訓練所に通い、そこを修了した。

 大正11年から12年にかけては、父親の葬儀に続いて、喪中の法要を次々に行ったが、何しろ16才の施主だから何も知らない。そのくせよそに負けたくないと気持ちだけは人一倍強い。昔かたぎのお袋を励まして、恥ずかしくないだけの人寄せをやり、挨拶のしかたは、原町田のエビスヤ店主に教わって、「大人たちより上手だ」と褒められた。一周忌は新盆と重なったので、家の一部を改築もした。

 ところが、やっと喪が明けて家中ほっとしていた大正12年(1923)年9月1日、あの大地震に見舞われた。

俺は当日、連光寺から帰る途中、大蔵の代官屋敷近くで休憩していた時に未経験の激震に遭った。そこからねじり鉢巻きで家に飛んで帰ったら、女ばかりの家族は全員竹やぶへ逃げ込み、家は半壊状態になっていた。半年ほどかかってやっと元通り修繕したが、畑もめちゃくちゃで、秋の収穫が望めないから横浜港へ荷下ろし人夫として働きに出た。この時受け取った10円は「代が初めて稼いだよ」と祖母が仏前にそなえ、俺もやっと一人前になった気がした。

 大正15(1926)年の暮れ、大正天皇が崩御して、年号が「昭和」と変わった。同時に俺も数え年20才となり、翌年はいよいよ徴兵検査だ。




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