第二章 尋常小学校時代

 「父ちゃん、俺の名前はどう書くのだ?」

 「代吉という字か。勇次郎おじさんに教えてもらえ」

 「ウチの住所は」

 「南多摩郡町田村だが、代吉という字よりも難しいらしい。それは福室の庄さんに聞け」

 …明治44年(1911)、代吉五歳の頃の問答であるが、字に関係のある質問はいつもこんな調子だった。

定吉ばかりでなく、勘蔵もラクもコウも、字は全く分からなかった。手紙や役所の届け出は、すべて代吉の叔父・勇次郎か叔母のソヨが受け持っていたが、このままでは不自由でたまらない。定吉自身、去年までの応召中、最も困ったのが字の読めないことだった。

 子どもには絶対そんな思いをさせたくない。野良がどんなに忙しくても、尋常小学校は卒業させたい、などコウとも話し合っているが、頑固な勘蔵もこれには反対しなかった。それどころか、たまに原町田へ用に行くと、帰りには必ず鉛筆、クレヨン、画用紙などを買ってきて代吉に与えた。

 しかしカツには何も渡さない。ラクが苦情を言うと、

 「カツは女子だ。おなごは学問の道具なんか残り物でいい。」

 これを聞くとラクは、「代がますますわがままになる」とばかり、意識的にカツを可愛がるものだから、二人の孫をめぐって勘蔵とラクはよく夫婦喧嘩をした。

 こんな扱いの中で代吉は、明治45年(1912)4月に、本町田の淘化小学校(のちの本町田分教場、現在の市立第三小学校)へ入学する。

 淘化小学校は明治5年(1872)の学制発布とともに、それまでの寺子屋式を改め、1年生~6年生を二教室で教える尋常小学校となったのである。

 家から学校までの通学は、ほとんど「タノクロ道(田の畦道あぜみち)」ばかりで、途中に小川がいくつもあり、「観音堂」という大木のそびえる林が続いていた。代吉たちにとっては絶好の遊び場所であり、天気さえよければ帰り道に、川魚のつかみ取り、かくれんぼ、木登りなど腕白の限りをつくし、いつも暗くなってから帰った。だから低学年の頃の成績はダメだったと、代吉自ら述懐している。

 しかし、年々激しくなる環境の変化が、成長してゆくにつれ、向学心を燃え立たせる。

 とりわけその頃の日本は、「大正デモクラシー」の最盛期で、町田村も町田町となり、各地の尋常小学校(高等小学2年)を併設する。私学(現在の塾)も増え始め、その多くは明治中期の自由民権運動家たちが郷土に戻って、新時代の人材を育成しようとする目的を持っていた。

 ところが遡って明治20年代に、このような時代の風潮とは逆の思想を持つ「学者くずれ」が放浪してきて、近所に住みつき、前田一族の娘と結婚して子どもたちに読み書き、漢学、日本史などを教えていた。今までのエピソードに出てきた「福室庄次郎」である。

 代吉は小学校上級生になると、急激に成績が向上するのだか、その理由として「本町田の財産家と喧嘩した時、おめエの家の大人たちは誰も字が読めねエくせに、と言われて無性に腹が立った」「それなら福室さんに大人の学問を教えてもらって、きっと見返してやろうと意地になった」ことを挙げている。

 福室氏の教え方はひどくスパルタ式で、一方的に教わった内容は必ずその日のうちに復習をした。理解の早い代吉は、他の子どもより先をやらされるため毎晩遅くなるのだか、家へ帰ってからは、寝る前に学校の宿題を片付けることを自分で義務づけた。姉のカツが大きくなって親と一緒に働けるようになり、弟はいないし妹はまだ幼すぎたから、この頃の代吉は、思いのまま勉強を続け、将来政治家になる夢を抱いていた。

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