第一章 誕生 明治39年(1906)

 朝から強い風が吹いている。麦畑の「サク切り」をしている定吉は、土ぼこりが両目に入り、家のことも気になって仕事がはかどらなかった。

 3月の節句の餅つきがいつもの年よりも遅れてしまい、昨日の夕方ようやく終わった後、今年3歳になった長女カツの履物と帯を買いに原町田の二・六の市へ行って、帰って来たら夜だった。さらに夜は講中の寄り合いが予定されていたから、夕食もそこそこにそちらへも出かけたが、まもなく妻のコウが今夜あたりお産をしそうだから帰るようにと伝えられ、帰宅して明け方近くまで起きていたから寝不足でもある。

 だが、夜が明けても結局生まれなかった。

 朝食の後、近所の婆さんと母のラクにお産はまかせて野良に出たのだが、いつもは一緒の父や妻がいないと、「草ふるい」も兼ねなければならないので埒があかない。父の勘蔵も、別の畑(チョウチン塚)でサク切りをやっているが、今年56歳になるのに定吉よりも仕事達者で、今朝だって嫁がお産をするかもしれないというのに「起き抜けで一反五畝サクって来たぞ」と言い、朝食をはさんでまた出かける時、「コロバリ坂は終わらせとけよ」との御宣託だ。今日くらい野良は休んだ方がいいと思うのだが、若い時から「強情の勘蔵さん」と呼ばれてきた手前、近所より仕事の遅れるのは我慢できないことらしい。

 今からこれでは、田んぼも畑も忙しくなる5月頃は大変だなァ、産後のコウにも無理はさせられないし…などと考えながら鍬をふるっていると、突然がけの下の沖のヤトの方から「おっちゃーん、赤ん坊が生まれたとよう。すぐ帰って来いって」と、近所の子どもの呼び声があった。

 鍬を放り出して坂をかけ下り、川をとび越え家に飛び込むと、「おぎゃーおぎゃー」と元気な声があがっている。近所の取り上げ婆さんと母のラクが定吉の顔を見るなり「生まれた生まれた、今度は男だ」と、喜色いっぱいに叫ぶ。

 「お爺さんも呼びにやったが、仕事が終わらないと帰らないだろうよ」と言っているうちに、勘蔵が野良着姿のまま部屋へ飛び込んできた。

 「生まれたとナー、男だってナ、めでてエめでてエ」嫁の枕元で大さわぎするものだからラクにたしなめられた。頑固者の勘蔵がこれほど嬉しそうな表情を見せるのは何年ぶりだろうか?埃だらけの顔がぬれているのは汗じゃない、涙をこぼしたのだ。カツの時はこんなに喜ばなかったのになァ、と思う。

 その夜、ふだんは酒を飲まない勘蔵が、節句の白酒を自分も相当飲み、定吉や勇次郎(次男)にも盛んに勧めた。勇次郎は若くてもいける方だが、定吉は親と同じで下戸の方だから顔をしかめながら少しずつ飲んでいると、

 「なンだ、その顔は。酒を飲むときには賑やかに飲むもんだ」と、自分のことを棚に上げて上機嫌である。

 「日露戦争には勝ったし、ウチでも丈夫そうな跡取りが生まれたし、万々歳だ。定公、明日は野良を休んで福室と赤ン坊の名前を相談しとけ。」

 いやはや、孫というよりもこれではまるで自分の子のようだ。親の俺以上に一生懸命なんだと感じた。明治39年(1906)3月3日は、昼間の強風が夜になっても吹き続け、ガタガタと鳴り、春一番が外からも男子出産を祝ってくれているように思えた。

 以上は、私どもの実父、代吉が、日露戦争の勝利で日本が諸外国に注目され始めた頃、自宅で誕生する様子を物語風に記したものです。

代吉は昭和59年(1984)10月22日の朝、「心不全」で永眠しましたが、生前元気な頃、自分の歴史を家族によく聞かせました。そのたびに「人の一生は七転び八起だ」 「俺も明治・大正・昭和を通じて強情に生き抜いた 」 「苦しい時には、いつも山中鹿之助(戦国~安土桃山時代の武将)の『艱難汝かんなんなんじを玉にす』という言葉を思い出しては立ち上がってきた」 等の格言をつ加えるのが常でした。正直なところ何回も聞かされた私など、うんざりするような時もありました。

 しかし、こうした父の性格は、今考えてみると幕末から明治初年にかけての少年時代に父親を失い、やはり意地で家を支えてきた曽祖父(代吉には祖父)の影響を受けていると思うのです。定吉が死亡したのは、大正11年(1922)8月13日となっていますから、まだ42歳の壮年期で、父はわずかに16歳(数え年17歳)の時です。他の男の兄弟はいないし、翌年の関東大震災で文字通り家を再興させてきたバックボーンは、まさに代吉自身の言う「無理強情の心」だったのでしょう。人間の性格はまさに幼少期に、ほとんどが形成されるそうですが、その辺りのエピソードを次に暫く追ってみましょう。 

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