第四章 大黒柱として 成人から三十才迄

 徴兵検査は当時の若者にとって、「強い男として認められるかどうか」の資格検査でもあり、俺は自信があった。背はあまり高くないが、筋肉ははち切れそうに盛り上がり、器械体操や腕相撲ではほとんど負けた記憶がない。青年団の会合なんかでも、天下国家を論ずる時など、のちの町田市長となる青山藤吉郎と対等に渡り合ったりして、身心ともに血気盛んだった。

 昭和2(1927)年の徴兵検査は予想通り甲種合格だった。多勢の中から選ばれた有望青年として、目黒輜重兵第一大隊に入営し満期除隊した。

 ちょうどあの頃の日本は、田中義一内閣がシベリア出兵の閣議決定をするなど、大陸進攻の端緒についた時であり、俺が青年大会の席で「これからの日本が大陸に雄飛するための担い手は、我々青年だ」と発言したら、来賓のお歴々から大拍手を受けたことがある。

 のちに、この考え方が大陸徴兵の伏線になるとは、その時思ってもいなかった。

 社会情勢は、昭和史に語られている以上に、年々深刻さを増していた。震災景気は終わり、ニューヨーク株式の大暴落が起こって、日本中が空前の不景気となり、もはや戦争を始めない限り打開の道はないという世論が圧倒的だった。

 我が家も、勘蔵が開墾し、定吉を経て俺の引き継いだ田畑が約一町歩あまりあったが、生糸がまったく売れなくなって、養蚕などやっていられない。おまけに米を作っていた田んぼは、何百町歩の山林と共に買収されてしまった。

 打開策として、農業学校を出た同級生の小林健吉と相談して、その頃先進地で普及し始めたトマトを栽培した。すると町田の青果市場の連中が「気違いナスなど全然売れない」と相手にしてくれない。そのくせ肥料や農薬は「農業会」がべらぼうな高値で売りつけてくる。

 そこで俺は、遠縁のエビスヤ店主に相談し、兼業商売を始めた。

 まず、秋の収穫が終わったあとは、草履の製造と卸を翌年の春までやる。5月から八月まで野良に専念したら、9月と10月の2か月間、稲城の梨を仕入れてきて各地の秋祭りに屋台を出させてもらい商売をする。

 2、3年は順調だった。しかし長続きはしなかった。23歳になっていた妹のトシが病死した頃、五・一五事件が起きて日本全体がいよいよ軍国時代に入った。健康な若者の召集は避けられない情勢となってきた。1人息子が召集されてからでは遅いと、親類などから縁談が持ち込まれ始めたが、どれもこれも顔見知りか、従妹などばかりで俺には皆気に食わない。百姓に打ちこんでない、商売が不安定だ、身内に病死者が出て続けている、などを理由に断られることもあった。

 俺は手を打った。商売はやめ、百姓として本腰を入れようと、近くの地主からも畑を五反(千五百坪)ほど借りた。

 もっと思い切ったのは、病人が出続けたのは家が西向きで日当たりが悪かったからだと思い、南向きに直してしまった。無茶なことをすると、老人たちは呆れていたが、そんなことしても嫁がこないうちに昭和10年、30才になった。







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