17.斜陽の日々
メリー・デイン・クラフセンが目を覚ましたとき、まず目に入ったのはジェフ少年の顔だった。
心配する風でもなく、ただ無表情に覗き込んでいる。
そのまま互いの顔面に視線を留めること、数秒。
やがてジェフ少年は口を開く。
「意識は回復したな」
それは、限りなくどうでもいい感想だった。
少しは安心したような表情を浮かべてもいいのではないか。メリーは不満を覚えながら、眉間に皺を寄せ、心配させるためにあえて辛そうな顔をしてみせる。ついでに、喉の奥で少し唸る。
が、まるで効果はなかった。
「きみは、体力を消耗している」
ジェフは医者のような冷静さで告げる。
「過度の魔力価欠乏だ。体内魔力循環が不十分のため、肉体機能にまで影響が出ている。しばらく、起き上がらない方がいい」
(どういうことだろう)
メリーには、その言葉の半分も理解できない。とにかく疲れている、ということなのだろう。そう思うことにした。
ジェフはしばしば意味のわからないことを口にする。
(それにしても、ここは――)
ジェフを心配させることは諦めて、メリーは改めて周囲の状況把握に努めた。首だけを動かして見回す。
自分はどうやらベッドに横たわっているらしい。ジェフはその枕元の椅子に腰かけている。
広い室内――高い天井――清潔な枕と布団。おそらく、学園の医務室だろう。窓からは夕陽が差し込んでいる。すると、もう小遠征はとっくに終わって、学園に運び込まれたのか。どのくらい眠っていたのだろう。
何がどうなったのか。
どうやら意識を失ったようだが、その前後の記憶がほとんどない。無我夢中で何者かと戦う夢を見た気がする。ひどく混乱している。
「
「え。あ、はい」
メリーの混乱を、ジェフは別の意味に解釈したようだった。つくづく、彼は感性の焦点がズレている。
「あの、何がどうなったんですか? すごく凶暴な、とんでもない異形に襲われた気がするんですけど。もしかして、なんとかなったんですか? それって――」
メリーは自分の手に目を向ける。九割の自虐と、一割の期待をこめて尋ねることにする。
「またしても、私の秘められた力みたいなものが、こう――うまいこと開花しちゃったり、したんですかね?」
「……いや。わからない」
ジェフの答えは簡潔ではあったが、冷淡ではなかった。本人もどう説明するべきか、困っているような響きがあった。
「何かが起きた。俺もあまり覚えていない」
「……私たち、二人とも死んで、実はいま死者の国にいるって可能性は?」
「ないと思う」
「じゃあ、あれは全部夢だったとか?」
冗談のつもりで言って、自分で笑おうとしたとき、咳が出た。肺のあたりが痛む。なるほど、この痛み――これは死者の国でも夢でもなさそうだ、と改めて思う。
「あの、ジェフさん。小遠征、どうなったんでしょうね? 私たち、学園を――」
「小遠征は、とっくに中止になっていた」
「え?」
「事態は思いのほか、拡大していたらしい。他の学生もトロールと交戦し、撤収命令が出ていた」
「うそ。じゃあ、あの努力――ほとんど無駄だったってことですか? そんな!」
「だが、少なくとも、我々の即時退学はなくなった」
「はあ」
メリーは相槌を打とうとしたが、ほとんど溜め息のようになった。
「ジェフさんって、めちゃくちゃ楽観的ですよね」
「そうかもしれない」
他人事のようにうなずいて、ジェフは椅子から立ち上がった。
「とにかく意識が戻ったようなので、ヴァネッサ先生を呼んでくる」
「あ、はい」
答えてから、ふと疑問に思う。
この少年は、いつからメリーの目覚めを待っていたのだろう。
「なかなか意識が戻らなかったため、心配した」
部屋の出口へ歩き出しながら、ジェフは灰色のマントを広げ、それを羽織った。
「が、きみが無事で良かった。メリー。俺にとって、きみは重要で貴重な存在だ」
「え」
咄嗟に、メリーはなんと答えればいいかわからなかった。結局、口を開閉しただけで、ジェフが部屋から出ていくのを見送るしかできない。
「えー……」
メリーは唸り声をあげた。長く眠っていたせいで、乱れた金髪をかきむしる。
目覚めた瞬間よりも、余計に混乱した気がする。
(どうしよう)
頭に浮かんだのは、そのことだ。
(もしかして、ジェフさんって、私のことが好きなのでは?)
メリーは真剣にこの仮説を検討し始めた。
――――
《秘匿騎士》フレッド・アーレンは、斜陽の森の中を敗走する。
学園の教師陣が、この事態を引き起こした者を捜索しているだろう。
体のあちこちは痛み、体力も尽きかけてはいたが、それでも急がなければならなかった。捕まれば、ろくなことにはなるまい。
「失敗でしたね、《秘匿騎士》フレッド」
傷口をさらに深くえぐるような、ネルダの冷たい声が降ってくる。彼女はフレッドの頭上を旋回し、目指すべき目的地へと誘導していた。認めたくはないことだが、フレッドが疲弊している現状、彼の護衛も兼ねている。
すでに二度ほど、学園からの追っ手と思しき使い魔を、ネルダに頼って撃退していた。
「規格外の相手が二人。そして《
「わかってる。小言は勘弁してくれ」
フレッドは杉の木の根元に腰を下ろし、小休止を兼ねて周囲の気配を探る。
「好奇心に負けたよ。やめときゃよかった」
この森の中でなら、ある程度は追っ手を感知できるように仕込みはしておいた。万が一のための備えだった。
いくつかの木々と
「閣下には合わせる顔がないね。だが、俺の言い訳も聞いてくれるだろ? 敵方にあんな怪物みたいな小僧がいるなんてな。あれこそ悪魔ってやつだ」
「ダーニッシュ閣下は、あなたのことを評価しています。あの少年にあそこまで接近しながら、こうして撤退に成功している」
ネルダの声はどこまでも事務的で、決して励ましているような響きはない。それでもなお、フレッドは気分がささくれ立つのを感じる。
「フレッド・アーレン、あなたは《秘匿騎士》の中でも決して戦闘技術そのものに秀でているわけではありませんが、その用意周到なしぶとさは驚異的です。閣下はあなたの働きに満足しておいでです」
「そうかい。それにしたって、閣下の機嫌がよろしいとは思えないね」
周囲に敵の気配はない。
フレッドは大きく息を吸い、また吐いた。喉が渇く。酒を飲みたい、と強く思う。帝国産の
あれはすべて洞窟のねぐらに置いてきてしまった。
「畜生――ひどい目にあったよ。あの小僧への対処が問題だ。竜のヒナより強いなんて、どうかしてる」
「それについて、閣下は問題視されておりません。閣下は、あの少年のことをよくご存じです」
「なんだ? 閣下はあの悪魔を知ってるのか」
「閣下は、あの少年を『同類』と呼びました」
ネルダは翼を畳み、フレッドの寄りかかる杉の枝に舞い降りた。
「同じ《黄昏のしるし》を持つ者として、たいへん興味を抱いておられます」
――――
ヴァネッサ・コレルが知る限り、タイウィン・シルバという男は、人を待たせたことがない。
彼はいつも待つ側だ。
その日、彼女が執務室を訪れたときも、そうだった。彼はすでに机に肘をつき、瞑想するように目を閉じていた。
「少々、厄介なことになりつつある」
挨拶も前触れもなく、タイウィンは口を開くなりそう言った。これもまた、ヴァネッサが知る限りは常にそうだ。彼は用件を切り出すとき、余計な前置きはしない。
「ジェフ・キャスリンダー少年のことだ」
「でしょうね」
ヴァネッサは驚かずにうなずいた。このところ、彼女の頭を悩ませている、大きな問題の一つ。彼女の
世界最後の竜殺し。
タイウィンから彼の指導を頼まれたときは、ヴァネッサも何度か断った。荷が勝ちすぎている、と思う。指導力や魔導技術に優れた教師ならば、他にいくらでもいる。
だが、最終的には受け入れるしかなかった。
学長であるタイウィンが業務命令を下せば、拒否することはできない。それに、指導力という面以外で、彼女以上の適任はいないこともわかっていた。
すなわち、戦闘力。
「小遠征で使った魔法――《魔人》ダーニッシュにも気づかれただろうが、他にも面倒な連中に嗅ぎつけられた」
「つまり、宮廷ですか」
「ああ。《幻視者》どもだ。ジェフが峡谷を割った魔法から、数人の術者は気づいた。秘密主義者のやつらのこと、開示する気はないだろうが」
タイウィンの顔は、逆光で良く見えない。
が、その声から、彼が珍しく苛立っているのはわかった。瞳にも、わずかな敵意のようなものが覗いている。
「まだ、あくまで数人の《幻視者》に気づかれたにすぎない――だが、事態は深刻だ。ジェフ・キャスリンダーの存在を知る者をこれ以上増やすわけにはいかん」
タイウィンの視線を受けながら、ヴァネッサはひどく落ち着かない気分になった。この学園長の目つきは、他人を居心地悪くさせる何かがある。
「私は宮廷で彼らに接触し、情報統制をとるべく交渉してくる。長ければ十日だ」
「では、その間――」
「きみが万事、ジェフ・キャスリンダーの身辺をフォローすることになる」
来たな、と、ヴァネッサは思った。
この学園長は無理難題ばかりを押し付けてくる。思わず、ため息が漏れた。
「あの。それはつまり、彼女のことを気にしていますか?」
「ジータ・ストーナー」
タイウィンは、大きくうなずいた。
「注意してくれ。宮廷の連中のことだ。ジェフ・キャスリンダーの能力を知った者が、どんなくだらない考えを起こすかわからん」
「例えば?」
「前例を挙げるなら、そう――」
タイウィンは肩をすくめた。
「縁談だな」
小遠征編 おわり
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