16.哲学者の剣
ジェフは飛翔するスノウを見た。
彼の翼が大きく膨れ上がり、たなびく黒煙をまとって飛ぶ。瞳は爛々と赤く燃え上がり、嘴から漏れる鳴き声は、普段のスノウからは想像もつかないほど獰猛に聞こえた。
ワイバーンはこれを迎え撃とうとして、応じるように翼を広げて舞い上がった。
顎を大きく開き、咆哮をあげる。『破壊』の
「どうしてこう、愚かなのか」
スノウは上機嫌に笑い、咆哮がもたらす『破壊』の障壁をたやすく突き抜けた。
「私に挑むつもりなら、分をわきまえろって言いたいですね」
空を縫うようにまっすぐ飛び、スノウとワイバーンがすれ違う。
交錯――黒煙がかすめた一瞬、ワイバーンの腹部の肉が爆ぜた。食いちぎられたような、凄惨な傷跡ができていた。
同時に響いたワイバーンの絶叫は、憎悪と苦痛に満ちていた。
「そう、それ、それです」
スノウは黒煙をまとって、ワイバーンの周囲を飛翔する。
「それが聞きたかったんですよ。もっとお願いしましょうか」
「スノウ!」
ジェフは咎めるように彼を呼んだ。スノウが狩りの獲物をいたぶるのは、あまりいい趣味ではない。それに、もう牽制と時間稼ぎの役目は終わっている。
「わかってますよ。若の魔法に、巻き込まれたら大変だ」
いくらか不満げではあったが、スノウは羽ばたいてさらに高度を上げた。
ワイバーンはそれを追おうとして、寸前で地上を振り返った。
そちらから、恐るべき速度で接近してくる者がいる。
「悪いな」
翼のように膨らみ、変形した灰色のマントを羽ばたかせ、ジェフは一気に高度をあげていく。
「これも本来、お前を相手に使うものではない」
老師から受け継いだこの灰衣には、竜を討つための《しるし》が複数与えられている。あるときは盾であり、あるときは武器であり、また翼でもあった。
「あまり時間はかけないようにする」
ジェフは黒檀の杖を構えた。先端をワイバーンに向ける。
この時点で、ワイバーンにはまだ、戦う気力が残っていた。顎を開いて、喉の奥から炎を生み出す。『破壊』と『火焔』の
それが空を焼き、まばゆい炎となって吐き出された。
「ああ」
ジェフは黒檀の杖を振った――ごく軽く、上から下へ。
「警告だ。抵抗もしない方がいい」
銀の《しるし》が閃く。ただそれだけで、瞬時に炎は霧消していた。なぜ、と、ワイバーンがそれを不可解に思う暇もない。
次の瞬間、彼の巨体を、強烈な重力が捉えていた。理解できないほど巨大な鉄槌で殴られたような衝撃。ワイバーンの高度が一気に落ちる――叩き落とされる。だが、完全に飛翔力を失う前に堪えた。
翼を振り、吠え、『破壊』の
長い首を捻って、ジェフを見上げる。
「さすがに耐久力はあるようだが、やめておけ」
ジェフは黒檀の杖を振り上げた。その杖が形状を変えていく。銀色の《しるし》を浮かべ、激しい火花を散らしながら、さらに長く伸びる。
「もう、あと一撃だ」
呟いたジェフの右手には、杖の代わりに、鉛色の長剣が握られていた。
ジェフの老師は、この魔法を竜殺しの主力として位置付けた。
与える
ゆえに、使い手には強靭な自己支配力が求められる。
《哲学者の剣》と、グラム・キャスリンダーはそう呼んでいた。
(頼むぞ――)
ジェフはゆっくりと剣を振り下ろす。
重要なのは、力の制御だ。この数日、そればかりに専念してきた。
(いけ)
壊れやすい砂糖菓子に、巨大な刃を滑り込ませるように、慎重に。銀色の《しるし》が、剣の刀身を伝う。輝きを増しながら、ジェフの腕を逆流してくる。
そして、絶望的な破壊が引き起こされた。
振り下ろされた剣から、黒い力場が解き放たれる。
ワイバーンは回避も、防御の余地もなく、その直撃を受けた。
悲鳴もなく一瞬で両断され、力場に飲み込まれる。
それどころか《哲学者の剣》は、はるか下方の地面を砕き、抉り、断ち割っていた。轟音――地響き――地層が崩れ落ち、破壊されていく。
「ううむ」
ジェフは剣を杖に戻しながら、唸り声をあげる。
「――以前までよりは、だいぶ加減できた――気がする」
「若、それマジで言ってます?」
スノウの呆れた声が聞こえた。
この日、緑の峡谷に、ひとつ新しい谷が増えた。
――――
《秘匿騎士》フレッド・アーレンは戦慄した。
(信じがたいな)
目の前で解き放たれた《しるし》は、彼が育て上げた異形を滅ぼすどころか、その余力で峡谷に新たな地形を作り出した。
(こんなことを、閣下が真に受けるだろうか? いずれにしても――)
フレッド・アーレンは動き出す。
(あの子供、かなり深刻だぞ。学園の秘密兵器に間違いない。どうやって生み出したか知らないが、帝国にとって危険すぎる)
深呼吸をし、震える腕を押さえつけ、杖を構えた。急斜面すれすれに身を伏せ、灰色の少年を正面に見据える。
(ここで殺しておかないと、まずい)
灰色の少年が、ゆっくりと翼を広げて落下してくる。
狙うとしたら、着地する瞬間――フレッドの《しるし》で狙撃する。その余地は十分にある。治癒困難な手傷だけでも負わせることができれば。
(やるしかない、よな)
旧帝国の《秘匿騎士》の居場所は、いまの王国にはない。
(それに、俺は《秘匿騎士》だ。撤退したことはあっても、任務を放棄したことはない)
だから彼は、彼自身の生活と、ささやかな名誉のために戦っている。
フレッドは慎重に杖を構えた。
その瞬間だった。
木々の間から、強烈な殺気を感じ取ることができたのは、ひとえに《秘匿騎士》としての経験に由来する。
ぎゅっ、と、土と草を蹴る音。
恐ろしく俊敏な銀色の影が、野生動物のように跳ねるのを見た。
「おい」
ぎりぎりのところで体を沈め、その襲撃を回避した。
「邪魔すんなよ」
フレッドは苦笑した。
銀色の影は、どうやら少女のようだった。あちこち破れてはいるが、紺色のローブを纏っているところを見ると、学園の生徒なのだろう。
どこか無機質だが、敵意に満ちた目で、フレッドを睨んでいる。
「まったく参るな。お前、あの子供の護衛ってやつか」
「《
それは肯定、ととれる言葉だった。
「私が許可しない」
銀髪の少女は低い姿勢をとった。四つん這いに近い。その両腕が猛禽の鉤爪に変化していることに、フレッドは気づく。そして何より、彼女の頬にある入れ墨――《しるし》だ。
(《
フレッドは杖を握りなおす。
(こいつらはほとんど獣、というより異形に近い。その俊敏さ――接近戦だと脅威だが、まあ、相手が悪いな)
フレッドは速やかに
(この距離なら、俺の方が速い)
その自信がある。
彼は左手でそっと外套の内側に触れた。
フレッドの魔法の正体は、外套の内側に隠し持ったナイフの射出にある。
光の屈折を操り、ナイフを透明化して、高速度で打ち出す。
種を明かしてしまえば単純なものだが、完全にナイフを透明化するには、それなりの努力が必要だった。普段から持ち歩き、慣れ親しんでいるナイフでなければ、途端に
一度の戦闘で使い果たしてしまえば、それで終わりだ。
だが、合計十本。
これだけあれば、大抵の敵を沈黙させることができた。
(《
いくら彼女らの異常な知覚でも、透明化したナイフを見切ることはできない。
そうなるよう、鍛え続けてきた。
(これで――)
銀髪の《
その一瞬、頭に衝撃が走り、視界が揺れた。
(なんだよ?)
バランスが崩れる。
大したダメージではない、と即座に悟った。せいぜい、強めに平手打ちされた程度のものだ。だが、彼はまったく気づくことができなかった。魔法が起動された瞬間がわからない。
「スリカさん」
どことなく陰気な声が聞こえる。
「あの、そいつ、敵です……よね?」
ふらついた足取りで、一人の少女が近づいてきていた。金髪に、暗い瞳。頭部から軽い出血――額のあたりを押さえている。
右手には、杖。
「え、援護、します……!」
どうやら意識が朦朧としているようだ。焦点の定まらない目で、こちらを見ている。杖を振り上げる。
(なんだこいつ――いや。なんでもいいか)
フレッドは即座に魔法を組み立てなおす。
(二人とも仕留める)
ナイフの残弾は十分にある。何の問題もない。いまは奇襲で一撃を受けたが、それだけだ。この反撃で終わらせられる――
だが、それはフレッドの大きな誤算だった。
(あ?)
フレッドは自分の右手から杖が離れるのを見た。
軽い痛みを、手首のあたりに感じる。『衝撃』の
頭の中でいくつかの疑問が渦巻く。
(打ち込まれたのか? いまのは魔法だろ? 俺が先に?)
馬鹿な、と思う。
この少女は、いったいどんな使い手なのか。
「わあっ」
むしろ自分の魔法の成果に驚いたように、金髪の少女はもう一度杖を振り上げた。『衝撃』の
今度は、よく見えた。
(そうか)
また頭に衝撃。
(こいつの魔法――)
フレッドはバランスを完全に崩した。急斜面に足を踏み出したのは意図的なものだ。銀髪の《
そのまま、落下する。
(どうなってんだよ。この希薄な魔力価。本当に学園の生徒か?)
魔導士としても、見習いとしても、圧倒的に魔力価が薄すぎる。それ故に、起動が速い。フレッドですら追いつけないほどに。
(信じられるか? こんな馬鹿みたいな――)
代償は、威力の弱さと魔力価枯渇の速さ。
フレッドは知らないが、メリー・デイン・クラフセンの『衝撃』の
(くそっ)
フレッドは吐き捨てた。
(最悪だ)
そうして、彼は落ちていく。
首の付け根を、銀髪の《
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