15.鉛の悪魔
(これが、竜?)
ジェフは愕然とした。
(こんなものが、竜だと?)
ユリーシャは確かにそう言った。
(違う)
どうやら人々は、本当に竜のことを忘れてしまったらしい。本物の竜は、こんなに未熟で歪んだ存在ではない。
ジェフにはその異形と、竜との違いがよくわかる。
体躯、魔力価、その身に与えられた
竜ではない――ワイバーンという。
縦に割けた琥珀色の瞳をぎょろりと収縮させ、そいつはまぶしげに太陽を見上げた。
なるほど、竜ではない。
が、十分に危険な相手だ。いまのジェフにとっては。
「メリー」
ワイバーンの挙動を観察しながら、ジェフは抱えたままのメリーに呼びかける。
「は、はいっ?」
裏返った声が返ってくる。叫び声を止め、ずいぶん大人しくなっていたため、気絶したのかと思った――少なくとも負傷はなさそうだ。その点は安心できる。
「メリー、約束してほしい」
「あ、あの、な……何を……?」
「動くな。隠れていろ。危険すぎる」
ジェフの言葉を証明するように、ワイバーンが再び翼を羽ばたかせた。軽く宙に飛び上がる――そして、咆哮をあげた。
今度の咆哮は、先刻のものより強力な『破壊』の
それは風と混じり合い、周囲を巻き込んで吹き荒れた。木々がへし折れ、なぎ倒され、洞窟の出口で足を止めていたトロールたちを巻き込む。轟音とともに岩盤が粉砕されて、崩れ落ちる。
洞窟の出口が塞がっていく――これで退路も断たれた。
「うそ……でしょう、いくらなんでも……」
メリーがかすれた声をあげた。愕然とした表情だった。
「いいか。約束だ。動かないでくれ、メリー」
「……は、い」
メリーは小さくうなずいた。どちらかといえば、衝撃のあまり動けなかっただけのように思えた。だからジェフはメリーの表情を確認しなかった。
「俺は行く」
肯定の意だけを受け取って、動き出す。
ワイバーンが、先ほどの一撃で吹き飛ばされたユリーシャとエレノアに視線を向けていた。トロールたちが入口で岩盤の下敷きになったいま、動いている生き物は彼女らと、ジェフたちしかいない。
(魔法に頼るな)
ジェフは強く自分を戒める。
(約束がある)
魔法無しで、あの異形とどこまで戦うことができるか。
ワイバーンという存在を、ジェフは知ってはいるが、どれほどの強さかは具体的に知らない。彼の知識は、あくまでも竜と戦うことに特化している。竜との見分け方さえ知っていれば、それでよかった。
「メリー、ジェフ! 来るな!」
ユリーシャが叫んでいた。杖を構え、空中に《しるし》を描き出す。それも、あわせて五つ。
赤い《しるし》が、火花を散らして魔法を起動させる。
「こちらで気を逸らす。どれほど持つかわからない――」
いままでのものよりも強い、五条の雷が空中を走る。
「きみたちは逃げろ!」
雷の狙いは、今度も正確だった――まっすぐ虚空を貫いて、ワイバーンの頭部付近に突き刺さる。
しかし、ほとんどダメージを受けた様子もない。
硬直もしなかった。
ただ、煩わしそうに首を振り、ユリーシャに向けて牙を剥きだす仕草をしただけだ。喉の奥から、地を揺らすような唸り声が漏れる。琥珀色の瞳が、彼女たちを睨んだ。
「エレノア!」
その名を呼ぶユリーシャの声に、かすかな怯えも混じっていたように思う。
「最大威力のやつを使ってくれ。この際、危険なものでも構わない!」
「やったね」
どこか間延びした、エレノアの応答だけはいつも通りだった。右の籠手を構え、人差し指をワイバーンに向ける。恐らく、頭部に向けているのだろう。
「許可が出たので、光熱爆撃実験第二十七回」
肘の部分にある取っ手らしきものを掴んで、強く引く。
「これで、ど――うわ、わ、わああああっ?」
台詞の後半は絶叫になった。勢いよく後ろのめりに転倒している。
きん、と耳の奥を貫くような、甲高い音を聞いた気がする。
空気を揺らす、強烈な熱波の閃きがあった。
ワイバーンの頭部あたりで、前触れもなく光が弾けた。瞬時に光が溢れ、ワイバーンの上半身を包む。その光に焼かれた枝が、たちまち燃え上がるのをジェフは見た。恐らくは『焼却』と『閃光』の
ワイバーンには、ほとんど対応する暇はなかった。
せいぜい翼を畳み、自らを守るようにしてみせただけだ――が、それだけで十分だった。
大きく一度だけ首を振り、炎と、立ち込める陽炎を振り払う。目を瞬かせ、閃いた光の影響から脱する。やはり、負傷らしきものは一切ない。
ワイバーンは口を大きく開け、咆哮をあげた。
ジェフにもわかるほど、強い怒りに満ちた咆哮だった。
「……あれも効かない、か」
ユリーシャは絶望的に呟いた。彼女の視線の先では、ワイバーンが動き出している。それはもはや、完全にユリーシャたちを敵視していた。
赤黒い異形が、やや緩慢な一歩を踏み出す。
(だが、無意味ではなかった)
ジェフはこの間、足を止めていない。
姿勢を低く、下草を掻き分けるように、ワイバーンへ向かって駆けている。ユリーシャたちの攻勢は、ワイバーンの気を引き、飛行を阻止することに成功していた。
(よくやってくれた)
空を飛ばれては、ジェフにはワイバーンを攻撃する手段がない。
ワイバーンまで、あと五歩分。
ジェフが攻撃態勢に移ろうとしたとき、その横を銀色の影がすり抜けた。
「《
スリカ・ヤヴォン――彼女は合わせてくれるだろう、と思っていた。スリカは追い抜く瞬間、小声で呟いた。
「先駆けを務めます」
ワイバーンがジェフと、彼女の接近に気づいたときにはもう遅い。
鉤爪となったスリカの右腕が、大きな弧を描いた。それはワイバーンの首筋へ鋭く突き刺さり――振りぬく前に、そこで止まった。
本能的な反撃、に近い。
ワイバーンがその尻尾を振り出し、スリカを振り払おうとした。彼女は攻撃を中断し、宙を回転しながら跳び下がる。それもまた、獣のような反射神経だった。
攻撃は失敗――だが、スリカは跳び下がりながらジェフを見ていた。
ワイバーンの尻尾が伸びきる一瞬、そこに決定的な隙が生まれている。
(やれるか)
ジェフは黒檀の杖を握りしめた。魔法は使えなくても、単なる杖としては使える。
狙うのは、スリカが鉤爪を突き立てた一点。真っ赤な血がこぼれている。それは確かに傷だ。正確にねじ込むことができれば、ダメージは与えられる。
大きく一歩を踏み出したジェフは、しかし、それが完遂できないことを同時に悟った。
(『破壊』と『火焔』のコード)
ジェフはワイバーンの口元に、いびつな《しるし》が生じるのを見た。炎がちらつく。
(ブレスだ)
前進を停止する。思い切りブレーキをかけ、背後に飛びながら警告する。
「ユリーシャ、エレノア!」
ワイバーンが口を大きく開く。咆哮する。
「ブレスだ、防御しろ!」
ジェフは灰色のマントを広げ、己の身を守りながら地面を転がった。
ユリーシャとエレノアが、それぞれに『保護』の
――――
ワイバーンの炎が収束すると、あとには燃え盛る森があった。
すでにほとんどの樹木が破壊されるか、炎に焼かれるかしていて、無事な部分は少ない。ユリーシャとエレノアは無事だろうか――ジェフが見たところ、とりあえず原形はあるし、火だるまになってもいない。
ただし、倒れたまま動かない。
気絶しているのならば、まだ助かるが――落ち着いて安否を確かめるには、ワイバーンに退場してもらわなければならない。
ワイバーンは、いまだ煮えたぎるような憎悪の目で、ジェフを見下ろしていた。
いまのブレスで無事だったのが、不愉快なのかもしれない。
「《
スリカが、いつの間にか彼の傍らにいた。彼女もまた、目立った負傷はない。ただ、ローブのあちこちが焼けていた。
「魔法を使わないのですか?」
真剣だったが、責めるような口調ではない。ただ、心から不思議そうだった。
「あなたの魔法ならば、ワイバーンごときは――」
「約束をした」
ジェフはワイバーンから目を逸らさない。琥珀色の瞳を正面から見つめる。
「重要な約束だ」
「そうですか」
スリカの反応は、予想外なほど淡々としていた。
「《
ワイバーンが先に動き出す。首を伸ばし、息を吸い込む。『破壊』と『火焔』の
スリカは珍しく、ジェフにだけわかる程度に微笑んだ。
「どうか、死者の国までお供させてください。それこそが私の幸福です」
「そうか。だが、死ぬ気はない」
短く答え、ジェフはもう一度、攻勢に移ろうとした。
ブレスの炎を掻い潜って、ワイバーンの懐に入る。炎を完全に回避することはできないかもしれないが、それ以外に攻撃する手段はない。
自分の体に刻まれた『黄昏のしるし』による、頑強さと回復力に賭ける。
(なんという有様だ)
自分の弱さを、ジェフは痛いほど認識した。
(魔法がなければ、ワイバーンにすら勝てない。傷一つつけられない)
だが、何よりも納得できないのは、
(だから、せめて)
何を代償にしてでもワイバーンを追い払う。
そう決めたところで、ジェフは気づいた。
(――なんだ?)
ジェフはワイバーンから目を逸らさなかった。
だから、その瞬間も最初から最後まで見ることができた。
鈍い鉄の色に輝く、矢のような何かが飛んできて、ワイバーンの頭に突き刺さった――というより、ただ単にぶつかった。
だからそれは、すぐに効果を発揮した。
ばむっ、と、やや間の抜けた爆発音。
そして濛々たる黒煙が膨れ上がった。
ジェフの視界をすっかり遮るほどの、異様な煙――見たことがある。教室だ、エレノアの発明品のひとつ。彼女は《
ワイバーンが絶叫をあげ、首を振りながら飛び上がった。短い距離を羽ばたいて、ジェフとスリカから離れる。煙のせいか、くしゃみを繰り返し、地面をその後ろ足で引っかく。
ブレスは吐き出されることはないまま、飲み込まれてしまったようだった。
「ど、ど、どどどどどうですか! ジェフさん!」
メリーの声。
「もう安心してください。この、大天才――の、メリー・デイン・クラフセンがついています」
膝が震えているものの、ジェフにはまったく理解できないほど、堂々と仁王立ちしていた。
「あんなやつ、ぜ、ぜ、絶対やっつけますからね……! こんなところで、死にたくない!」
「《
スリカはひどく冷たい目で彼女を見ていた。
「あの女のせいで、ワイバーンに距離をとられてしまいました。どうしますか?」
もしかすると、スリカはメリーのことがあまり好きではないのかもしれない、と、そのときジェフはようやく思った。しかし、いまはその問題を解決するべきときではない。
眼前にはワイバーン。
そして、もう一つ――大きな疑問がある。
「……メリー」
ジェフには聞かなけれならないことがあった。
「なぜだ?」
「な、なぜって、それはもちろん」
メリーは引きつるように笑った。どこからどう見ても、無理をしていた。
「チームメイトの窮地を助けるって、約束だったじゃないですか?」
「それなら、俺もきみと約束した。動くな、だ」
「約束くらい破りますよ! 悪いんですか?」
ほとんど叫ぶような声だった。
「っていうか、悪くてもいいです。もともと私、実家からは勘当同然で、家のものも盗んできて、学園に不法侵入とかして、無理やり生徒になったり……ろくなことしてないんですけど、あの」
喋るたびに、ますます卑屈な笑い方になる。声も弱弱しくなる。最後の方は、ほとんど泣き声のようだった。
「それで本当に大事なことができるなら、ぜんぜん大丈夫です。何を言われても頑張れます」
メリーは震える足で歩きだそうとしている。
「私、大天才の魔導士になって、みんなを守ってちやほやされたいんです。いまやらなきゃダメなんです。大天才って、そういうものだし……! 大天才じゃなきゃ、生きる意味ないし、皆を見返せないじゃないですか!」
「そうか」
何を言っているか八割くらいわからない、とジェフは思った。
理解できた部分は、少ない。
だが、それが重要だった。
「そうですよ」
メリーが近づいて来ようとしている。足が震えるあまり、そのたった一歩すらおぼつかない。
「だからジェフさん、ここは私の秘められた力に任せて――」
その言葉を遮って、ワイバーンが再び咆哮をあげた。
単純な『破壊』の
「そうだな」
ジェフは、ただその場に立っていた。
灰色のマントが風を受けてはためいている。翼のような形に広がっていく。『保護』の
「メリー、きみには教えられてばかりだ。翡翠庭園では、嘘をつくことを教わった」
ジェフは呟く。
「今度は、約束を破ることだ。俺には、その発想はなかった」
ジェフには思いもつかないことだった――それで仲間を助けられるなら、迷いなくそうするべきだ。
(俺は未熟すぎるな)
ジェフは黒檀の杖を握りなおす。ゆっくりと、その杖に魔力価を通していく。
正面に見据えるワイバーンは、異物を見るような目でジェフを見ていた。
自分の咆哮を何事もなかったかのように耐えたのは、予想外だったのだろう。
「スノウ!」
ジェフはその名を呼んだ。ずっと前から気づいていた。こんな絶好の見世物を、彼が見物していないはずがない。
「手を貸してくれ。竜ほどではないが、久しぶりに少しは手ごたえがあるだろう」
「――ようやく遊びに誘ってくれましたか!」
スノウは羽ばたきながら、ジェフの頭上を旋回する。
「待ちくたびれましたぜ。自分だけ遊んでるんですから。友達甲斐のないお人だなあ――と思ってました。おまけに、馬鹿みたいな理由で死にかけてるし」
「俺もうっかり死ぬところだった」
ジェフは杖を眼前に翳した。
「俺は世界で一番くらいに強いが、未熟すぎる。それに間抜けだ」
「いまさら気づいたんですかい。それこそ間抜けな話ですな」
スノウの嘲笑も気にならない。
ジェフは己の意識が、どこまでも鋭く尖っていくのを感じている。
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