2.ヴァネッサ研究室

 その研究室は、学園の最北端に位置していた。

 見た目も決して立派とはいえない。もともとあった校舎に、急ごしらえで増設したかのような木造の小部屋であった。いまジェフが住まいとしている、礼拝堂裏の物置と大差のない施設に見える。


「やっぱり。噂通りですね」

 入口のドアに打ち付けられた札を、メリーは指差す。

 ヴァネッサ研究室ゼミナールと記された札だった。

「所属する生徒の成績によって、研究室の待遇が違うんですよ。たくさん予算が出たり、いい機材を使えたりするんです。ええ。つまり、ヴァネッサ先生の研究室っていうのは――」


「見ての通りってことですな!」

 スノウが大げさに翼を広げて鳴いた。彼はどうも楽しんでいる気配がある。

「ああ、こりゃひどい。風が吹いたら倒れちまいそうだ。雨漏りもしそうですぜ」

「はい。もちろん――わかってましたとも」

 メリーは爪を噛んでいた。ぶつぶつと呟く。

「愚民っていうのは、天才の価値を最初は理解しないんですよね。大丈夫。マインドセットできてます。私、こういうみすぼらしい場所の方が落ち着きますから……! むしろ良かったんです! あばら家でラッキー! ヒ、ヒッ!」

 そうして、励ますようにひきつった笑い声をあげる。

「ジェフさんも、気にしないでくださいね! 大丈夫! 私がついてますからね!」


「気にしていない。問題ない」

 もとより、教室の建物などは些細な問題だ。

 ジェフと老師の魔法鍛錬は、主に屋外で行われた。強力な魔法を試みようとすれば、建物はむしろ邪魔になる。

「入ろう。時間だ」

「え? も、もう入っちゃいます?」

 メリーはなぜかひどく慌てた。


「も、もし誰かいたらどうするつもりですか?」

「好都合だ。挨拶をする」

「え、ええー。ジェフさん、コミュニケーション強者すぎませんか?」

「普通だと思う」

「あ、あの、じゃあ! 私、昨日ほとんど徹夜で考えてた挨拶の言葉があるんですけど、どれにするか決めてからにしません?」

「俺は考えていないので、先に行く」


「うあっ! ジェフさん、メンタル強い!」

 奇怪な悲鳴をあげ、メリーは止めようとしたが、当然のようにジェフの迷いない動作の方が速い。ドアノブに手をかけた。

 ――その瞬間、ドアが自ら開いた。

 というよりも、弾けて飛んだ。

 ジェフがその反応速度で身をかわさなければ、直撃を受けていただろう。吹き飛んできたドアと、転がり出てきた人影によって。


「う」

 転がってきた人影は、低い呻き声をあげた。

「うぐ」

 どうやら少女のようだ。短く切り揃えた金髪にはやや癖があり、ジェフよりも年下に見える。

 特筆すべきは、その身に纏う騎兵甲冑のような鎧だった。右腕の籠手が歪んで、煙を上げているのも気になる。

「また失敗……ここまで予想通り」

 鎧姿の少女は、癖のある金髪をかきむしり、呟きながら上半身を起こす。

「うまくいかないなあ。先が長くて、気が遠くなりそう」

 続いて、彼女は何度か咳をした。右腕の歪んだ籠手を、もぎ取るように外していく。


「やあ、やあ」

 スノウが気楽な鳴き声をあげる。ジェフや人間たちをあざ笑うときに、彼がよくあげる声だ。彼はもう研究室の屋根の上に避難していた。

「これは驚きですな、若。隙間風や雨漏りどころじゃなく、中から人間が飛び出してくるなんて、都会ってのは大変なところだ」

「違います! 都会のせいとかじゃないですよ……!」

 メリーが駆けよって、鎧姿の少女を覗き込んだ。明らかに怖がっている。どちらかといえば、その怯えは、見知らぬ人間に話しかけるときの緊張に近い。

「いや。あの。だ、だ、大丈夫ですか? えーっと、あの……その……」


「ん、あ? あれ、そうか。ごめんなさい」

 鎧姿の少女は、苦笑いをして頭を下げた。やや間延びした調子で言葉を続ける。

「まさか、私たちの研究室の入口に人がいるなんて。ぜんぜん思わなかったので……失敗はいつも通りなんだけど。怪我してない? ですか?」

「え? え、あ、えっと、怪我は、はい。その――」


「こちらの負傷はない」

 メリーだけでは、あまり話が進みそうにない。

 そう判断し、ジェフは自ら鎧姿の少女と対峙することにした。まずは引っ張り起こすべく、手を差し出す。

「きみは、この研究室の学生か」

「うん。まあね。まだ一応。落第寸前ではあるんだけど――や、あれっ? えっ?」

 ジェフの手を取りかけた鎧の少女は、熱した鍋に触れたように、素早く手を引っ込めた。目が丸くなる。ジェフの手を借りずに跳ね起きる。

「うわっ! もしかして、きみ、男子学生? それって、今日来ることになってたやつ?」

「おそらく、そうだ」


「やっぱり! 本当だ、本物の男子学生だ……すごい、学園長の新しいジョークかと思ってた」

 ずいぶん興奮した様子で、鎧の少女はジェフを指差した。やや違和感を覚え、ジェフは少し首を傾げる。

「男がそこまで珍しいか」

「それはそう。あのね、この学校ってさあ、先生は男の人がいるけど、同年代の男子って――」


「エレノア!」

 教室の中から、鋭い声が聞こえた。また一人の少女が飛び出してくる。

「何をやっている! 大丈夫か? 生きているなら返事をしろ!」

 ひどく目つきの険しい、黒髪の少女だった。こちらはジェフよりも背が高く、もちろん鎧姿でもなかった。濃紺のローブを、几帳面に校章つきのボタンで留めている。

 誰かに似ている、と、ジェフは思った。


「だから私は断固として反対したんだ。いつもきみは無謀すぎる。安全な実験計画を策定し、ヴァネッサ師の承認を得て、そのうえで実行に移すべきだ!」

「言うけどさあ、そんな悠長なことやってられないよ。承認も降りるわけないし」

「危険すぎるからだ! 現にこうして吹き飛んで、通行人の方に被害を――、む」

 喋りながら、ようやく彼女はジェフたちに気づいたらしい。目つきがさらに険しくなった。その色は警戒に近い。


「――男子だと? どういうことだ?」

「ああ、うん。そうそう。男子だよ!」

 鎧の少女――おそらくエレノアというのだろう。彼女は緊張感のない笑顔を浮かべた。

「ヴァネッサ先生が言ってたでしょ。男子が来るって」

「なるほど。彼が、あの――」

 長身の少女は何かを言いかけて、やめた。ただ、いまだに警戒した目つきでジェフを見据えている。


「いえ。あの」

 メリーが控えめに手をあげた。

「私も今日からこの研究室に入る、大物新入生なんですけど……? なんかジェフさんだけ注目されている、ような……」

「あ、ああ――すまない」

 長身の少女は、ごまかすように咳ばらいをした。

「つい、珍しいことなので。そちらの方にばかり注目してしまった」

「いいんですけどね。ヒ、ヒヒッ。私、そういうのは慣れてるんで……別に……ぜんぜん根に持ったりしませんから……」

「そ、そうだろうか? それなら、あまり睨まないでほしいが。やや怖い。ええと、きみの名前は確か――」


「メリー・デイン・クラフセンです」

「ジェフ・キャスリンダーだ」

 好機と見て、ジェフは間髪を入れずに名乗りを続けた。

 いつまでも『男子』といった生物学的名称でのみ呼ばれては、自己紹介までの道のりすら遠すぎる。目的はもっと先にある。こんなところで時間をかけてはいられない。

「《鉛の》ジェフ」

 ジェフは片手を差し出した。


「我々は今日から、きみたちの同級生となる」

 少し考えたが、結局は素直に告げることにする。ありのままを。

「メリー・デイン・クラフセン――彼女は天才魔導士の見習いで、俺は竜殺しの魔導士だ。ともに学ぶことは、きみたちにとって価値あるリソースを提供できると思う。宜しく頼む」


 エレノアも、長身の少女も、一瞬だけ顔を見合わせた。それだけだ。ジェフの手を取る者はいなかった。

 スノウがあざ笑うような鳴き声をあげていた。


 これは困る。円滑な自己紹介とはいかなかったようだ。

(これが協調性を学ぶということか)

 ジェフは視線を彷徨わせ――そして、それに気づいた。

 研究室の窓から、じっとこちらを見つめる一人の少女がいる。色素の薄い、銀色の髪の少女だった。彼女だけが、ジェフに向かって深々と頭を下げた。両手を組み合わせた、祈るような仕草だった。

 その右頬に、幾何学的な入れ墨が垣間見えた。


「カーフ=ガト」

 ジェフはほとんど反射的に呟いた。

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