小遠征
1.約束の姫
王立ダルハナン・ウィッチスクールの片隅に、小さな礼拝堂がある。
ここに祀られている存在を、約束の姫、という。
旧帝国の時代より崇拝されていた神格で、かつて万物と約束を交わした者とされている。その姿はしばしば、四枚羽のムクドリを従える乙女として描かれた。現在でもその信仰者は多く、王都の政治中枢に食い込んでもいる。
王国において裁判を取り扱うのも、約束の姫に誓いを立てた《眠りの奏者》たちの役目である。
ジェフ少年に与えられた住まいは、その小さな礼拝堂の裏にある物置小屋だった。
暗く、狭い。
最初に立ち入ったときは、用途不明の器具の残骸が散乱していた。
「本当に、ここで良かったんですか?」
メリー・デイン・クラフセンは、戸口から彼の部屋を覗き込み、何度か咳をした。
「埃だらけだし、ちょっと狭すぎるんじゃないでしょうか」
「掃除すればいいだけだ」
ジェフは答える。
まさにいま、そうしているところだ。濡れた雑巾で棚を丁寧に吹く。傍らには書籍が積み重なっている。ダルハナン・ウィッチスクールでは珍しい、約束の姫に関する詩のような書物の数々だった。
「それに、この広さは――お爺ちゃんと暮らしていた庵と同じくらいだ」
「そうでしょうか」
ジェフの解答に、メリーはまだ納得しない様子だった。
「女子寮はものすごい奇麗で、豪華でしたから。もっと広くていい場所がありますって! と、友達のジェフさんのためなら――私、学園に呪いの手紙を一万通くらい送りますよ!」
「いやいや、いや! そんな必要ありませんよ、お嬢さん」
古びた水盤に止まっていたスノウが、不吉に鳴いた。笑いを含んだ声だった。
「若はこういう場所の方が落ち着くんですよ。屋根があるだけマシなもんだし、ここは風を防ぐ壁まである。至れり尽くせりですな!」
「そうですか? ジェフさんが大丈夫なら、それはまあ……いいんですけど」
メリーが室内を見回す。どこか暗い瞳で。
「私なら、もう少しまともな部屋にします。知ってますか? この物置小屋の噂」
「何をだ」
「幽霊ですよ」
陰気な声音に、ジェフの手が止まった。
「出るんですって、この礼拝堂。もともとこの学園、昔は王城として築かれていたらしいんですけど……その途中で、あまりにも奇怪な事故が起こりすぎて、すぐに移設案が出たそうです」
ジェフは何も答えない。ただ、濡れた雑巾を開き、また畳んだ。メリーは構わず先を続けている。
「結局、王様はいまの王城に引っ越しました……それ以来、この学園には、呪われた亡霊が夜な夜な彷徨い歩くんです。《耳狩り》ボニーとか、地下牢で殺された兵士たちだとか」
自分で言って、自分で怖くなったのかもしれない。メリーはわずかに身震いした。
「そういうのは、呪いの《しるし》のせいだって言う人もいます。だから特に……約束の姫がおわす礼拝堂には、救いを求めた彼らが……」
「メリー。そこまでにしてくれ」
掃除を再開した、ジェフの眉間に皺が寄っていた。
「幽霊は、怖い」
「そうですよ、お嬢さん」
スノウが耳障りな笑い声をあげている。
「若はね、そういうの苦手なんですから」
これには、メリーもひどく驚いた。口元を覆う。
「ええ? ジェフさん、怖いものとかあるんですか?」
「幽霊は倒せない」
ジェフは眉間をしかめたまま、何度も棚の同じ場所を拭いていた。
「竜は殺せるが、幽霊を倒す方法はない。死者の蘇りなら対処できるが、実体のないものを倒すすべがわからない」
「あ。意外……」
隠した口元で、メリーは少し微笑んだかもしれない。
「そんなに怖いなら、礼拝堂なんてやめればいいのに」
「礼拝堂ならば、約束の姫が守ってくれるかもしれないだろう。俺は油断しない。この場所がベストな選択肢だ」
「ジェフさん」
もはや隠すこともなく、メリーは忍び笑いを漏らした。そんな仕草ですら、どこか陰鬱な気配の漂う少女だった。
「なんだか、その……かわ、いえ、用意周到な発言ですね」
「そうだろう」
満足げにうなずいて、ジェフの目が小さな窓の外を見た。太陽が南へと昇りつつある。柔らかい春の陽光が、ジェフの額を照らしていた。
「そろそろ――時間だ」
立ち上がる。雑巾を木桶に突っ込んで、棚を起き上がらせた。
「俺は朝食をとる。食堂に行く」
「え? ちょっと早くないですか?」
「きみも聞いているだろう。今日は
「マイペースですね、ジェフさんは」
文句のような台詞だったが、メリーはまだ微笑んでいた。
「私も行きます! 何しろ知り合いが全然いないので、食堂に一人で行きたくなかったんですよね! 今日もジェフさんを誘おうとしてたんです。一人だと、その……社交性のない人間だと思われて、すごい馬鹿にされるかもしれないと思って!」
滔々たるメリーの口上に、ジェフは数秒ほど考え込んだ。
どのように返答すればよいか、わからなかったからだ。故に、結局はいつもの答えになってしまった。
「そうか」
「そうなんですよ! ジェフさんも独りぼっちでご飯を食べないで済むよう、今日も私が付いて行ってあげますからね……! 逃がしませんからね……!」
「おお、これはありがたい申し出!」
スノウがまた笑った。
「若は一人だと、食べ過ぎたりぜんぜん食べなかったり、加減ができませんからね。私が見守ってあげなくてもいいって寸法で! これで思う存分、私も散歩ができそうだ。久しぶりだなあ」
「スノウ、少し黙ってくれ。俺が分別の無い子供のように思われる。栄養のバランスくらい、考えて食事をしている」
「さて、それはどうでしょうね」
意地悪く嘴を閉じたスノウを、ジェフはじろりと睨んだ。他にできることは、何もない。ゆっくりと背を伸ばし、メリーに向き直る。
「メリー。食堂の場所はわかるか?」
「え? そりゃもう、何回も行ってるじゃないですか」
彼女の言うとおり、ジェフとメリーが学園に来てから、食堂は何回か利用している。唯一の男子生徒だからか、奇異の目で見られることも多かったが、知らない場所ではない。
しかし、ジェフは気まずそうに片目を細めた。
「俺は、まだ道がわからない」
「わからないって、ジェフさん、本気で言ってますか?」
「都会に来て気づいたことがある。俺はどうやら方向感覚に乏しいらしい」
「……し……仕方ないですねえ、ジェフさんは。本当に。ヒヒッ」
メリーの喉の奥から、ひきつったような呼気が漏れる。彼女にとっては、もしかすると満面の笑みのつもりだったのかもしれない。
「大丈夫ですよ。私が案内してあげますから」
「すまない。俺も努力して、すぐに覚える」
「いえいえ!」
メリーの否定は、ひどく素早かった。
「ジェフさんはそのまんまでいいですからね。方向音痴のままで。こういうときには私がついていますから、そこはもう大丈夫なんです! だから永遠に方向音痴でいてくださいね!」
「そうか」
ジェフはメリーの善意を受け取ることにした。親切を受けたときには、感謝するべきだと老師から教わっていたからだ。
「感謝する。メリー、きみは優しいな」
「ヒ――ヒヒッ」
急に顔を伏せたメリーの喉の奥から、またひきつったような息が漏れた。スノウが珍しく黙ったまま、わざとらしく翼を開閉した。
食事が終われば、すぐに挨拶だ。いかにするべきか。ジェフは自己紹介の文言を考えながら、小屋の外に出る。
風には、冬の残り香が混じっていた。
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