3.小遠征
研究室の内部は、外見とそれほど乖離してはいなかった。
むろん、あまり好ましくはない意味で。
長机が一つ。椅子がいくつか。水盤。古ぼけた小型の印章炉。そんなところだ。申し訳程度に書棚があり、埃を被った本が収まっている。
ヴァネッサ教授は、そんな部屋の片隅の椅子に腰を下ろしていた。
「ん。よし」
どこか眠たそうな目をした女性だった。黒いローブは少し大きすぎて、貸衣装のように見える。寝起きのような印象の女――つまり、それがヴァネッサ・コレル教授。ジェフの所属する、この研究室の教師であり、責任者でもあった。
「ちゃんと時間通りに来てたか。新入生。二人とも。きみらは偉いな」
大きく欠伸をして、壁に寄りかかる。
「まったく、これだけで単位をあげたいくらいだ。メリー・デイン・クラフセン。ジェフ・キャスリンダー。歓迎するよ」
「――はあ」
メリーはジェフの横顔を窺って、教室内を見回し、何か言いたげに唇をひきつらせる。そしてまたヴァネッサに視線を戻した。
息を吸い、意を決したように喋り出す。
「あの、すみません。ヴァネッサ――教授」
「お、待った。それな」
ヴァネッサは唇の端を歪めた。どこか気だるい笑い方をする女性だ、と、ジェフは思う。
「ヴァネッサ『先生』って呼んでほしいね。教授ってのは呼ばれ慣れてないし、あれだ。なんか距離を感じない? 『先生』の方がフレンドリーじゃないか?」
「え。あ、じゃあ――はい。ヴァネッサ先生。質問があります」
メリーは教室をもう一度見回した。どうもさっきから、彼女の眼球の動きが落ち着かない。スノウを室内に連れてこなくてよかった、と、ジェフは思った。
彼女のこの様子を見れば、ひとしきりからかって場を乱していただろう。
「この学園の研究室って、一クラス七人だって聞いていたんですけど」
「ああ」
「どう数えても、ここ、生徒は五人しかいませんよね?」
これはメリーとジェフの二人をいれても五人、という意味だった。長机の前に着席しているのは、先ほど見かけた三人きりでしかない。
ジェフは残りの三人を、視界の端で観察する。いついかなるときでも、注意深い観察が生死を分ける。そう教わってきたからだ。
鎧姿で飛び出して来た、癖の強い金髪の少女――まだ鎧を着ている。
やたらと警戒の強い目つきの、長身の少女――どこかで見た気がする顔だ。
そして頬に入れ墨のある、銀髪の少女。
メリーもまた、彼女らを落ち着かない様子で窺っていた。
「あの、残りの二人はどうしたんですか? それともこの研究室って、五人だけなんですか?」
これに対して、ヴァネッサは投げやりに拍手をして答えた。
「いや。他と一緒だ。うちの研究室は七人だよ」
「え……」
「あと二人は、よく欠席するんだよ。ミシェル・リヴァーズは謹慎中。ジータ・ストーナーは……無断欠席だな、また。どうせその辺を徘徊してるんだろう。きみらは真似するなよ」
「えええ」
メリーが唸る。とてつもなく苦いものを口の中に入れたような顔だった。
「そんな不良みたいな人がいるんですか……?」
「まあ、ちょっと違うけど。ちょうどいいや。真面目組の三人はここに揃ってるし。自己紹介済ませとこう――室長、よろしく」
「はい」
ヴァネッサが手を挙げると、長身の少女が応じた。濃紺のローブの裾を几帳面に払い、立ち上がっている。
「ユリーシャ・マーレイ。この研究室の室長を任じられている」
几帳面な角度で頭を下げて、ジェフとメリーを順に見つめる。なぜか、ひどく硬質な視線だった。
力が入りすぎている、と、ジェフは思った。
「ともに学び、成長する仲間として、心から歓迎しよう」
ユリーシャは喋りながらも、自分で自分の言葉に何度かうなずく。そういう癖なのかもしれない。
「わからないことがあったら何でも質問してほしい。留意してほしい点は五つ。第一に、我らが研究室は何かと噂をされることもあるかもしれない。だが、くれぐれも清く正しい学園生徒として――」
「ユリーシャ、話長いよ」
ユリーシャの口上を、素早く打ち切った者がいる。鎧姿の少女だった。彼女は籠手の嵌まった左手を、大きく天井へ突きだした。
「そのくらいでいいんじゃない。眠くなるし。次、私ね」
「待て。新入生のために、少しは我慢してくれ。学園生活についての心構えは重要だ。まだ残り四つ――」
「私、エレノア・ウィルソン」
エレノアはユリーシャの発言を強制的に打ち切った。彼女の喋り方は、ユリーシャとは対照的にどこか間延びして聞こえる。
「彫金師を志望してるの。王城の大工房に勤めるのが夢」
彫金師、という仕事については、ジェフもよく知っている。道具に《しるし》を刻み、長期間にわたって動作する魔法を与える者たちのことだ。
例えば学園にある《印章塔》も、彫金師たちによる大掛かりな『道具』の一つにあたる。
「色々実験とかするのが好き。具体的には、えっと、爆発したり大きな音が出たり、派手なやつ。たまに失敗するけど――よろしくね」
「たまに、か」
今度はユリーシャが異議を唱える番だった。
「私には、頻繁に失敗しているように思える」
「失敗するのは挑戦した証だよ。伝説の
「そう……か? わかった。そういうことにしておく……」
釈然としない様子だったが、とにかくユリーシャは一度黙った。
ついでに何度か首を振り、最後の一人に目をやる。
「ならば、最後は、きみだな。スリカ・ヤヴォン。自己紹介を――」
「はい」
スリカ、と呼ばれた銀髪の少女が顔をあげ、立ち上がった。
「スリカ・ヤヴォン」
彼女の目が、まっすぐジェフを見ていた。指先が、真っ白な頬に刻まれた入れ墨をなぞっている。
その入れ墨が強力な《しるし》の一種であることを、ジェフは知っていた。己の肉体に刻む《しるし》は、相応の代償と引き換えに、大きな力を与えてくれる。
「《
「――《
メリーがその言葉を反復した。
「それって、どこかで」
「遊牧民だ」
これに答えたのは、ジェフの方だった。
「一年を通し、主に北部から西部にかけて旅をして暮らす。喜びの山脈に聖地を持つ。狩猟技術に長けると同時に、強力な身体強化の《しるし》が特徴的だ。彼女の《しるし》も――」
ジェフが目を向けると、スリカは黙って祈るように目を閉じ、頭を下げた。
「強力な
「へええ」
メリーは好奇心と、いくらかの羨望の入り混じった声をあげた。
「ジェフさんって、意外なことを知ってるんですね。え? あ、っていうかなんか違和感ありませんでした? いま? なんていうか」
「――よし。自己紹介、これで一通り終わりったな」
ヴァネッサが欠伸を噛み殺しながら立ち上がった。眠さを堪えていた、というより、自己紹介の間は半分くらい眠っていた可能性もある。
「それじゃあ、これから重要なことを言うよ。ちゃんと聞けよ」
このとき、メリーはジェフに対して、何か言いかけた言葉を飲み込んだ。それどころではなくなった。ヴァネッサの言葉は、そのくらい重要なものだった。
「毎年恒例、みんなの大好きな《小遠征》をやる。三日後だ」
《小遠征》、という。
この聞きなれない響きの単語に、ジェフはメリーの顔を確認した。彼女の顔はひどく青ざめていた。他の三人の学生の間にも、若干の緊張が走るのがわかった。
「まあ、新入生は知らないか。遠足みたいなもんだよ。うちの学園のやることだから、ちょっと色々と厳しいけど」
強張った空気をほぐそうとしたのかもしれない。ヴァネッサは殊更気楽そうな顔で笑った。どこか曖昧な笑い方だった。
「これは
ヴァネッサは室内の学生を、一人ずつ指差した。
「今年の小遠征、成績悪かったらみんな退学なんだよね。新入生には悪いんだけど、うちの学園ってそういう変なシステムなもんだから――頑張ってほしいな」
なるほど、と、ジェフは思った。
(来たか)
このくらいの試練がなければ、竜殺しの難事にはふさわしくない――隣でかすれた悲鳴をあげるメリーを横目に、そう確信した。
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