9.破滅を射る
コーデリアは見た。
灰色の翼を広げたジェフ少年が、黒檀の杖を掲げるところを。
そこから、冷えて乾いた風が吹き付けるのを。
「――なんだ?」
思わず、手が止まった。
稲妻を放つことも忘れる。が、問題にはならなかった。グリフォンたちも一斉にそちらへ注意を向けていた。
異形や使い魔たちは、大抵の人間よりも魔法の兆しに敏感とされる。野生ならばさらに鋭い。故に、空を舞うグリフォンたちの誰もが気づいたようだった。
ジェフ少年の持つ黒檀の杖に、膨大な魔法の力が凝集していく。
「あの杖」
コーデリアも、背筋に冷たい震えを感じた。
ここまで強力な魔法の凝集は見たことがない。いや――身近なもので例えるとすれば――コーデリアは北の空を見た。
正確には、そこにそびえる《印章塔》を見た。
ジェフ少年の手中にある杖は、まるで小型の《印章塔》のようなものだ。
しかもその出力は、学園にある《印章塔》よりも数段高い。
「ジェフ・キャスリンダー」
コーデリアはその名前を繰り返した。振り返ると、ラナと目が合う。
「彼は、その――なんだ? 誰なんだ?」
「いや、わかんないけど」
ラナもまた、半ば畏怖の混じった声をあげた。
「でも、これさ――私たちも隠れた方が良くない? なんか、ヤバくない?」
確かに。と、コーデリアは答えようとした。
その前に、ジェフ少年が杖を振り下ろした。
――――
(重要なのは、集中だ)
杖を掲げ、ジェフは老師の言葉を反芻する。
(己の力のコントロール。冷静さ。自分と、自分をとりまく状況を理解すること)
それは膨大な対竜戦闘知識と、気が遠くなるほどの鍛錬で磨かれた技術の集積であった。
だから、ジェフは良く見る。
警戒しながらも、再び急降下を試みようとするグリフォン。距離はまだある。慎重に間合いを読む。外せば死ぬと思え。その緊張感が、魔法の《しるし》の精度を高める。
「対竜戦闘基礎、その一」
ジェフは口に出して呟きながら、杖を振り下ろす。その先端が、輝く銀の《しるし》を虚空に刻んだ。
「飛んでいる相手は――」
魔法の
「まず、地上に叩き落と――む。あれ」
おおん、と、大地そのものが吠えるような、低く重い音が響いた。大きな震動。
それと同時に、グリフォンの姿は空中から消えている。ジェフの視線はその影を追った。
地上だ。
地面には大きなクレーターと、その中央で圧壊しているグリフォンの死骸があった。力任せに振るう巨人の鉄槌で、大地に叩きつけられたような有様だった。もう動かない。
全身の骨が砕け、握りつぶした枯葉のようになって死んでいる。
「む」
ジェフは無言のまま、自分の黒檀の杖を見つめた。
かすかな困惑。空から叩き落とすだけのつもりだったからだ。
だが、グリフォンたちの群れは待たない。
もとより、『憤怒』の
夜空に甲高い鳴き声が響き渡り、連鎖する。
グリフォンたちが翼を連ね、集まりつつあるのがわかった。その数は百を下らなかっただろう。
スノウがいくらかは止めているだろうが、それでも数が多すぎた。彼らはほとんど身を投げ出すようにして、雪崩を打って急降下をかけてくる。
次から次へと――もはやコーデリアやラナのことは、眼中にないようだった。
「対竜戦闘基礎、その二。集団から攻勢を受けたときには――」
ジェフは老師の教えを再び口にする。竜との戦いが一対一であるとは限らない。群れを成す竜を相手にするには、それに応じた戦術が必要だ。
忠実に、その基礎を思い出す。
防御の技法。
ジェフが黒檀の杖を振り上げると、大気が渦を巻いた。単純で強靭な銀色の《しるし》が、夜空を埋めるほどに大きく輝く。
「攪乱して回避――、あ」
ばっ、と、空が裂けるような、苛烈で鮮やかな音が響いた。
大気そのものが弾けて、破壊的な風を生み出した。渦を巻き、中庭を吹き荒れたのは、ごく一瞬のことでしかない。
「ううむ」
ジェフは再び自分の杖を見つめる。
本来なら、これは強い風を生み出し、攪乱するための《しるし》だった。竜の視界を遮り、機動を阻害するために使う。魔法防御の手段としては、『屈折』の一種にあたる。
このとき、彼の放った魔法の《しるし》は、それを遥かに超えた結果を生んだ。
急降下しつつあったグリフォンたちは、唐突に生まれた暴風によって振り回され、完全に飛行のコントロールを失っていた。
ある者は地面に叩きつけられ、ある者ははるか彼方に吹き飛ばされた。さらに運の悪い者は、弾けた大気そのものによって内臓から破裂して即死した。
そして、中庭にあった何本かの樹木――特にひときわ大きな白樺の木は、根本からへし折られ、ばきばきと音高く倒れていく。
「これは――」
失敗した、かもしれない。ジェフは顔をしかめた。
コーデリアとラナの様子を窺おうとしたが、どうやらいまの暴風で吹き飛ばしてしまったらしい。どこかの草むらに避難してくれたならいいのだが――探すべきか。
と、動きかけたジェフを遮るように、またグリフォンたちの怒り狂う鳴き声が聞こえた。
残りの連中が、懲りずに急降下を仕掛けてこようとしている。あまりにも原始的な戦術。もう数もあまり残っていないというのに、怒りと殺意を収められない。
異形とは、そういう生き物だった。
(彼らは哀れだ)
ジェフは思う。
グリフォンたちは恐怖を知らない。
(こういう突撃は、勇気ではない)
恐れを知らない人間と、勇敢な人間はまったく違う――これもまた、老師からの教えだった。ジェフは足元を見る。
白目を剥いたメリー・デイン・クラフセンがいる。
(彼女が勇敢な人間かどうかは、よくわからないが)
ジェフは杖をもう一度、空に向けて構える。
(変わった人間であることは間違いない)
杖の先端に、これまでよりもはるかに強い銀の《しるし》が灯った。
「対竜戦闘基礎、その三。反撃するときは――」
呟きながら、基本に忠実に、グリフォンたちの一斉降下を迎え撃つ。
「まずは」
このとき彼が形成した
すなわち、『破壊』と、『破壊』と、『破壊』と、『破壊』と、『破壊』と、『破壊』と――まだ足りない。少なくともその
「動きを止める、牽制を――」
銀色の《しるし》が輝く。
次の瞬間、白い光の奔流が、杖の先端から放たれた。
まっすぐに、夜空へ向かって。
それで終わった。
杖から溢れた光は、グリフォンたちをことごとく飲み込み、夜の闇を焼いた。
グリフォンたちは断末魔の叫びすら残せなかった。原型を留めていたものはいない。ただその一瞬の光によって、消し炭になって散っていた。
――少しだけ遅れて、轟音。
学園の西側にそびえる城壁の一部が、丸く抉られたように欠けていた。
ジェフの放った光が射抜いた箇所だ。
強固な白い石積みが砕け、崩れ落ちながら、盛大な粉塵を舞い上げている。
そして目の奥を突き刺すような光が去ってしまうと、あとには、焦げたような風が吹き抜けるだけだった。
ジェフは顔をしかめて、黒檀の杖をしばらく見つめていた。
いまの光の一撃を、老師は《
「――ジェフくん」
名前を呼ばれる。
ほとんど葉が散らされた木の影から、コーデリアが顔を出していた。
「ああ、その……いまのは、間違いなくきみの魔法なのか?」
「そうだ。失敗した」
老師の言っていた通りだ。竜を殺すための魔法の《しるし》は、竜以外に使うべきではない。
緩慢な手つきで、ジェフは杖を腰のベルトに収める。
「少しやりすぎた」
学園のあちこちが騒がしい。悲鳴と怒鳴り声が飛び交い始めている。
「――でしょうな」
もしかしたら、ずっと見ていたのかもしれない。頭上からスノウの皮肉じみた笑い声が聞こえた。
ジェフは何も答える気にはなれなかった。
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