8.憤怒と暴風

 いくつもの翼ある異形が、中庭の上空を舞っていた。

 はためく灰色の衣を押さえて、ジェフはそれを見上げる。


 グリフォン、と呼ばれるこの異形は、もとは旧帝国によって使役されていた使い魔だったという。帝国が崩壊し、こうした使い魔たちは散逸して、異形となった。

 いまでは南部の草原地帯に多く生息し、頻繁に人里を襲う猛獣である。

 群れを成して王都を襲うことは、本来ならあり得ない――つまり、使役する者がいる。


「ジェフくん、メリー・デイン・クラフセン。どちらも姿勢を低く。急に動くと襲われるぞ! ゆっくりと校舎へ避難してくれ!」

 コーデリアは杖を振り上げた。

「ラナ、支援を。我々でひきつける」

 すでにグリフォンは爪を剥き出し、急降下を開始しつつある。狙いは、確実にこちらだろう。

「数がちょっと多いけど」

 ラナはすでに杖を拾い上げ、それ鎖状に変化させていた。

「やらなきゃ死んじゃうかも」

 口調は軽いが、弛緩した様子はない。ラナが鎖を振るうと、うねりながら宙を走り、降下しつつあったグリフォンを捉えた。

 そのまま振り回して、地面に叩きつける。馬のように大きな体が投げ出され、怒りと苦痛に満ちた悲鳴があがった。首の骨が折れ曲がり、そいつはそれきり動かない。


 ラナは鎖を引き戻し、次なる攻勢に備える。

「うわ、まだ来る……使い魔の防衛ラインはどうしたわけ?」

「謎の襲撃者によって、さきほど半壊した。即座の再出撃は不可能だ」

 コーデリアもまた、杖を頭上に構えた。

 その先端に赤い《しるし》が閃いて、まばゆい稲妻が放たれる。それは接近しつつあったグリフォンを正確に撃ち抜き、翼を焼く。また一羽が落下した。

「やはり、あれは《魔人》の用意した新手だったのかもしれない」

 コーデリアは杖から小さな火花を散らしながら、牽制のため、さらに何発かの稲妻を撃ち出す。グリフォンもその頃にはもう警戒しており、そのうち一発しか当たらない。


「――ええ、まあ――なんというか、若」

 スノウがいつの間にか肩に止まっていた。

「少しは責任を感じちまいますな。使い魔の小僧どもを手荒く扱いすぎました」

「かもしれないな」

 ジェフは嘘をつかない。遠慮なく意見を述べた。スノウもそれを望んでいる。

「ですよね。あの――手伝ってきてもいいですかね?」

「好きにしろ」

「離れてもいいんですかい? 若、ちょっと危ないかもしれませんぜ」

「俺のことを気にしてどうする」

 ジェフもまた、地面に落ちていた黒檀の杖を拾い上げる。


「お前は俺の従者じゃない。友人だ。気の済むようにやれ」

「承知」

 ジェフは翼を羽ばたかせ、舞い上がる。煙のように姿が膨れ上がり、夜空に紛れる。迎撃を開始するのだろう。その様子を、コーデリアにもラナにも見られなかったのは幸運だった。

 スノウが本領を発揮するならば、グリフォンごときに後れは取るまい。


(しかし、こっちは――)

 ジェフはスノウの翼を見送って、自分の黒檀の杖を見つめた。

 相手はドラゴンではない――魔法は使えない。

『力ある者は、己で己を律する必要がある』

 とは、老師の教えだ。精神的な戒めであり、あまりにも強い力による暴走を防ぐ枷でもある。そのことは、ジェフもよく知っている。

 だから彼は杖を再び腰のベルトに戻そうとした。


「ジェフさん!」

 その前に、背後から呼びかけられる――振り返るまでもない。メリーだ。

「早く避難してください。とても危険です! もっと姿勢を低くして!」

 堂々と言い切って、彼女は草むらで杖を構えている。這いつくばるような姿勢で、指も声も震えているところを見ると、相当な動揺が見て取れた。

「さっさと逃げましょう! 超危ないので!」

「そうか」

 ジェフもようやく動き出そうとした。


 その頭上で、強い風が吹いた。

 ジェフは灰色のマントを強く押さえて振り仰ぐ。

 月光を背負ったグリフォンが、彼を見下ろしていた。確実にこちらを視認している。その嘴から、甲高い鳴き声が響く。

(まずいな)

 ジェフは黒檀の杖を握りなおす。だが、使うわけにはいかない。グリフォンの鉤爪が禍々しく開き、青白く輝いた。

「ジェフくん!」

 コーデリアが叫んでいる。

 ジェフは地を這うように体を沈め、せめて黒檀の杖と左腕を掲げ、可能な限りグリフォンの一撃を軽減しようとした。左腕を犠牲にするとしても、右腕で反撃を行うためだ。

 怒りに満ちたグリフォンの目を、正面から見つめる。

 来る。


 ――と、確信した次の瞬間、そのグリフォンの顔面で風が弾けた。

 グリフォンは金属質な叫びを発して、のけぞり、再び高度を稼ぐ。右目から血が流れているのが分かった。

「やっ……たっ!」

 苦しそうな声。

 メリーだ。いまグリフォンを撃った魔法が彼女のものであることは、ジェフにはすぐにわかっていた。紫色の《しるし》の輝き。『衝撃』の契約コード

「こんな威力、はじめて出せました! もしや私って、本番に強いタイプの覚醒型天才では……!」

 喚きながら、メリーが駆けてくる。どこか暗い興奮に満ちた笑顔。

「早く避難しましょう、ジェフさん」

 彼女はジェフの腕を掴んだ。やはり震えているし、強張っている。

「ちょっと危険ですけど。急いで。私が守ってあげますから」

 血走った目は、恐怖と虚栄心の間で揺れているようだった。


 メリーの顔を見ながら、ジェフは切迫感よりも一つの疑問を抱いている。

 なぜ彼女が自分を援護したか、ということだ。

 その疑問は、口を開くと罵倒のような台詞になった。


「正気か?」

 グリフォンが旋回している。今度は怒りの矛先を、確実にメリーに向けていた。

「きみの魔法では、グリフォンを倒せない。わかっているだろう」

「そ――そんなこと、ないですよ」

 メリーはジェフを隠すように、濃紺のローブを広げた。強風がその裾をはためかせる。空に向けた杖は震えている。

「私、天才なんですから。こういうときこそ、命の危機に……なんていうか……真の力が目覚めたりすることになってるんです!」

「その可能性は低い。いま戦う理由はない」


 ジェフは老師から教えられた。

 勝ち目のない相手とは、戦うべきではない。どんな手を使ってでも生き延びて、鍛錬し、再戦の機会を狙うべきだと。

 だから、その次のメリーの説明も、まるで理解の範疇を超えていた。


「私、そういう人になりたいんです」

「何を言っている?」

「いつも天才で、平然とした顔で、余裕で困難を乗り越えるタイプの。みんなから羨望のまなざしを向けられるような、大魔導士です。どうせやるなら、ナンバー・ワンになりたい、というか」

 メリーは杖を握る手に力を込める。

「そうじゃなきゃ意味ないと思いませんか? 私、実家では本当にお荷物の役立たずだったので……みんなを見返すには、このくらい物凄いことができないと……!」

 そこまで震えた声と、恐怖に囚われた精神で、何ができるのか。

 ジェフはその指摘を言えなかった。

 なんとなくそんな気分になれなかったし、頭上からはグリフォンが再びの急降下を仕掛けてきていたからだ。

 コーデリアは何かを怒鳴りながら、魔法の雷を飛ばそうとする。火花。グリフォンはそれをあざ笑うような軌道で避けた。体を捻って、鉤爪を広げる。


「もう一度」

 メリーは杖を掲げた。

「奇跡の一撃でもいいですから!」

 果たして、その願いは聞き届けられなかった。『衝撃』の契約コードが放たれ、グリフォンの突撃の鼻先で炸裂したが、突撃の威力は変わらなかった。せいぜい、突進経路を少しずらしただけだ。

 突風が吹き荒れ、ジェフとメリーはその場に倒れた。

「……おのれっ」

 メリーは喉の奥で唸った。その右肩――濃紺のローブが裂け、肉がめくれあがり、血が滴っている。

「この天才に、なんてことを! 許せません! 呪ってやる……!」

「まだやるか」

 ジェフの質問に、メリーは強くうなずいた。上空でグリフォンが旋回し、再びこちらに舞い降りようとしている。

「私、天才になりたいんですよ。誰もが賞賛する、すごい魔法使いに」

 無事な左手に杖を持ち替えた。呼吸が荒い。声は震えている。それでも、なお、その虚勢を崩さなかった。ジェフにはそれがわかる。


「だから」

 メリーは杖を構え、その先端に緑の《しるし》を放った。

「時間稼ぎは任せてください! 守ってあげますよ、ジェフさん一人くらい。なにしろ、はじめての友人ですから!」


 おそらく、メリーの言葉はほとんど嘘だらけの、自分を適当に奮い立たせるためのものでしか無かっただろう。

 なにが『友人』だと――白々しい。

 夢見がちな少女が抱く、無根拠な万能感で、本当ならこの場で死んで終わるべきものだっただろう。

 ジェフは思う。

 ――この場に偉大なる魔導士の弟子、《鉛の》ジェフ・キャスリンダーがいなければ、確実にそうなっていた。


「友人のためだな、メリー」

 ジェフは呟いた。

 黒檀の杖を握る。

「なるほど、きみは俺の友人だ。こういうことなら、理解できる」


 メリー・デイン・クラフセンは、己自身に嘘を吐いている。

 彼女は天才ではない。

 情熱と強迫観念と名誉欲に駆られた、単なる凡人にすぎない。それでも、ジェフを守るために嘘をついた。自分自身を欺くことができた。

 愚かで、勇敢な少女だ。


 対して、自分はどうか。

 ジェフは考える。

 それすらできない、臆病者ではないか。

 戒律を破ることで友人が助かるのなら――嘘ぐらいは、いくらでも吐いてやろう。竜を相手にしか魔法は使わない、など、そんなものは嘘でいい。それができなければ、ただの愚か者だ。


 老師は言っていた。

『力ある者は、己で己を律する必要がある』

 ――つまり、こうだ。

 ジェフは、自分が魔法を使う時を、自分自身で律する。

 いまがそのときだ。そうでなければ、いつが『そのとき』だというのだろう。


「メリー・デイン・クラフセン」

 ジェフは黒檀の杖を、まっすぐ構えて呟いた。

 グリフォンが鋭い鳴き声をあげながら突進を終えたとき、すでにジェフとメリーは全く別の場所にいた。

 十歩分は離れた、草むらの中に。


「感謝する」

 ジェフは抱きかかえていたメリーを、ゆっくりと地面に下す。彼女はどうやら気絶しているらしい。白目を剥いていた。


「あいつが竜でも、そうでなくても」

 灰色のマントが翻り、ジェフは低く唸る。そのマントが、大きな翼のようなシルエットを形成していく。黒檀の杖の先端が銀色に輝いた。


「友人のためだ。仕方ない。戒律なんてクソくらえ、だな」

 灰色のマントが翼となって羽ばたき、ジェフの体が空に浮かび上がる。

 黒檀の杖が、激しい銀色の光を放った。

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