5.狩猟者の翼

 飛行する。

 箒に刻まれた《しるし》に魔導の力を慎重に注ぎ、溢れぬように制御する。これはジェフの得手とする力の使い方とは言えない。

 初めて試みる、といえるかもしれない。

 それでも全身の魔導線が軋むほどの努力をもってすれば、どうにか速度と高度を安定させることができた。とてつもなく臆病な馬を、宥めすかして駆るような感触だった。


「大丈夫ですか、ジェフさん」

 背後からメリーの声。やや不安そうだ。後ろからしがみついており、全身が強張っているのがわかる。多少は柔らかさが伝わってくるが、心もとない――できれば背もたれが欲しいと思った。

「速度とか諸々安定しました? そろそろ私、目を開いてもいいですか?」

「むしろ、閉じていると危ないと思う」

 そもそも、迎撃の役目を果たせないだろう。ジェフは徐々に高度を上げていき、学園と、それを取り巻く森を一望できるくらいまで上昇した。スノウはさらに高い空を、ジェフたちから離れて飛行している。

 彼は気楽なものだ――気にすることはあるまい。

 むしろジェフは眼下に視線を向ける。そこに築かれた学園を。


 夜の闇の中でも、ダルハナン・ウィッチスクールは威圧的な存在感を持っていた。

 周囲を森に囲まれ、月明かりを受けた壁は白々と輝いて見える。尖塔と城壁が五角形を形成し、数々の設備にはかつて要塞として使われた名残がある。

 だが、特にジェフの目を引いたのは、ひときわ細長くそびえる北の尖塔だった。


「ああ――やっぱり凄いですよね、あれ!」

 吹き付ける暴風に負けないように、メリーが声を張り上げた。

 それも、いままでにないほどの早口で。

「ダルハナン・ウィッチスクールが誇る《印章塔》ですよ! 何千という《しるし》が積層刻印されていて、あれ一つで学園内はおろか王都の魔導基盤の一部を賄っているんですって!」

「そうか」

 聞いてもジェフにはよくわからない。

《印章塔》という存在は、北部には存在しなかった。ジェフが塔を見るところ、それなりの量の《しるし》が、様々な契約コードを働かせているようだ。『冷却』、『発光』、『発火』――それら一つ一つは小さなものだが、なるほど、あれが『魔導基盤』と呼ばれるものなのかもしれない。


「まさに! 間違いなく、王国で最大最高の学校って感じがしますよね! 設備もあれだけじゃないんですよ、対地・対空警戒だってホント凄くて!」

「それは、例えば――」

 ジェフの目は、それを見逃さず捉えた。

「あれのことか」

 外壁に点在するいくつかの尖塔から、輝く何かが射出された。燃えている――火の矢か。射手はいない。《しるし》が起動しているのがわかる。魔法による自動迎撃システムなのだろう。


「うわ、わ」

 メリーはひどく慌てたようだ。転びそうになり、ジェフにしがみついてくる。やや暑苦しい、とジェフは思う。

「矢! 矢ですよ、ジェフさん!」

「迎撃を頼む。俺はできるだけ避ける」

 ジェフは上半身を傾け、箒をわずかに加速させる。ほんのわずか、足を速める程度。それ以上はできない。

 いくつかの火矢はかわせる――が、それ以上ではない。そのうちの一本が、明らかにジェフを狙って飛来している。

 追尾性能でもあるのかもしれない。


「い」

 メリーの声が上ずっている。

「い、いけっ!」

 背後で杖が振られ、魔法が展開されたのがわかった。紫色の光。複雑でどこか歪んだような《しるし》――これがメリーの《しるし》なのだろう。

 ぼっ、と空気が弾けて、火矢を払い落とそうとした。

 それはごく単純な『衝撃』の契約コード。展開の速さと、狙いは悪くない。だが、威力が致命的に足りなかった。火矢は勢いを減じただけで、撃ち落とすには至らない。


「も、もう一度っ」

 メリーの杖がまた振られた。空気の弾ける軽い音。足りない。

「まだっ」

 さらに三度目。紫色の輝き。

 今度はうまくいった。ついに火矢が重力に負け、落下していく。ようやく一本――ジェフは周囲を見回し、この作戦があまりにも悠長であることを思い知った。

 さらに三本の火矢が、いずれも正確にジェフを狙って追尾してきている。


「どうですか、ジェフさん!」

 メリーは荒い息を吐きながら、天地を手中に収めたかのように肩を叩いてくる。

「私、この天才の私が、いま! 見事に矢を叩き落としましたよね?」

「そうだな」

 ジェフは腰に吊った、黒檀の杖を一瞥する。これが使えれば話は早い。すぐに片がつく。だが、それは無理だ――ならば、使える手段は一つしかない。


「メリー。きみは、その調子で」

 ジェフは右の裏拳を一閃させる。一つ目の矢を叩き落とす。

「俺を楽にしてくれると」

 拳を打ち下ろす動きで、二つ目の矢を落とす。

「非常に、助かる」

 三つ目の矢は、素手で掴み取った。へし折って捨てる。


「いや――ジェフさん、それ、いま」

 メリーは呆然と、ジェフの右拳を指差した。

「素手で叩き落としませんでした?」

「素手で叩き落とした」

「飛んでくる矢って、素手で対処できるものなんでしたっけ? え、あの、私がトロいだけ?」

「燃えているところを掴まないのがコツだ。やってみるか?」

「い、いえ、結構です! 絶対にやりません」


「わかった。それよりも」

 先ほど火矢を掴んでみたときにわかった。やはり脆弱な《しるし》だった。ということは、これはほんの警告にすぎないのだろう。

 ジェフの目は、学園の尖塔を見つめている。

「本格的な迎撃が来るぞ」


「いや――まったく大変ですな、若!」

 頭上から、気の抜けたスノウの声が響く。白と黒の翼を広げて、大して苦労もせず火矢を避けている。

「条件次第じゃあ、私もお手伝いしてもいいですぜ」

「一応、聞いておく。何が欲しい」

「そうですねえ、差し当たっては」

 スノウが言いかけたとき、ジェフは見た。いくつかの尖塔から、翼ある小動物の影が飛び立ってくる。その姿は様々だ。

 鳩、ハヤブサ、コウモリ、フクロウ、烏――使い魔として、しばしば魔導士に使役される生き物たち。


「来ましたっ、ジェフさん!」

 メリーがジェフの背中を何度か叩いた。

「使い魔! 使い魔さんたちですよ! おのれ、学園の三流学生ども……あんな高価な使い魔さんたちを使役するなんて、超うらやましい!」

「あれが高価な使い魔?」

 スノウがかすれた笑い声をあげる。

「とんだ冗談だ。あんな三流どもを、買い被りすぎてますよ。ひ弱な坊ちゃんと嬢ちゃんが束になったって、本物の使い魔には――あ。あ、あらら」


 決してスノウの嘲笑が聞こえていたわけではないだろう。

 が、尖塔から舞い上がってきた使い魔たちは、明らかにスノウを目指していた。そういう指示を与えられているのかもしれない。

 使い魔たちの数は、五十を下らない。

 先駆けて飛んできたハヤブサが、甲高い鳴き声を上げる。ジェフには、その一瞬の交錯がはっきりと視認できた――ハヤブサはスノウを狙って鉤爪を広げ、その顔を掴もうとした。鉤爪の間に、白い火花が散った。


「あ」

 かすめたのだろうか。

 一枚だけ黒い羽毛が抜け落ち、スノウが珍しく不機嫌そうに呻いた。

「私の羽」

 ハヤブサは高く舞い上がり、旋回してこちらを見下ろしている。間違いなく、スノウをその中央に据えている。


「なんですかね、こいつら。私を狙ってる? なんというかまあ、大物狙いというか」

 スノウが大きく翼を羽ばたかせた。

「身の程知らずですな」

 彼の黒い輪郭が、夜空を浸食するように滲んだように見えた。背後でメリーが息を飲み、かすかに震えた。スノウが喉を鳴らして笑っている。

「悪いんですが、若、私も未熟者どもに教育してやりたい気分になりました」

「やめておいた方がいいと思う」

「無理なご相談で」


 ジェフにとって、スノウは愛玩動物でもなければ下僕でもない。

 友人だった。

 命令する権利も、それを聞く義務もない。そういう契約コードを結んでいる。

 だから、スノウがジェフに忠告するのは、純粋な善意にすぎない。それだけのことだ。スノウが戦うのも、純粋に個人的な理由からだ。


「ふ」

 スノウの短い呼気。

 その姿が煙のように膨れ上がり、加速した。


 いま接近しつつあったのは、フクロウ、鳩、烏――すべて合わせて十羽ほど。ある者は炎をその身に纏い、ある者は得体のしれない白い光を帯びていた。

 スノウは彼らの身体を、たなびく煙となって通過した。

 そのように見えた。


 それだけで、フクロウも、鳩も、烏も、一つの鳴き声も発せずに翼を止めた。

 石のように硬直して、落下していく。


「アア――」

 スノウが濁った鳴き声を、高らかに響かせる。

「いいですね、たまには」

 そこには明らかな喜びが含まれていた。

「萎びた魔力でしたが、野生動物よりも歯ごたえがあります」

「殺したのか、スノウ?」

「まさか。ちょっと強く撫でただけです。また私に舐めた真似をされちゃ困りますんで、怖がらせてやりました」


 そしてまた、かすれた笑い声。

 悪魔のような――ジェフはスノウのそうした姿を知っている。

 もともとスノウは、老師が竜を狩るために使役していた使い魔だ。空を舞い、竜を狩るために力を貸す。老師は、『使い魔としては、地上最強の一角』、もしくは『最高の狩猟者』と言っていた。

 ジェフもその言葉を信じている。


 スノウはただの使い魔ではない。

 ほとんど、異形たちに近い存在だった。


「すごいですね」

 メリーは驚くというより、畏怖しているようだった。

「スノウさんって、ジェフさんの使い魔ですよね」

「まあな。友人だ」

「無敵じゃないですか!」

 メリーの鼻息が強まるのを、首筋に感じた。

「このまま突入ですよ! 私の天才的な魔法と、ジェフさんの運動神経! スノウさんの最強さ! 作戦の成功を確信しています!」


「そうか。ただし、問題が一つある」

「と、いうと?」

「もう限界だ」


 箒の速度と高度を維持することが、だ。

 ジェフの流し込む魔力が、箒に与えられた《しるし》を凌駕しつつある。柄の先端が、乾いた音を立てて割れた。亀裂が走る。

「俺の見立てだと、残り十秒」

「え」

「で、落ちる。一応、最後まで頑張ってみる」

「え」


 箒が傾いた。

「えええええええええーーー!」

 メリーの絶叫が、長く尾を引いた。

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