入学
1.魔女の門
ジェフ・キャスリンダー少年は、生まれ育った北部以外の世界を知らない。
知っているのは荒野と山脈と、小さな辺境の街のことだけだ。
だからそのとき起きた出来事についても、呆然と受け入れるしかなかった。
――王都のような都会では、空から半裸の少女が降ってくることがあるのか。
しかも、それが自分の上に落ちてくるとは。
落下した少女によって潰されながら、ジェフは考える。こういうことがあるのなら、最初から大きな傘でも用意しておくべきだったのだ。あるいは受け止めるための網か、何かを。
老師はよく言っていた。
『お前はいささか愚鈍すぎる。魔導士としての二つ名ならば、《鉛の》ジェフを名乗るがよかろう』
まったく老師の言う通りかもしれない。
こうした事態に備えていれば、潰されることもなかった。おまけに腹の上で騒ぎだされることもなかった。
「ひどい」
少女はまず小さく呟いた。
どことなく、暗い目つきの少女だった。濃紺のローブをまとっているが、そのあちこちが焼け焦げている。半裸なのはそのせいだ。その背丈と身体の発育から考えて、自分とそう大差ない年齢だろう、と、ジェフは推測する。
それにしてもひどい有様の少女だ。金髪は煤で汚れているし、碧い瞳もどこか曇っているように見える。
「ひどすぎますね。あの連中」
ぶつぶつと呟く少女は、ジェフを下敷きにしていることに気づいていないようだった。彼女はジェフの腹の上で体を起こし、爪を噛んだ。
「もはや頭が固いなんてレベルじゃありません。最低最悪の愚物どもめ……見てなさい。私が大賢者になった暁には、一人残らず追放してやりますから……!」
喋りながら、どうやら少女の言葉は徐々に熱を帯びていく。
「いや、むしろ今夜から呪いましょう。そうですよ……絶対に許しませんからね。やつらの名前を調べて……家族の住んでる場所を探り出し……私を追い返したことを速やかに後悔――」
「演説中、申し訳ないが」
少女が一向に我に返る気配がないので、ジェフは介入を試みることにした。手を伸ばし、背中の辺りを叩く。
「そこに座られていると、起き上がることが難しい。どいてくれ」
「――ぎ!」
少女は勢いよく反応した。
「ぎええええ!」
最初は短く、次に長い悲鳴。飛び跳ねるように立ち上がり、焼け焦げた濃紺のローブで体の前面を隠すようにする。
「ああ、あっ、え? 人? いま、私、あなたの上に落ちてきちゃったんですか?」
ひどく混乱していた。ジェフはその様子を観察しながら、自分の杖を拾う。黒檀の杖だった。ゆっくりと立ち上がって、軽く首を振る。
目の前には大きな門がある。
純白の石を積み上げて作られた、巨大な門だった。
通称《魔女の門》と呼ばれる建造物であると、ジェフは聞いていた。王都の郊外に位置する学園、王立ダルハナン・ウィッチスクールに通じる唯一の地上の門。
老師の言葉にいわく――人の領域と、魔の領域を隔てる扉。
学園を訪れるなら、まずはこの門を通らねばならない。
「あ、あの。すみません」
混乱からある程度は立ち直ったらしく、半裸の少女は控えめに声をあげた。
「あなたは――どちらの方? ですか? 私のさっきの独り言、聞いてたりしてました?」
「ほぼすべて聞いた。人を呪うと言っていたな。その取り組みは推奨できない。そうした行為は、異形どもを生む糧となるからだ」
ジェフが肯定すると、少女はこの世の終わりのように頭をかかえ、うずくまった。
「ああああああ」
嘆きの声は、今度はとても長く尾を引いた。
「聞かれてた……やっぱり。しかもこんな格好まで見られた……」
「ああ。その格好」
先ほどからずっと気になっていたことを、ジェフは疑問として口にする。
「もしや、都会の流行か何かではない?」
「ぜんぜん違います……」
「では、きみは痴女の類では?」
「もっと違います!」
眉を吊り上げ、少女は勢いよく首を振った。
「撃墜されたんです。空を飛んで校内に侵入しようとしたんですけど……思いのほか、防空設備が手ごわくて……って」
そこへ来て、少女は何らかの可能性に気づいたらしく、急に顔をあげた。顔色が青ざめている。
「もしかして、あなたは学園の関係者、だったりします? っていうか、もうどうせその流れですよね? 私って昔からそうなんですよ……ここぞというときに運が悪くて」
「いや。その点は誤解だ」
「えっ」
かすかな希望を垣間見たように、少女が顔をあげた。
「ほ――本当ですか? ここへ来て私、地獄のアンラッキー体質から脱出できた感じですか?」
「きみの体質のことはまったくわからないが、とにかく俺は違う。まだ学園の関係者ではない」
どうやら少女は非常に動揺し、無力感を味わっていたらしい。だから力づけるように、ジェフは大きくうなずいてやることにした。
「俺はジェフ・キャスリンダー」
名乗ってから、これだけではわかりにくいと思い、言い直す。
「《鉛の》ジェフ。グラム・キャスリンダーの弟子に当たる」
「はあ」
少女の返事は煮え切らない。不可解なものを見るような目をジェフに向けていた。対するジェフは、容赦がない。
「俺はもう名乗った。きみは誰だ? もしも都会にも礼儀というものがあれば、互いに名乗り合うべきだと思う」
「えっ、あ! はい――えっと、それは、その」
少女は何度か口ごもり、やや早口に告げた。
「私はメリー・デイン・クラフセン。です。はい。ひ、ひひっ」
最後のひきつったような声は、彼女――メリーにとっての愛想笑いだったのかもしれない。いずれにせよ、多少は友好的に振る舞おうとしたのは確かなようだ。
ジェフは大きくうなずいた。
「メリー・デイン・クラフセンか。よかった」
彼は片手を差し出す。
「都会に来て、勝手がわからず戸惑っていた。これほど早く知己を得られるとはな」
「え」
「握手だ。互いに名前を知った者は、友好の証に握手をすると聞いている」
「は、はい! よろしく、お願いします……?」
やや混乱しながらも、メリーはジェフの手を取った。構わず、ジェフは二度ほど手を上下させる。
「よし。これで友人だ。先ほどの件は忘れることにする」
「あ!」
メリーは熱いものにでも触れたように、慌てて手を引っ込めた。
「あの――すみません。さっきは。なんか、あなたの上に落ちてきちゃったんです、かね? 私?」
「問題はない。もう忘れた。それに」
ジェフは灰色のマントの土埃を払い、その内側にまだ紹介状があることを確かめる。折れ曲がってもいない。ひとまず安心だ。
「あの程度ではダメージを受けないよう鍛えている。竜の踏みつけは、きみ程度よりもはるかに重い」
「え」
メリーは目を瞬かせた。理解できない、といった顔だった。
「竜?」
「そうだ。最大の竜種は体長三十ローメンを超える。文献にあった。ドーウィン焼却戦争の緑竜ガレア。その質量は、あらゆる城塞を破壊するほどの――」
「――おおっと、若!」
言いかけたジェフの頭上で、黒い翼がはためいた。スノウだった。ジェフはそちらを見上げ、黒檀の杖を伸ばす。
どうやらジェフが潰されたときに、素早く飛んで逃れたらしい。
薄情なやつだ、とは思わない。もともとスノウとかわした契約も、預けた役割も、そういう種類のものだった。だからこんなタイミングで、平然とした顔で戻ってきても、腹は立たない。
「そこまでにしといてくださいよ、竜の話は。お嬢さんが困ってらっしゃる」
スノウは静かに翼を畳み、杖の先端に舞い降りた。
そして、メリーに対して深々と頭を下げてみせる。
「すみませんね、うちの若旦那が。お嬢さんも災難でしたな。いきなり空から落ちてくるなんて」
「あ、えっと――あの、その」
メリーは再び目を瞬かせた。ジェフにその碧い瞳を向ける。
「この――烏さん、あなたの使い魔なんですか?」
「そうだ。お爺ちゃんから継承した」
「言葉が喋れるなんて――」
メリーの碧い目が、好奇心で光っている。ジェフにもそのことがわかった。いささか鼻息も荒くなっている気がする。
「す、す、す、すごい使い魔ですね。どんな《しるし》が使われているんです? それに、その杖」
メリーは体の前方を隠すのも忘れて、一歩、ジェフに近づいた。
「もしかして、あなたも――あっ!」
メリーの視線が、ジェフの背後に向けられた。表情が驚きと恐怖の混じったものに変わる。忙しない少女だ、と、ジェフは思った。あるいは都会の人間は、みんなこの傾向があるのだろうか。
「やばっ」
「ん」
ジェフもつられて振り返る。濃紺のローブの人影が一つ、こちらに近づいてくるのが見えた。しかも、走っている。
「あれがどうかしたのか――」
首の向きを戻したときには、メリーはもう消えていた。捉えることができたのは、木立の向こうに走り去る金髪の後ろ髪だけだ。
「逃げたみたいですよ」
スノウが低く、しわがれた鳴き声をあげた。
「なにか後ろめたいことでもあるんですかね、あのお嬢さん。関わらない方がいいでしょうな」
「そうか?」
ジェフは首を傾け、思考を巡らせる。たったいま、メリーは「撃墜された」と言っていた。では、彼女はなぜそんな目に遭ったのか。追っ手でも存在するのか。
少し考えて、ジェフはこの疑問を棚上げすることにした。
考えても答えの出ないことは、考えない。ジェフは己の限界を知っていた。
「――そこの、少年」
意識を現実に戻したジェフの背中から、声が聞こえた。少し息の上がった声だった。
「すまないが、少し尋ねてもいいだろうか」
「俺か」
濃紺のローブをまとった、長身の少女がそこにいた。ジェフよりもさらに頭一つほどは上背があるだろう。見上げる形になる。
「そう。きみだ。少年」
指を差されながら、果たして彼女は自分を『少年』と呼ぶほどの年齢なのだろうか、とジェフは疑う。
確かに顔立ちはどことなく大人びているし、先刻のメリーよりも身体の発育はいい。理知的な目をしている。長い黒髪は、ジェフには想像もつかない方法で編み込まれているようだった。
なるほど――彼女はそれなりに年上なのかもしれない、と、ジェフは考えることにした。
「きみは、いまの少女の関係者か?」
「ああ」
ジェフには嘘をつくという発想がなかった。いままでの生活で、その必要がなかったからだ。
「友人だ。時間は短いが、そうなった」
「うわっ、若!」
スノウは翼をばたつかせたが、もう遅い。
「やめましょうぜ、そういうこと言うの! よからぬ誤解を生みますって」
「――友人、か」
長身の少女の顔が、急激に険しくなっていく。片手がローブの内側を探ると、短い杖がその手に握られていた。樫の杖。先端が、油断なくジェフに向けられる。
「すまないが、少年、これから私と共に来てもらおう」
樫の杖の先端に、赤い《しるし》の光が灯った。
師によって鍛えられたジェフの目は、そこからいくつかの事実を読み取ることができた。形成された
ただし、威力はさっぱりだ。竜の鱗すら傷つけることはできないだろう。
つまりこれは――と、ジェフは結論付ける。
これはほんの威嚇であり、単なる警告の《しるし》に違いない。
ジェフの目が己の《しるし》を見つめていることに気づき、長身の少女は明らかに不器用な笑顔を浮かべて見せた。安心させようとしたのだろうか。
「私はダルナハン学園生徒会執行部、コーデリア・マーレイ。彼女との関係について、詳しく話を聞きたい」
「ああ。ちょうど良かった。コーデリア・マーレイ。学園関係者だな」
ジェフはマントの内側から、一束の手紙を差し出す。
「こちらも用事がある。俺はジェフ・キャスリンダー」
人生というのは、万事がそれなりに都合よくなるようにできている。このことを、グラム老人は馬だか縄だかが出てくる比喩で例えていた気がする。
まさに、今回のことのように。
「《鉛の》ジェフ・キャスリンダー。最後のドラゴンスレイヤー。この学園へ入学するため、北部からやってきた」
「は?」
堂々たる宣言に、コーデリア・マーレイはひどく奇妙な顔をした。
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