第33話 そして、その時がやってくる

 知里の勧めで、早速商談テーブルに同席させてもらう瀬里花と未菜。


 最初に席につかせてくれたのは、初日に出勤の遅い瀬里花たちを、大声で怒鳴ったあの佐藤だった。彼は見た目は優しく中身は黒いイメージだったが、いざ商談テーブルについて聞き耳を立ててみると、そんな腹黒さを見せることなく、お客様が何を言っても微笑んで言葉を返す、優しげな好青年へと様変わりしていた。


 ――笑み笑み詐欺だ。


 瀬里花はそう穿った目で彼を観察していたが、強ち嘘と思えないほど、彼の商談の口調は柔らかく、お客様の警戒をいとも簡単に解くのだった。


 ――まるで口の中で溶けるお薬の錠剤みたい。


 舌の上で優しく溶けるが、唾液に混じると意外に苦いところなど、彼そっくりである。


 ――佐藤秀臣ひでおみ


 やるなと瀬里花は思った。柊木のように相手を知りつくし、一瞬の隙をつき相手を飲み込むようなものではなかったが、なかなかどうして、彼の話しぶりは、うまく相手の相談役に徹する、接客業の基本を押さえた上手いものだった。流石は九条大橋店。レベルが高い。ただ、優しさの仮面をかぶり過ぎているせいだろうか、詰めに差し掛かった時の押しは弱いようで、その商談はその場で決まることはなかった。


 ――惜しい。


 優しさは大切だが、メリハリも大事だと、瀬里花は思った。


 次に席についたのは、金子かねこ繁人しげとの商談だった。金子は配属初日の自己紹介の後、まずは月三台は目標にと、瀬里花に声をかけてくれたあの短髪長身の男性だった。相変わらず眉も薄く、性格的にもやや軽いところがあったが、それはそれでうまく相手との距離を縮めているようだった。軽さのためか、ぐいぐいお客様の中に踏み込んでいったが、やはりお客様が即決することはなかった。


 ――強気すぎても駄目なのか。


 お客様と距離を縮めることは大事だが、最低限の距離を保つことは必要だなと瀬里花は思った。


 その後も、商談が始まる度に未菜と代わりばんこに同席させてもらう瀬里花。彼らや彼女らはそれぞれに実力者なのが良くわかった。みんな個性豊かで、それぞれのスタイルで商談を行っている。それはあたかも夏の夜空を彩る打ち上げ花火のように鮮やかで、気を抜くと一瞬にして魅入ってしまうほど綺麗なものだった。


「何か先輩たち凄いね。私、全然無理……」


 先輩たちの商談で、顔を蒼褪めた様子の未菜。彼女が自信を喪失しているのもわかる。知識にしても、その例えや提案力も、およそ瀬里花たちが研修で経験した他の誰よりも、いやかつてトップセールスだったと言い張る課長の川野でさえも超越したものだった。


「うん、レベルが違ったね……。私も想像以上だった」


 それは瀬里花の正直な感想だった。今の瀬里花では、接客の経験は十分であっても、知識やそれを生かす技術が圧倒的に劣っていた。


 ――自信はあったのに。


 柊木でなければ、戦えるくらいのつもりでいた。彼相手じゃなければ、売り負けない最高の接客が出来ると思っていた。しかし、突きつけられたのは、九条大橋店の圧倒的なレベルの高さだった。


「こんなレベルの店で、更に飛び抜けて凄いだなんて、あの変態王子め!」


 毒づく瀬里花に、未菜がようやく表情を緩めた。


「うん、本当に柊木さんとか更紗さんとか、頭の中どうなってるんだろうね。一回朝から翌朝までべったり付き添ってみたい。お風呂とかトイレとかもね、ふふふっ」


 未菜が言うと冗談に聞こえないから怖い。可愛らしい顔がニヤける姿は最早もモザイクが必要そうだった。男子たちには見せられないと瀬里花は自らの身体で隠した。


「へへっ、もちろん、瀬里花ともだよ? 朝まで色んなことしてオールしたい!」


 ここ最近の未菜のベタベタぶりは、いよいよ男に興味を失ったかと思わせるほどだった。力弥と何かあったのだろうか。しかし、配属先が分かれて以来、瀬里花は彼のことを尋ねることが出来なかった。


「オールはいいけど、変なことはしないから」


「えーーっ、オールはしないでいいから、一緒にしようよ?」


 最早意味のわからない未菜。何かがきっかけで壊れてしまったのかもしれない。


 そして一ヶ月が経った頃、風の噂で退ことを、瀬里花は聞いたのだった。


 ――私のせい?


 瀬里花は一瞬それを疑ったが、どうやらそうではないらしい。後で聞いた話によると、やる気に満ちて配属先に向かったものの、なかなか自分の思うような仕事をさせてもらえず、嫌気が差したのだという。自分のせいでなかったことと、あの日の瀬里花への告白を思い出し、悪いと思いながらも、何処か安心してしまう瀬里花。まだ日の浅い内に作られた熱い想いは、熱された鉄のように曲がりやすく、冷めると折れやすいのである。



 カラッとした青空を連れてきた梅雨明けが、久しぶりの朗報をもたらした。納期が延びていた一ノ瀬のカティアラの新車納車が、いよいよ明日に迫ったのだ。


「おう、瀬里花ちゃん。ついに来たってな」


「お待たせしてすみませんでした、一ノ瀬さん」


 彼に注文を貰ったのが、入社式の日。あれからもう二ヶ月半以上も経過していた。彼とは定期的に連絡を重ね、ようやく納車の日取りとなった。途中、聞きなれない車庫証明だったり登録書類だったりがあったが、柊木がピンポイントで付き添ってくれ、うまくこなすことが出来た。


 この日のために操作を覚え、車も前日から綺麗に手洗いをした。パールホワイトのボディが、初夏の日差しを受け、キラキラと宝石のように輝いている。流線型でありながらセダンを形作るそのデザインは、やはり高級車そのものだった。


「やっぱりこれにして良かったわー。早速瀬里花ちゃんとデートやな」


 助手席に座り、運転席の一ノ瀬に車の説明をする瀬里花。彼は見た目こそイカツイが、やはり瀬里花に対しては良い人である。瀬里花にお父さんがいたら、こんな感じで、見事な親馬鹿を披露してくれたかもしれない。


 初めての一台が彼で良かったと、瀬里花は心から思ったのだった。

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