第32話 料理の方法とは……?

 店に戻ると、早速あの眞鍋咲希が結果を尋ねにきた。


「ねえ、どうだった? うまく渡せた?」


 咲希は不自然なほどニヤニヤとしている。瀬里花の失敗談を聞きたくてうずうずしているのだろう。


 やはり腹立たしい。でも、社会人になった以上、上司は上司だ。素直に怒りを伝えるか、それとも我慢して話をはぐらかすのか。


 ――


 瀬里花が選んだのは、そのどちらでもないだった。


「はい、無事にお渡し出来ました。ただ木下商事様に合った車の仕様があるそうで、少しお叱りを受けました。でも、眞鍋先輩のお陰で色々と勉強になりました。大変ありがとうございました」


 目を輝かせ、尊敬の眼差しを作る瀬里花。精神的にダメージこそ受けはしたが、結果的にプラスになったと瀬里花は本心では考えている。だから、これは相手の良心をチクりとさせる瀬里花なりのささやかな感謝とお返しだった。


「あら、そうだったの。それはごめん。一番良く出るタイプを印刷しといたから、大体はあれでオーケーなんだけどね」


 気まずそうな咲希。しかしわかっていたからこそ、かつて自分が同じミスをしたからこそ、瀬里花にも同じ思いをさせたかったのだ。誰もが通る道を、彼女のお陰で一足先に経験出来たのだ。やはりプラスに考えなきゃなと瀬里花は思った。


 その後、改めてお茶出しを咲希から習う瀬里花。未菜が先に出し方を覚えてくれていたお陰で、ある程度こなすことが出来た。


「それにしても競争とか……ね?」


 未菜はまだその気がないようだ。しかし、彼女をフォローするのが三嶋更紗である以上、避けられない戦いであると瀬里花は思っている。そう、決して未菜は侮れるような女の子ではない。瀬里花にしかない武器があるとすると、未菜には瀬里花にない胸とベビーフェイスがある。そして、日本人男性の好みは、絶対的に綺麗よりも可愛いなのだ。可愛いは作れるならぬ、可愛いで騙せるなのである。


「私たちが思わなくても、周りがそうさせてくれないかもね。でも、だからといって、二人の仲を引き裂くことは出来ない」


 瀬里花の言葉に、仕事中だというのに制服のまま抱きついてくる未菜。好き好きオーラが出ていて、目からはハートが飛び出しそうな勢いだ。やはり彼女の前では、宝塚の男役のトップスターのようになってしまうと、瀬里花はまた溜め息を漏らすのだった。


 ――ああ。


 我が娘役とマンチカンのミヤビはいずこへ。この二つだけはどうも瀬里花から遠ざかっているような気がしてならなかった。



 店長の指示もあり、六月の間新人の二人は、まずはお店に来店されるお客様の応対と、電話応対を重点的に覚えることになった。来店されるお客様への応対は、研修中に男子がやっていたあの駐車場に車が入ってきたら、品位を崩さない程度に小走りでのお出迎えである。小走りをするにしても、ヒールがあるのでなかなか前に進まない。爪先やかかとも痛くなるし、笑顔を崩さずにお出迎えをするのはなかなかに苦痛だった。


 ――でも。


 制服を着て店に立つ以上、プロとして笑顔を崩すわけにもいかないなと瀬里花はまた誓いを新たにするのだった。


 電話応対に関しては、瀬里花も未菜もそれなりの経験があるために、一通りこなすことが出来た。もっとも、新人宛てにかかってくる電話なんて皆無に等しいから、名前と用件などを伺って、後は担当者に引き継ぐだけの簡単なお仕事だった。中には瀬里花でも答えられるような内容のものもあったが、お客様は担当者かもしくは詳しいものの口から答えを求めている。だから、瀬里花はぐっとこらえて、修理の件などはそのまま引き継ぐことしか出来なかった。


 お客様をお出迎えしてお飲み物を聞く。電話が取れるときは電話を受け、それを営業またはサービス担当者に伝える。そしてまたお出迎えをし、飲み物を出し、それを片づける。車の営業でなければ、ずっとこれを繰り返していればいいのかもしれない。しかし、瀬里花は営業を選んだ。ただ一つ愛車の息を吹き返すために。


 ――そう、そのために。


 するべきことはわかっていた。瀬里花はある意味で決まった仕事の流れの中で、たえず牙を研ぎ続けなければならないのだ。ただひたすらにお客様の視線の動きや、喉の渇き具合、時計を見る仕草、そわそわ度合い、試乗車や展示車を気にする様子などを、瀬里花は見過ぎと注意されるほどじっくりと観察した。かなりの確率で瀬里花と目が合う男性が多く、瀬里花がニコリと微笑むと、男性は嬉しそうにまた頭を下げるのだった。これは瀬里花自身の武器。これはひたすらに磨いてきた自分の唯一の攻撃手段。


 ――でも足りない。


 それだけではあの柊木のような無駄がなく、お客様を笑顔で納得させる商談は出来ない。研修で知識は得た。元々車が好きなのもある。でも、そのままでは、料理と一緒で材料を無駄にしてしまいかねない。瀬里花には技術が必要だ。材料をうまく調理して、自信を持ってお客様に提供出来るようなそんな技術が……。


 ――どうしたら?


 自問する瀬里花。しかし答えが出ない。どんなに悩んでも、これという解が導き出されなかった。


「ふふ、なーに悩んでるんだか。せっかくの綺麗な顔に皺が寄ってるよ?」


 背後から近づいて来たのは、女性ナンバー2の天宮知里だった。相変わらず優しい声をしていて、眼鏡の奥に見える目も綺麗で優しげだった。瀬里花は慌てて、眉間や目じりの皺を伸ばす。それを見て知里が可笑しそうに口元に手を当てる。知里は一瞬にして人の警戒心を解くのが得意なようだ。瀬里花はそんな彼女に一つ相談をしてみようと思った。


「あの、例えばですよ? 料理をしたいのに、どうやって作ったらいいかわからないことってありますよね? そんな時、天宮先輩はどうされます?」


「料理? 作り方? わからない時?」


 知里の表情にハテナが浮かぶ。それはそうだ。何の前触れもなく、唐突に料理の話が出てきたのだから。


「はい。色々と知識は得たのに、どうしていいのかわからなくって……」


 瀬里花はあくまで話を料理の背後にぼかした。それでも感受性の豊かな知里だ。瀬里花の言いたいことを見事に汲み取るように、眼鏡の奥の目を細めた。


「そんなの簡単じゃない。きっとあなたが料理を出来ないのは、その料理法を知らないから。料理というものはね、炒める順番だってあるし、茹でたり蒸したりだってある。食材によって下ごしらえも違えば、灰汁抜きだってある。そしてそれは人それぞれだったりもするし、作り手によって味だって盛り付けだって変わってくる。だからね、私はこう思うの。あなたは料理の仕方を、あなたよりもっと料理の上手な先輩に習ったらいいんじゃない?」


「習う……ですか?」


「うん、そう。でも、あなたの場合習うじゃないかもね。そうね……あなたは商談の上手な先輩の席に同席させてもらって、その商談の内容や話しぶりを聞かせて貰ったらいいんじゃないかな?」


 的を射ていた。彼女は瀬里花の思惑を全て見抜いていたのだ。


 ――でも。


 瀬里花には心配があった。それは配属されたばかりのせいか、あまり歓迎されていないように思えたからだ。


「でも、みなさん、私なんかを同席させて下さるでしょうか? 入ったばかりの新人でまだ何も出来ないのに」


「あはは。そこは大丈夫じゃない? 柊木さんに言われたとか言っとけば。みんな大人しく黙るよ。それに――」


 ――それに?


「あなたほどの美人が一緒で嫌がる男どもはいないよ。だから、どんどんアタックしてみなさい。そして色んな人の調理法を見て、あなただけの料理を完成させたらいいんじゃないかな。もちろん、小代さんも一緒にね!」


 いつのまにか、側に未菜がいてくれた。未菜は瀬里花の腕に抱きつくと、ゆっくりとその可愛らしい顔で見上げた。


「はい!」


 瀬里花と未菜の返事に、知里は満足そうに微笑んだ。彼女だけは信用出来る先輩だなと瀬里花は思った。


 季節は梅雨。やがて鬱陶しい雨の時期が来ることを、瀬里花は忘れていたのかもしれない。雨は大切なものを一緒に流していくのだ。



 







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