第31話 やはり嫌いなものは嫌いなのです
「簡単に言うとこうだ」
柊木からガソリン代の計算式を教わる瀬里花。例えばさっきの木下商事の車のように、年間に四万キロ走行するとする。それがアーバンエースのバンの場合、オートマ車かマニュアル車かでリッター辺り九キロか十キロと平均燃費が変わる。ここで四万キロを走るのに、どのくらいのガソリンを消費するかを出すのに、平均燃費で割り算をするということだ。オートマ車が四四四四リットル消費するのに対し、マニュアル車は四〇〇〇リットルである。その差は四四四リットル。これがマニュアル車を一年間乗ることで浮くガソリンの差であり、例えばこれを十年乗り続けるとすると、四四四四四リットルの差が出る。これにディーゼルガソリンの現在の価格を百円としたら、それだけで四十四万円超の金額差が出ることがわかるのだ。
「一キロの燃費でこんなにも差が出るなんて」
瀬里花は目から鱗だった。柊木曰く、これはある一定以上の走行距離を走る車で、燃費が悪い車ほど、金額差が大きくなるとのことだった。そしてこれをベースに、今乗っている車とこれから乗り替える車の燃費を比較すると、五年や十年でどれだけガソリン代で得をするのかがわかるらしく、お客様が車を買い替えるきっかけだったり、新車を決めかねているお客様の背中を押すのにかなり有効とのことだった。
「実際、こうやって数字ではっきりとした金額がわかれば、お客様としても、自分や家族に対して、買い替える理由を作ることが出来る。人間というものは、たえず周りの目を気にする社会的な生き物だ。例えばご近所の人に、車を買い替えた理由を尋ねられた時に、欲しかったからという単純な理由ではなく、きちんと周りに買い替えたことを説明出来る理由が欲しいものなんだよ。そうすることで人は、社会からはみ出すことなく、とけ込もうとしているんだ。人は自分だけが得したいし、見栄を張りたいとも思うものなんだ。ああ、実に人間臭くて良いと思わないかい?」
それこそが人が車を買いなおす理由か。もちろん、それだけではなく、車が古くなったり故障したりして仕方なく買い換えをしなければならない場合もあるはずだ。しかし、柊木はどうしてこうも人間を好きなのだろう。どうしてここまで分析出来るほどに理解しようとしているのだろう。瀬里花には全く意味がわからなかった。
「ねえ、先輩。人のどこがいいんでしょうか? 自らの欲望のために他人を犠牲にして、新しく入ったものを踏み台にさえしようとして。少し前に自分が犯した無責任な罪は、なかったかのように忘れ去られ、人の家庭にまで土足で踏み込んでくる。こんな人間なんて、人間臭い以前に、悪臭が漂って反吐が出そうじゃないですか?」
これこそが、今瀬里花が胸の内に秘めていた思いだった。もちろん、吐き出してしまった以上、もう秘めてもいないのだけれども。
「何だか聞いていると、僕に対する君の思いのようにも聞こえるんだが? 僕の勘違いだろうか?」
「あ~先輩。そう聞こえてしまっていたら、申し訳ございません。今思いつく嫌いな人をイメージしたらそうなったんです。えへっ」
「悪気がないようには見えないな」
「はい。悪気しかないです」
瀬里花は満面の笑みで言い切った。いつしか瀬里花を包んでいた失意は、何処かへ旅立ってしまったようだ。
「ふっ、男に興味がないことはいいことだ。全力で女を武器に出来る。大抵の男なら、君との接点が欲しくて、予算の許す範囲なら車でもマンションでも買うだろう」
「私に全然興味がない柊木先輩に言われても、説得力ゼロなんですけど?」
「ははっ、よくわかるな。君がさっき言った通りに、僕は君という兵器を利用することしか考えていない」
そう、それこそが柊木が瀬里花の教育係を買って出た理由だ。今はまだ、それがどんな役割を果たすのかは瀬里花にはわからないのだけれど。
「それと、一つ忠告だ。武器は刀と同じだと考えろ。刀は、その刀身を鞘から抜かないからこそ意味がある。刀を抜いてしまったら、もう後はない。その瞬間に全ての力量を相手に悟られる」
自慢げに語る柊木だったが、ただ好きな言葉を使いたいだけのようにも瀬里花には思える。そう、そういう意味では、彼はまだ子供なのだ。いや、男というものはずっと子供なのだろう。だから、夢を諦めない。だから好きな女を求め続ける。子供の頃の願望も大人になってからの欲望も、さして変わらないなと瀬里花は思うのだった。
「よし、コーヒーは飲んだな? 僕は次のお客様のところへ行かないといけないから、君は一人で店に戻っておいてくれ。ああ、でも、まだ帰り道がわからないか? それとも僕の側にいたいかい?」
「全然一緒にいたくないですし、ちゃーんと一人で帰れます」
「はははっ、迷子になったら店に電話をかけるんだぞ?」
――子供扱いか。
まあ、先に子供扱いしたのは、瀬里花のほうだからある意味で仕方がない。しかし、仕返しはやはりしないとなと瀬里花は思うのだった。
「でも、良かったですね。私が先に見積もりをもって、木下社長と話して時間を稼いでいたから、六月の初日から車が一台売れたんですから」
瀬里花なりの軽い意地悪のつもりだった。普段は冷静を装う瀬里花も、どうもこいつにだけは優しくなれなかったのだ。
「一台? ははは、愚問を」
「えっ?」
――どういうことだ?
それに答えるように、柊木は革のビジネスバッグから、一枚のB4用紙を取り出すのだった。
「先にもう一台売ってきていますよ、可愛い後輩ちゃん」
やはり柊木という男は、何処までも腹立たしく、底が知れない存在だった。瀬里花は苛立ちを隠せずに、飲み干したコーヒーのプラスチック容器を、ダストボックスの中に力強く投げ入れるのだった。
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