第30話 だから計算だけは苦手だと
「何だ、来てくれてたのか、柊木」
「当たり前じゃないですか。僕の情報網はなかなかに広いんですよ。そこのところは、社長が良くご存知でしょう?」
鼻で笑う木下。しかし目も笑っている。嫌な空気が少し和らぐ。
「こいつは、今日からうちに配属された許斐で、経験を積ませるために、僕が社長のとこに行かせたんです。だって社長の会社は、この辺りでも、他の一番の見本となるような、健全で優良な会社ですからね」
柊木の殺し文句に、木下は一気に顔を綻ばせるのだった。
「仕方ないなあ。で、ちゃんと本物の見積もりを持ってきたんだろうな?」
柊木はにやっと笑みを溢した。
「見積もりではなく、きちんと注文書をお持ちしましたよ、社長」
木下がお茶を吹き出して、大笑いする。しかし、満更心外ではないようだ。B4サイズの注文書を目の前で豪快に広げ、ポロシャツの胸ポケットから眼鏡を取り出し、それをかける。眼鏡をかけた瞬間、木下の目は経営者のそれに変わった。
「基本的にはディーゼル車でロングの通常ボディ、通常ルーフと他の車輌からは変えておりません。フルジャストロータイプも今までと同じですね。後は念のため、オートマでも注文書を刷ってきていますが、やはりマニュアル車がよろしいですよね?」
柊木から放たれる聞き覚えのない言葉の羅列。ストローがどうしたのだろう。瀬里花には全く聞き取れなかった。そう、人は知らない言葉を、うまく認識出来ない生き物である。
「オートマは社員が楽って言うけどなあ。確か金額もだいぶ変わるんだったよな?」
うろ覚えではあるが両手分の違いはあったように瀬里花は思った。
「ええ、価格はおよそ十万円高くなり、燃費も一リッターあたり、一キロは変わるものと思われます。社長のところは平均十年は車を使われますので、年間走行距離の四万キロを考慮すると、十年でガソリン代だけでも、四十万円ほど経費が抑えられます。つまり元々の価格差と合わせて、約五十万円は違ってきますね」
即答する柊木。具体的な金額が出ると、お客様は迷わないようだ。あれよあれよという間に、マニュアル車での注文が決まった。
「これで何台目だ?」
会社印を捺しながら、柊木を見る木下。
「まだ十八台目ですよ、社長」
数字を覚えている辺りも、流石トップセールスといったところだった。
何だろう。このあっさり感は。それでいて商談の中身は一切の無駄がない。その上お客様は笑顔を見せている。気難しい社長をいともたやすく手玉に取り、心から納得させているのだ。瀬里花は、今はっきりと柊木との実力差を思い知ったのだった。
初めての会社訪問を終え、うちひしがれる瀬里花。柊木がコンビニで飲み物を奢ってくれるというので、今日だけは甘え、最寄りの店に車を止めた。
一杯の温かいコーヒーを軽くすすりながら、溜め息を漏らしてしまう瀬里花。脱力感に苛まれながら、何も出来なかった自分を歯痒く思う。カタログを見れば、何とかなるという過信があった。最悪新人という身分を盾にして、一緒に選んでいけば良いくらいに思っていた。それらは全てが慢心だったのだ。
コンビニのガラスに反射する自らの顔を見つめる瀬里花。目力は薄れ、隈が浮いているようにも見える。無理に笑おうと頬を吊り上げるが、とても見られた顔ではなかった。
「どうした。君らしくないじゃないか?」
――らしくない?
そうかもしれない。でも逆を言えば、この姿こそ瀬里花の本当の姿なのだ。
「研修中の君は、いつだって強く気高く美しい、王室の女王のようなイメージだったがな?」
気を使ってくれているのか、珍しく柊木が励ましてくれる。
「エリザベス女王は車は売りません」
「確かにな。だが、好きな車くらいあるだろう」
それはきっと瀬里花の車に重ねてくれているのだろう。
「どうして……」
ガラスに映る柊木を見上げる瀬里花。
「どうして優しくするんですか?」
瀬里花の言葉に、柊木は馬鹿にしたように笑い声を上げる。
「優しいか? 君は今は僕の後輩だ。そして僕はパートナー制度における君の先輩上司でもある。君を育て上げるのが、僕の役目なんだ」
そうだった。彼はある意味で、三嶋更紗から戦いを挑まれている。瀬里花を未菜に勝たせる必要があるのだ。そのために、柊木は手を抜かないだろう。あくまでそのために必要な優しさなのだ。
「優しいというのなら、多少の厳しさも見せておこう。今回のケースだが、相手は法人、つまり会社でしかも現在、営業時間中だったわけだ。車の商談は確かに相手にとっても大事だろうが、本音をいえば、業務に差し支えが出る可能性もあるから、社長としては、出来るだけ時間をかけたくなかったことだろう」
彼の言う通りだ。そして瀬里花は彼に無駄な時間を使わせてしまったのだ。
「それに君はあの会社を訪れる前に、一度自分で見積もりを作るべきだった。知らない車種だからではない。知っている車であっても、お客様を契約に導くことの出来るシナリオを想像することが大事だったんだ。今回君は、人から渡された見積もりに目を通すことなく、何のイメージも想像することなく商談に遭遇してしまった。勝ち目がないのは、最初から決まっていたことだ。飛び込みでの来店以外の商談とは、事前準備こそが全てだ」
反論の余地はなかった。ますます気落ちする瀬里花。これはもう、次の休みに猫ホスで癒されるしかない。
――待っててね、ミヤビ。
その後も、柊木からのありがたい講釈を頂戴する瀬里花。セールスマンというのは、一度火がつくとしゃべりっぱなしになるのだなと、瀬里花は思ったのだった。
「そういえば先輩。さっきのはどんな計算なんですか。リッターあたり一キロしか変わらないのに、あんなに金額差が出るとは、私には思えません。まさか自分のお客様だからっと、嘘じゃないですよね?」
瀬里花の言葉に、ムッとした顔をする柊木。
「まさか君は、例えばハイブリッドカーのリッター一キロと、燃費が良いとは言えない商用車などの一キロが同じだと考えているんじゃないだろうな?」
「はい、思っています」
落胆したように、深く息をつく柊木。
「まさか君は、ガソリン代を出すくらいの単純な計算も出来ないのか?」
――単純な計算も?
それは違うと、瀬里花は笑みを溢すのだった。
「計算だけは苦手です」
「計算だけだと……?」
それこそ違うと言いたげな柊木。
「いや、僕から見たら、そもそも人付き合いは決して得意とは言えなさそうだがな?無理して虚勢を張って、君という人形を必死で動かし演じようとしている。君はみんなが思っているほど、強くはない」
全てを見透かしたような物言いの柊木。
「わかっています。でも、計算の件は納得がいきません。ちゃんと説明して下さい」
「いやいや、本気で言っているのか? 本当に簡単な計算なんだが……まさか出来ないとは……困ったな……」
本当に困り顔の柊木。そんな彼に瀬里花は悪戯心が働いた。
「出来の悪い後輩で、すみません、せぇーんぱいっ」
そして柊木は一度白目を見せ、がくんと項垂れるのだった。
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