第29話 うまく行くとは限らないのです

 シフトレバーを軽快に操り、目的地を目指す瀬里花。久しぶりのミッション車に、心が踊り出すようだった。シフトレバーを動かす度に、瀬里花の長い黒髪が揺れる。クラッチを切ると、次なる加速を瀬里花に予感させ、アクセルが待ち遠しくなる。ダイレクトに伝わる加速感は、瀬里花の胸をただひたすらに高鳴らせる。


 ――ああ。


 つくづく瀬里花はマニュアル車が好きだったのだなと、思い知らされたのだった。


 ――だからこそ。


 早く生きた恋人セリカに会いたかった。



 指示された会社に辿り着いたのだが、従業員らしき車は、五台分ほどある駐車場には一台も止まっていなかった。そしてその会社は、瀬里花が想像していたよりも、だいぶ小規模のものだった。それは柊木が担当している会社のイメージとは正反対に思えた。まあ、瀬里花の勝手な思い込みなのだけれど。


「こんにちは」


 引き戸を開けて事務所に入る瀬里花。自動ドアではないのは、その必要がないからだろう。中では事務員さんらしき中年女性が、電話でせっせと注文を請けていた。


 瀬里花と目が合うと、お互いに頭を下げる。そして受話器を持っていないほうの右手で、空いている席に座ることを促される。


 席に座ると、バッグを膝の上に置き、辺りを見回す瀬里花。四つほどあるデスクには、社員さんらしき人物が、それぞれの家族と写った写真が立てかけられている。瀬里花はそれらを微笑ましく眺めていた。


「おっ、柊木の会社の子か?」


 野太い声が、事務所の入り口から聞こえてきた。振り向くと、作業着姿の太めの中年男性が、瀬里花を舐め回すように見ていた。


「はい、初めまして」


 名刺を差し出しながら、会社名と自らの名前を名乗る瀬里花。初めての名刺交換かなと思いきや、男は名刺を受け取ると、また瀬里花の名刺と顔とをじろじろ見返すのだった。


「お宅の会社はついにキャバクラ嬢でも派遣し出したのか?」


 瀬里花がこの事務所内で浮いているのは、重々承知していた。


「はい。新しく出張サービスを開始したんですよ? お酒はお客様でご準備していただく必要がありますけど」


 目を細めながら瀬里花が冗談を言うと、男は可笑しそうに笑い、ようやく名刺を差し出してくれた。


 ㈲木下商事、代表取締役木下誠二


 どうやら、彼がここの社長さんのようだ。瀬里花の身の上話など軽く尋問を受けた後、瀬里花は逃げ出すように、例の見積もりを木下に渡すのだった。


 ――あまり聞かれても、ね?


 今やっているのは母の仕事の手伝いではなく、あくまで車の販売のお仕事だ。ましてやあの柊木のお客様だから、後で彼から何を言われるかわかったものじゃない。


「ん、前と同じ仕様でこの価格か? これは税込みか? 何か高くなってないか?」


 ――えっ?


「ちょっと拝見させて頂いてもよろしいです?」


 咲希からは何も聞いていない。いやあえて教えてくれなかったのかもしれない。瀬里花は木下から渡された見積もりに目を通した。


 余分な装備や、値引きが少ないこともないので、金額的にはまずおかしいところはなさそうだ。むしろオプションは少なく、物凄く単純なものだ。ホッとする瀬里花。これなら大して車について突っ込まれないかもしれない。


 ――しかし。


 車名……アーバンエース、バン。


 ――


 普通車じゃないのか。しかもバンとは……。焦りながらも瀬里花は、何とか川野の講義を思い出す。


 通常バンとは、人が乗るキャビンと言われる部分と、荷室が一体になっている商用車ベースの車をいう。これはシルクロードなどで馬やラクダなどを用いて集団で荷物を運ぶ人たちの集まりを、カラバンといったことから語源が来ているという。そしてその中でも、アーバンエースのバンは、使い勝手が良く見た目も商用車としてはカッコよく、熱狂的なファンがいるくらい人気の車種なのだそうだ。しかし、新人研修の時には、見積もりなど作ることもなく、もっとも疎かにされた車種だった。今思えば、きっと川野が苦手分野だったのだろう。なので、当然その生徒たちも苦手意識が出るものです。そして瀬里花は守りに入ってしまった。


「申し訳ございません。実は他に空いているスタッフがいなかったので、急遽私がお客様の元へ参ることになってしまったのです。私自身も、この見積もりで大丈夫と聞いていましたので、安心してはいたのですが、車の内容が今までのお使いの車と同じなのかどうかは、私ではわかりかねるのです」


 怪訝そうに瀬里花を見る木下。


「ん? 許斐さんは車に詳しいんじゃなかったのか? さっき電話受けた女の子が、柊木がいないから他に詳しいものに見積もりを持って行かせるって言ってたぞ?」


 ――真鍋咲希、殺す。


 きっと自分が行きたくなかったから、瀬里花に話を振ったのだ。瀬里花には今それがわかった。


「本当に申し訳ございません」


 頭を下げて陳謝する瀬里花。


「謝られてもなあ。せっかく車の導入を考えていたのに、これじゃあ余所に頼まないといけなくなるじゃないか? 柊木はいないのか? うちの車の仕様はあいつじゃないとわからないぞ?」


「申し訳ございません。柊木は生憎あいにく外出中でして……」


 徐々に追い詰められる瀬里花。


「外出してるのはわかっているが、車の導入を検討している大事な商談で、を持ってこられてもなあ。お宅の会社の信用がなくなるだけだ」


「おっしゃる通りです……」


 瀬里花は何も言い返せなかった。知識がなさすぎて、そしてお客様のことを何も知らない状態で出てきてしまったことで、木下の信用を一瞬にして失ったことがわかったからだ。


 ――辛い。


 何も言えない自分が。


 ――悲しい。


 何でも出来ると思っていた自分が。


 ――逃げ出したい。


 全てなかったことにして、この場から消え去りたかった。


 大きく溜め息をつきながら、肩を落とす木下。瀬里花のミスではないが、これでこの会社との取引がなくなるかもしれないと思うと、瀬里花は胸が痛くなった。


 ――死にたい。


 瀬里花は俯きながら、その目に涙を浮かべてしまった。


 ――そして。


 


「そう、うちの若い子をいじめないで下さいよ、社長」


 


「これでもうちの未来のエースなんですからね」


 瀬里花が顔を上げると、そこにはあの柊木が笑って立っていた。今日だけは彼が少したくましく思えた瀬里花だった。


 


 










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