第19話 武器は違うし重みも違う

 何度あの光景を思い出しただろう。一体何度涙を流したのだろう。見知らぬ天井を見つめ、瀬里花はただずっとその目を濡らしていた。


 ――ああ、またやっちゃった。


 人の死や朽ち果てたものを見ると、時折瀬里花は気絶することがある。息苦しくなり力が抜け、身体に磔にされていたはずの意識が、ぐるぐる螺旋を描くかのように瀬里花から離れていってしまうのだ。きっと姉の茉莉花を失ったことによるトラウマが、そうせしめるのだろう。


「あー、瀬里花良かったー。起きたんだね」


 どうやら未菜が、ずっと側で看病をしてくれていたようだ。彼女のことだ。きっと反対する川野の言葉を押しのけてでも、瀬里花の側にいてくれたのだろう。彼女にはその強さがある。だからこそ、同性にも好かれるのだ。


「うん……ここは?」


上体を起こし、辺りを見回す瀬里花。白いペンキで塗り固められたであろう無機質の壁が、ベッドの上の瀬里花を隔離するかのように囲んでいた。


「えっと昔あった宿直室だって。今はセキュリティーとかしっかりしてるから、もう放置されて使われてないみたい。だから、ほら、埃っぽいでしょー? それにベッドも硬いし、病院からそのまま持ってきたみたいだよねー」


 未菜の大袈裟ともいえる言葉に、ゆっくりと笑みを作る瀬里花。確かに瀬里花の華奢な身体は、硬いベッドに反発するかのように痛みを覚えている。それでもありがたいと思うのは、こんな過去の遺産であっても、ずっと瀬里花の身体を支え続けてくれたことだ。


「でもさ、瀬里花って、本当軽いんだね。女三人でここまで運んだんだけど、ダウンジャケットみたいに軽くてびっくりしたよ」


 確かに背は未菜より十センチほど高いし、体重も恐らく彼女よりは二キロは軽いと思う。もっとも、その体重差の大半を埋めるのが、未菜の武器である大きな胸なのだけれど。


「未菜は胸あるからだよ。それ十キロくらいあるんじゃない?」


「ないない!」


 笑いながらも、即座に否定される瀬里花。そう、瀬里花もそれがわかっていて、あえて意地悪を言ったのだ。実際、未菜クラスの大きさ(推定F)の胸でも、重くても一キロちょいから二キログラムがいいところだろう。残念なことに、瀬里花のそれはせいぜい二百グラムだった。


「他のみんなは研修してるの?」


「流石にねー。査定は大変みたいだから、みんな必死で机上査定してる」


 机上査定とは何だろう。瀬里花の表情を読み取ったのか、未菜がすぐに教えてくれる。


「机上査定というのは、あらかじめ文章で査定に必要な情報が知らされているの。どこどこにカードサイズの傷があるとか凹みがあるとか、走行距離がいくらとか基本価格がいくらとかね。それを査定の教科書を見ながら、減点などをしていって、最終的な査定金額を出すんだよ。今みんな黙々と練習問題やってるとこ」


 あのフレームが剥き出しの事故車を見ないで済むのは助かる。また気絶でもしたら大変だ。しかし、よりによって計算問題か。どう切り抜けよう。


「あ、でも、複雑な計算ないから、私みたいなお馬鹿な頭でもいけたよ?」


 未菜はそう自虐的に言うが、実際には彼女の頭は優秀だと思う。どんな環境でも、上手く適応し、自らのプラスになるようにやりきっているのだから。瀬里花が何かにつけて、彼女をやり手と思うのは、そういった理由がある。


「私が後で教えてあげるから、瀬里花はもう少し横になってなよ。川野さんには、貧血とかって上手く説明しとくから」


 涙で崩れたメイクを想像する瀬里花。横に流れ落ちた涙は、黒い筋を作っていることだろう。こればっかりはいくらマスカラがウォータープルーフでも、防ぎようがない。


「うん、そうしとこっかな」


 そこにいつもの覇気はなく、瀬里花の心はどこまでも沈み込んでしまうようだった。


「うんうん、それがいいって」


「未菜、ありがとね」


 頬を緩める瀬里花に、未菜は嬉しそうに飛びついてくる。彼女は彼女で、やはり猫みたいだなと瀬里花はまた思うのだった。



 翌日から再び研修に合流する瀬里花。昨夜、未菜から秘密のノートを借りたおかげで、すぐに昨日の遅れを取り戻すことが出来た。


「査定は第一に正確さだ。正しい金額をつけることが出来なければ、お客様の信用を失うことになる。そして当たり前に正確な査定が出来るようになれば、次にスピードだ。あまりに時間がかかると、お客様がそわそわし始める。自分の車にどこか悪いところでもあったのかもしれないと不安になってしまう。中には苛立ち査定を止めさせ、その場から帰る人間も出て来るだろう。だからこそ、君たちには、出来るだけ早い時間で、修復歴の見落としをすることなく、正しい査定をしてもらいたい」


 咳払いをして、再び言葉を続ける川野。


「昨日今日とずっと机上査定をしてもらっているが、実際の査定はお客様の実車で行うわけだ。荷物が載っていて時間がかかることもあれば、お客様に事故をしたことがないと嘘をつかれて、査定ミスをしてしまうこともある。当然、この机上査定のように、どこにどんな大きさの傷や凹みがあるなどと、親切に書いてくれていることもない。実際の査定とは、必ずしもスムーズにいくとは限らないってことだ」


 川野も元営業でかつては査定士だったはずだ。彼の過去の実体験が、今、彼の言葉に説得力を与えている。これはそう、経験でしか得られない技術だ。


「実際に先輩方は、どのくらいの時間で査定を行うんですか?」


 それは瀬里花も気になるところだ。気を利かせて、普通男子千秋が、みんなが感じた疑問を川野に尋ねてくれる。


「もし君たちが初めて実車で査定をすると、平気で一時間かかるだろうな。いや、初めてでなくても、数カ月経つまではきっと大して速度は上がらないだろう。だが、先輩たちは、みんな十分から十五分くらいで査定が出来るように日々訓練をしている」


「たった十分かあ……」


 みんな感嘆の声を上げてしまう。それは机上査定でさえ、下手したら二十分ほどかかっているからだ。ただそれでも、幾度となく繰り返していくと、机上査定の速度は自ずと上がっていき、最後には五分もかからないようになった。このペースで実車の査定を積み重ねれば、かなりの速さになったことだろう。しかし、研修期間というものは短いもので、査定の講習が開始されて三日目には、再び本社会議室での研修に戻っていった。


 そして瀬里花たちを待っていたのは、商談を想定したあの営業ロープレだった。







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