第29話 心の中
★
いつから「彼女」はそこにいたの?――数秒前にはいなかった。間違いない。
顔や髪形は麻耶にそっくり。着ているものも同じ。違うのは全身が白い光に包まれて、ぼんやりと光って見えるところ。「彼女」に会いたいと思っていたけれど、この状況はどう見ても尋常じゃない。だって、麻耶は、まるで鏡を見ているみたいに「自分ではない自分」と対峙しているんだから。
ただ、一つ言えること――それは、今の麻耶には「彼女」が唯一の頼みの綱だということ。
「怖がることなんかない。私は『あなた』なんだから。言葉にしなくても思いは通じる。私は『あなた自身』なんだから」
「彼女」がしゃべった――いや、口は閉じたまま。言葉は発せられていない。「彼女」の思っていることが麻耶の心に直接伝わっている。
『あなたね? 麻耶の名前を語って旅館にチェックインしたり、部屋でお茶を飲んだり、お母さんに電話をしたのは』
麻耶は、はっきりとした口調で、知りたかったことを「彼女」に確認した。自分でも驚くぐらい冷静に――それは、「彼女」の言葉が麻耶に伝わったときの感覚を、以前感じたことがあったから。
「その通り。だって、私は『三十分前のあなた』。私を創り出したのはあなた自身。ただ、こんな風にあなたと話ができるとは思わなかった」
麻耶は思わず息を呑んだ。
もう一人の麻耶の正体は「三十分前の麻耶」? 麻耶が「幸せな時間」と呼んでいたもの? 「ほっと・SPRING・れすと」で今岡さんを待っていたときの気持ちが実体化したっていうの? そんなことがあり得るの?――常識で考えれば、あるわけがない。ただ、実際に「彼女」は麻耶の目の前に立っている。しかも、麻耶が心の中で思ったことをすべて把握している。信じられないことだけれど、信じないわけにはいかない。
「信じてもらえたみたいね――麻耶、私がなぜあなたの前に現れたのか、知りたい?」
麻耶が心の中で思ったことは「彼女」に筒抜け。でも、麻耶の方は「彼女」の考えていることが何もわからない。麻耶には「彼女」が「ヒトならざる者」に思えてならない――だからこそ、「彼女」の話を聞くことが重要だって思えたの。だって、ヒトでなければ、常識では説明がつかないような、異能の力を持っていても不思議はないから。
今岡さんがテロに遭ったのと同じタイミングで「彼女」が現れたのは、とても偶然とは思えない。爆弾テロと「彼女」の出現――この二つがどこかで
「ふぅん……そういうこと」
「彼女」は何かを悟ったようにポツリと呟く。
「――あなた、彼と出会って『自分が変わった』と思っているでしょう? だって、今まで男に嫌悪感を抱いて、手を
「彼女」から恥ずかしくなるようなフレーズが発せられる。「彼女」は麻耶自身だから、全てを知っているのは仕方がない。ただ、恥ずかしいことに代わりはない。
「ところで、麻耶――バスの中での時間や待ち合わせの時間のこと、本当に『幸せな時間』だなんて思っているの?」
唐突な質問だった。でも、それについては、麻耶は声を大にして答えることができる。
『当たり前じゃない。今岡さんと会う三十分前は、「これから会える」って思ったら気持ちが
「――あなたがそう思っているだけで、本当は違うんじゃない?」
間髪を容れず、「彼女」の言葉が伝わってくる。
その言葉の意味が理解できない麻耶に「彼女」はさらに続ける。
「――あなたも気づいているはず。本当は幸せな時間なんかじゃなかったってこと。もす少し言えば、あなた自身が幸せじゃなかったってこと」
『な、なにを……そんなことあるわけない! 麻耶は今岡さんと出会って、いっしょに仕事ができて、秋津温泉でデートもできて、今岡さんの夢を応援できて、すごく幸せだったの! 今まで生きてきてこんなに幸せだったことはない! だから、これ以上は何も望まない!
普段今岡さんがいるところは麻耶にとっては「非日常の世界」。そこは麻耶が立ち入ってはいけない場所。麻耶が干渉することは今岡さんにとってマイナスなの――麻耶はそんなことは絶対にしない! 今岡さんが戻って来るのを
麻耶が声を荒らげると、「彼女」はこれ見よがしに首を傾げる。
「あなた、自分の言葉に矛盾があることに気づいていないの?」
『矛盾……ですって?』
「そう。矛盾よ。あなたは、自分が『どうしたいか』じゃなくて『どうすべきか』を言っているだけ。考えてみたらわかるでしょう? あなたたちは、出会ったときから、お互いを特別な存在だと認識していた。そして、手と手が
その瞬間、麻耶の胸のあたりに痛みが走った――「彼女」の言葉が鋭利な刃物に姿を変えてグサリと突き刺さったみたいに。
『だ、だから、さっきから言っているじゃない! 麻耶はそこまで望んでいないの!
必死に反論する麻耶に冷やかな視線を向けながら、「彼女」は首を横に振る。
「何度も言うけれど、私は『あなた自身』。嘘をついてもわかる。それとも、ずっと気持ちを偽っていたら、嘘を正しいことだと思い込んでしまったの?――わかった。思い出させてあげる。どうして『幸せな時間』ができたのかを」
「彼女」は、
まるで雷に打たれたように、
麻耶は大きな目を見開いて、冷えきった空気を吸い込んでは白い息を吐き出す――「麻耶はこんなにたくさんのことを隠していたんだ」って思いながら。
今岡さんと会った瞬間、麻耶たちはベターハーフ――生まれる前は一つで生まれたときに二つに分かれた存在だと思った。巡り合えたことを神様に感謝した。
今岡さんには「愛している」って言いたかった。でも、今岡さんは、麻耶とは住む世界が違う人。いつか自分の世界へ帰るときが来る。それに、後世に名前を残すような、大きなプロジェクトを手掛けて、たくさんの人に幸せを感じてもらうのが今岡さんの夢。麻耶の一言が夢の実現を邪魔することは絶対にあってはならない。
今岡さんから「愛している」っていう言葉が欲しかった。でも、それは麻耶から望んではいけないこと。結局、今岡さんの口からその言葉を聞くことはなかった。麻耶は、仙台の中心から離れた場所で隠れて会う道を選んだ。でも、「愛している」っていう言葉がない密会はとても寂しかった。
麻耶は、自分を寂しい女だと思わないように、「行きのバスの中の時間」、「今岡さんを待つ時間」、「帰りのバスの中の時間」を、それぞれ「幸せな時間」と位置付けた。そして、「自分は幸せだ」って言い聞かせた。何度も何度も言い聞かせた。すると、いつの間にか麻耶は幸せを感じていた。
もともと「幸せな時間」は、麻耶が今岡さんと会えない時間を埋め合わせて、麻耶の不安を取り除くための時間。今岡さんが仙台からいなくなった後、その存在意義は少しずつ薄れていった。それは、麻耶の寂しさが大きくなり過ぎて、埋め合わせることができなくなったから。そして、今岡さんが帰らぬ人となった今――「幸せな時間」は存在意義を失った。
麻耶は、焦点の合っていない目で
不意に一粒の涙が
それは、物心付いて初めて見せる涙――ライトアップの白い光を蓄えた、真珠のような涙が
つづく
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