第30話 幸せの定義


 麻耶の目から大粒の涙が止め処とめどもなく流れ落ちる。

 そんな麻耶を、表情のない顔でじっと見つめる、もう一人の麻耶。


「麻耶、改めて言う――あなたが創り出した『幸せな時間』は、あなたの心の空白を一時的に埋めるもの。半年以上が経って彼からの連絡も途絶えた。それによって『幸せな時間』の存在意義は薄れていった」


 一定のリズムで発せられる「彼女」の声――それは、疲れたときに聴く、静かな環境音楽みたいに麻耶の心に深く染み込んでいく。


「あなたを秋津温泉ここへ連れてきたのは私。あなたと話をするため――理由は、私の存在を消してもらうため。存在意義がのに存在しているなんて耐えられないから……でも、状況が変わった。彼が消えてしまった今となっては、存在意義は

 普段の私はあなたの無意識の領域――深層心理にいて、実体は存在しない。

 だから、『話をする』と言っても、するつもりだった――あなたが小さかった頃、託児所やコンビニでしたみたいに。

 でも、今日、秋津温泉ここで私は実体化した――正確に言えば、『他人に自分の存在を認識させた』。決して、あなたの深層心理から抜け出したわけではない。信じられない話だけれど、あなたの無意識の領域が広がって、秋津温泉をすっぽり包み込んだ。秋津温泉ここは、あなたにとってそれほど大切な場所になったということ。だから、私は今まで通り、あなたの深層心理の中を動き回っているだけ。

 今の私は、物には触れられないけれど、人に対して私の存在を認識させることができる。私を見た人はみんな、私のことを『桜木麻耶』だと認識する――宿泊カードには何も書かれていなかった。でも、カードを見た者に対して、あなたのサインが書かれているように認識させた。部屋に湯呑ゆのみがあったと思うけれど、私はお茶を飲むことはできない。だから認識させた――『湯呑には飲み掛けのお茶が残っていて、口紅がついていること』を。それから、あなたのお母さんへの一回目の電話はあなたに掛けてもらった。あなたが覚えていないだけ。

 私はあなたに会いたくて、いろいろな演出をした。結果として、あなたの中にも、私に会いたいという気持ちがあって、こうして話をすることができた」


 「彼女」の話を聞いて、これまで見えなかったものが見えた気がした。


 「彼女」は普段は麻耶の中にいる――小さい頃からずっと麻耶を助けてくれたのも「彼女」。今の「彼女」は実体化して自由に動き回ることができる。それは、麻耶の無意識が膨張して秋津温泉全体に広がっているから。どうしてそんなことになっているのかはわからない。でも、「彼女」を見た人は、誰も意識体だなんて思わない。


 人は自分が経験したことを全て記憶している。でも、そのほとんどは、自分の意思ではコントロールできない「無意識」の領域に格納されている。人は何か判断をするうえで、全ての記憶を判断材料としている。でも、意識して採用しているものばかりではないから、「思いもよらない行動をとった」と思うことがある――麻耶が秋津温泉を予約したのも、無意識の世界に存在する「彼女」が、麻耶をコントロールした結果だった。


 麻耶が一人で過ごす時間は「幸せな時間」なんかじゃなかった。

 今岡さんのことを、思うように愛することができない自分を「悲しくてみじめな存在」と思わないように、自己暗示をかけて「幸せな時間」を創り出した。


 でも、今岡さんが仙台からいなくなって、さらに、この世からもいなくなったことで「幸せな時間」の存在意義は失われた。そして、「幸せな時間」は、自ら消えてなくなることを望んでいる――「消えてなくなる」ってどういうことなの? どうすれば「彼女」の存在を消すことができるの? 「無意識」の領域にある記憶を完全に消し去るなんて可能なの?


★★


 相変わらず涙が止まらない。悲しい気持ちを収めるすべが見つからない。「幸せな時間」が偽りだったこともショックだったけれど、今岡さんのことを思い出しちゃったから。

 「彼女」がタイムトラベラーだったら、テロが起きる前の時間に戻って過去を変えることもできる。でも、「彼女」はただの意識体。そんなこと、できるわけがない。


 麻耶は今岡さんに会いたい気持ちが押さえきれない。このままだと気が狂っちゃいそう――誰か麻耶を助けて。


「麻耶、私はあなたの力になれるかもしれない」


 「彼女」の一言に、麻耶は虚ろな眼差しで「彼女」を見た。


『……だって、今岡さんは燃え盛るビルの中にいるんだよ? 普通に考えたら助かるわけがない! どうするっていうの!?』


 涙声の麻耶は叫ぶように「彼女」に詰め寄った。


「方法はないわけじゃない。でも、それを決めるのはあなたよ」


 「彼女」は白く光る左手を掲げると、ゆっくりと麻耶の右手に重ねた――とても温かくて心地良い何かが伝わってくる。心が穏やかになっていくのを感じた。

 さっき「彼女」の右手に触れたときは、全身がしびれるような感覚があったけれど、今は全く違う。その温もりは以前どこかで感じたことがある――そうだ。初めて今岡さんの手に触れたときとよく似ている。


 麻耶の中で、今岡さんに会いたい気持ちがさらに大きくなる。


「麻耶、私が望んでいるのは、跡形もなく消えてなくなること。でも、あなたの潜在意識から私の存在を消し去るのは無理。じゃあ、どうすればいいか?――その前に、あなたの想いをもう一度確認する」


 「彼女」は麻耶の右手を強く握った。

 もともと「彼女」は物には触れられない。だから、麻耶がそう認識させられただけ。


「――状況からすると、彼が助かる可能性はゼロに等しい。私は、あなたが期待したような、時間を操る能力を持っているわけじゃない。だから、過去に起きたことをなかったことにはできない。でも、私が消え去る瞬間、あなたの魂を、彼のところへ連れて行ってあげられるかもしれない」


 秋津大滝を見下ろす展望スペースには、耳を切るような、冷たい風が吹いていた。

 でも、そのときの麻耶は、まるで陽だまりの中にいるみたいに、暖かい光を全身に浴びているような気がしたの――麻耶の脳裏には、今岡さんと過ごした二年間の思い出が次々に浮かんでいた。


『麻耶は今岡さんなしでは生きていけない。今岡さんがいない世界で独りぼっちになるのは死ぬよりも辛いことだから……今岡さんに会えるのなら――地獄にだって行く』


 麻耶は決意を込めた、真剣な表情で言い放ったの。

 いつの間にか涙は止まっていた。


「あなたがこの世からいなくなれば、私も消え去る。そして、私はあなたを彼のところへ導く――これで、私の『思い』もあなたの『想い』も同時に満たされる……こっちよ。麻耶」


 ライトアップされた大滝の方に身体を向けると、「彼女」は麻耶の右手を引いて展望スペースの端の方へと向かった。

 展望スペースの端には、柵と柵の間に、細身の女性や子供なら通れそうな隙間が空いている。柵の向こうは断崖絶壁。高さは五十メートル以上ある。


「麻耶、柵の向こうにあるのは、あなたが望んだ世界。二十四時間三百六十五日、ずっと彼といっしょにいられる世界。誰にも邪魔されず、あなたたちは一つになれるの――心配しなくていい。私があなたを幸せにする」


 麻耶は穏やかな表情を浮かべると小さく頷いた――「彼女」の言うとおりだと思ったから。

 身体を斜めにして隙間を通り抜けると、麻耶と大滝をさえぎるものは何もなくなった。目の前には、雄大な瀑布と艶やかな紅葉が収められた絶景が広がっている。


「麻耶、行くわよ――本当の『幸せな時間』へ」


 「彼女」の声に、麻耶は満足げな笑みを浮かべたの――美しい光を放つ秋津大滝を真っ直ぐに見つめながら。


 つづく

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