第8話 路線バス



 押入れから白いキャンバス地のトートバッグを引っ張り出すと、着替えやメイクセットを詰め込んだ。一泊でも持って行く物は結構あってバッグはほとんど満杯の状態。

 荷物を詰め終わると、麻耶はしげしげとトートバッグを見つめて小さくため息をつく――半年前までは毎週使っていた、お気に入りのバッグもここ最近は出番がほとんどなかったから。


 そんなトートバッグを肩に掛けて家を出たのが午後四時前。仙台駅まで二十分歩いて、駅からは「秋津大滝」行きの路線バス――普段なら目的地まで一時間もかからないけれど、紅葉シーズンは時間が読めない。



 温泉に向かう道は、観光客を乗せたバスや乗用車で埋め尽くされてノロノロ運転が続く。普段の倍ぐらい時間が掛ることもある。観光協会が発行するパンフレットの「秋津温泉」の欄に「仙台駅から車で五十分から二時間程度」といった、曖昧な記述がされているのには、そんな理由がある。


 バス停の名前にもなっている「秋津大滝」は、仙台の奥座敷・秋津温泉の近くにある、高さが五十メートル以上ある滝で、日本の名瀑の一つにも指定されている。

 この時期になると、滝の周りは色鮮やかな紅葉でいろどられ、無数の白糸を束ねたような滝の水と、原色を散りばめた、目にも鮮やかな紅葉のコントラストが幻想的な雰囲気をかもし出す。

 さらに、夜間はライトアップがされていて、夜の暗幕にくっきりと浮かび上がる紅葉は昼間とは異なった趣がある。観光客は昼と夜とでそれぞれ違った風景を堪能することができるってこと。ライトアップが口コミで人気になって、この時期は泊りで訪れる観光客が圧倒的に多い。地元としては、まさに「紅葉様様」といったところじゃないかな。


 そんなわけで、普段は一時間に一便しかない路線バスもこの時期は増発される。とは言っても、朝夕を除けば一時間に二便。乗り遅れたら三十分は待たなければならない。



 仙台駅のバス乗り場には切符を買い求める行列ができていた。

 麻耶は、営業窓口で名前と電話番号、それに予約番号を伝えて切符を受け取った。予約しておいたのは正解だった。


 バスに乗って最後部の窓際の席に腰を下ろした。

 トートバッグを膝の上に置いて車内をグルっと見渡すと、車内は満席状態で、あちこちから子供の声が聞える。まるで遠足のバスのように騒がしく、普段とは乗車する人の数も顔ぶれもかなり違う。やっぱり、この時期はいろいろな意味で特別みたい。


「それでは、秋津大滝行き発車いたします」


 運転手のアナウンスとともに、バスは定刻通り秋津大滝へ向けて出発した。

 思い出したように、麻耶はトートバッグのサイドポケットのファスナーを開ける。そして、プリンターで打ち出した、宿の予約票があるのを確認する。今夜泊る宿は「秋津流水館」――部屋数が二十ぐらいの昔風のこじんまりとした旅館。ここを選んだのには二つの理由がある。

 一つは、建物の裏手がちょうど秋津大滝で、部屋から素晴らしい景色を楽しむことができるから。昨年も一昨年も紅葉のシーズンが来る前に同じ部屋を予約した。そして、プライスレスな時間を満喫した――それがもう一つの理由。


 窓の外に目をやると、秋晴れの青空はいつの間にかオレンジ色に変わっていた。少しずつ黒い雲が広がっているのは、夜がすぐそこまで近づいている証拠。

 不意に、脳裏に「彼」の顔が浮かぶ。麻耶はトートバックの持ち手を、両手でギュッと握り締めたの。すると、それが何かの合図であるかのように、当時の記憶が鮮明に蘇ってきた。


★★


「東北事業本部担当部長の『今岡恒彦いまおか つねひこ』と言います」


 八月一日午前十一時。会議室に整列する麻耶たちの前に、サン&ムーンのスタッフが何人か現れて挨拶をした――麻耶たちが初めて「黒船」の乗組員に接触した瞬間だった。


「――これから皆さんの仕事のやり方は大きく変わるでしょう。それは会社が別の会社に生まれ変わるのですから、仕方のないことです。最初は戸惑うこともあるかもしれません。でも、安心してください。仕事のやり方を熟知しているスタッフを何人か配置します。わからないことがあれば遠慮なく訊いてください。訊くのは恥ずかしいことではありません。知らないのは当たり前のことです。逆に、訊かずに知らないでいることは、とても恥ずかしいことです――訊いて、学習して、実践して、一日も早く仕事に慣れてください」


 最初に挨拶したのは、事業責任者である担当部長。年齢は何と三十五歳。「部長」と聞いて、定年間近の枯れかけたおじさんを想像した麻耶にとって、それが最初のカルチャーショック。


「――東北地方でサン&ムーンの事業が成功するかどうかは皆さんのがんばりにかかっています。そのことを十分認識していただいて、それぞれがすべきことを精一杯がんばってください。本来であれば、しばらく皆さんを缶詰にして一斉研修を行いたいところですが、ご存じのとおり、コンビニは二十四時間休みなく動いています。キーマンである皆さんがいなくなったら、お客さまに満足のいくサービスは提供できません。そこで、各店舗にサン&ムーンで店長経験のあるスタッフをスーパーバイザーとして派遣することで、OJTオージェーティーOFF-JTオフジェーティーを組み合わせた研修を行います」


 細身の身体に上下ダークブルーのスーツ。顔は面長で優しそうな笑顔が印象的。真ん中で髪を分けて前髪を自然に垂らしている様は「二十代後半」と言っても通用しそう――ただ、その自信に満ちた、説得力のある話しぶりからは、二十代や三十代といった印象は全く感じられない。


「――これから二、三ヶ月はかなりハードになります。通常業務が終わった後や休みの日も研修が入ります。休みらしい休みはないものと思ってください。ただ、この研修プログラムを成し遂げたとき、皆さんはサン&ムーンを担う、貴重な戦力となります。そんな皆さんをサポートするため、僕もこちらに滞在してできる限り現場を回らせてもらいます。いっしょにがんばりましょう」


 挨拶が終わった瞬間、麻耶の中に心地良い何かが残った。

 それは、今岡さんの話がとても惹きつけられるものだったから――温かい雰囲気を漂わせながら、一つ一つのフレーズに説得力があって力強さが感じられたから。

 前から三番目の列の端に立っていた麻耶は、大きな瞳で今岡さんのことを食い入るように見つめていた。そして、お気に入りの音楽でも聴くように話にジッと耳を傾けていた。


 今岡さんは終始穏やかな笑みを浮かべていた。ただ、優しいだけの紳士じゃなくて、やっぱりサン&ムーンの新事業を統括する責任者だった――なぜって? だって、挨拶をしているときの優しい瞳と、悪意を持った社員に対峙するときの厳しい眼差しが、同じ人のものとはとても思えなかったから。


 つづく

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